第28話 最後の記事

文字数 2,111文字

 今日はピアニスト、とは言っても昔の、名前に錆びた冠が付くくらいの音楽家の取材の仕事だ。名が馳せた頃も名が折れた頃もうちの雑誌社では彼女の担当は私だった。
 日本の小さなピアノメーカーぐらいしか資本の無い我が社だが、彼女の記事の載る月は売り上げが良かったのでボーナスも内緒で少し多めに貰っていた。久し振りに会うので取材の後、食事にでも誘おうかと思って、いつも少食の彼女の為に懐石料理屋を予約していた。
 最近の彼女の身辺は落ち着いていて、夜の湖のようだった。その湖畔に一石転がし、ご機嫌伺いを立てよう、玄関のチャイムを鳴らした。その時と同時かちょっと遅いくらいに彼女はベランダから飛び降りた。

―――後から考えますと今、この記事にこんなことを書くのも可笑しな話でございますが、また読者の皆さんに大変申し訳ない話でもありますが、自身の至らなさも加味の一縷やも知れぬと書き損じております。以前、彼女が一度自殺未遂をした時は、自分の仕事ではない、と半分筆を投げながら書いたものですが、些かくだらない週刊誌のようになってしまいました。今更謝罪いたします。

 皆さん、ご安心を。彼女は自殺した訳ではありません。事実、取材のついでを兼ね、彼女の身辺を調査しましたところ、マンションの隣室の住人が事の次第を話してくれました。ベランダで彼女との談話中、隣人の半年になる子どもが何かの拍子に落ちそうになり、それを支えて、自分の身を身代わりと、彼女の命日に相成った訳だそうです。

 自身も些か納得はしていないところはございます。しかしそういう事情の今回の記事となりました。今号でこのシリーズを結ぶに当たり、いつまでもいつかの、スカンジナビアのそよ風、に耳を振り返らせながら、友人まがいの気づかいで故人ご迷惑のほどと思いながらも、また彼女の熱心なファンである皆さん方とこの残念至極なステージロールを胸に分かち合い、手持ち無沙汰の耳を寂しがらせております。どうか彼女を忘れないでください。そして如何としてもこれまでの彼女に途方に暮れないでください。草々―――

自筆文の自堕落の文書だ。

 嘘もつき慣れてくると俄かに鼻にムズ痒いものでもある。彼女は間違いようも無く自分の命と引き換えに音階を踏み違えたのである。それは事実、隣人の証言や、遺書にも似た書き殴りの日記帳からも明白であり、ソの音が違和感を持たせた演奏法や楽曲の由縁、人知れず半音外してピアノをかき撫でるのも名人芸の一つであったからである。

 確かに、彼女は子どもを欲しがっていたし、親切と言うよりは何かの使命に駆られて人助けをするタチであった。嘘吹くのも得意、善なれ悪戯なれ、人を面白がらせ自分に興味を持たせる達人であった。魅力的、と結ぶのを自分は酷く嫌った。事細かに所作を盗み文にしたためた。その為、自分の彼女への気持ちを、正確には一緒に省いた文体を主とした。
 読者の愉しみごとと言えばカノジョの音色豊かな(日常)を追うことであり、そこには市井染みた真実味が在ってはならない。よく冗談で死を仄めかした。それも格好のスキャンダルの餌であり、私だけの知るところであった。

 大家が鍵を開け中に入るとバラバラのピアノ弦がソファにぐるぐる巻きにされていた。楽譜が散らばりレコードが割られ、電子ピアノは無残に破壊されていた。人間らしいところと言ったら酒の空き瓶が無数に転がっている流し台だけであった。コツンコツン、蛇口の締りが悪かった。
 警察も事情聴取で私に色々尋ねてきた。カノジョの最後の曲に間に合わなかっ たこと、彼女の最近の生活風景も思うには存分には事足りていなかったこと、自分の二重人格のような、それも彼女の最後の悪戯かもしれなかったが、辻褄の合わない問答が延々繰り返された。まず疑われたのは自分だった。彼女の部屋の中の違和感、サボテンが枯れ、エアコンが弱、カーテンが明るい水色に変わっていたが、そこは黙した。

 部屋の壁には彼女の唇には見なかった色のリップスティックで戸或る楽譜が描かれていた。恐らくあの曲だろうな、と思ったが知らないフリをした。それとは別に、血で、続らくタイトルが殴り書きされていた。彼女が安定剤を飲んでいたこと、レストランで働いていたことなぞは話した。なるべく丁寧に、分かり易く簡潔に。自分ひとりで彼女の物語を描くのは無理だし、我儘が優先すると想ったから。
 ほんとと嘘が入り混じり合って形成すのに、それからほとぼりが冷めるまで一ヶ月掛かった。

 雑誌社を辞めた。誰のせいでもない。自分の為に辞めた。警察の話でもどうやら自殺ではないらしいから安心してカノジョの一ファンに落ち着こうと思う。午後四時のショットグラス、春、一息に飲み干し、暖かさは、このぬるさは時に過酷、カノジョの言わずもがな知れた今日のあの曲を聴き耳を辛がりながら窓を開けて眠ろうと思う。
 哀しい疲れが漂った。気持ちいいな、こんなに心の穏やかな日はないな、と呟く。一人でいる時もこうやって嘘をつけるのは本当に大切なものが色褪せることのないように。そう、本当に世界に有意義であったものが未来永劫、決して失われることのないように。



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