第17話 僕の耳と彼女のつぶやき

文字数 1,981文字

 聴覚障害者にしてみたらこう文章に書き残すことしか出来やしないが、耳に残らずとも心に残る他人の鼓動をここかどこか、音楽とは何たるや、その意味を戸或る若きピアニストの演奏会で経験することが出来た。

 この施設には誰も使っていないグランドピアノが一台据え置いてある。昔どこぞかの金持ちが寄贈してくれた物らしいが、埃が被り、「ピアノがあるね」、それ以上もそれ以下も存在意義が無かった。私にとっては縁遠い、大きくて重い、黒い塊が大変不気味に思えた。夜眠れずに館内を散歩している時に見かけると際立って気味の悪さを覚えた。

 或る時、施設の掲示板に「2/11 ピアノ演奏会」と書かれていて、やはり興味は湧かなかったが、あの黒い変哲な塊が一時でも造られ生まれた意義を持ったところが見てみたいと思い、週に二、三度はカレンダーを気にした。

 演奏会当日、皆がそわそわして談話室で飲む緑茶の緑色が次第に薄れ、別の興味へ移っていく。健常聴覚者の一人が五十分前から遊戯ホールの一番前の席を独占し、
「変わり者の若い音大生がドボルザクをピアノでアレンジする」
そういうキャッチで、彼女への好奇心や、小さなブーケ、お茶菓子の類がパイプ椅子にてんこ盛りになり、催事に既に満足感を感じている者もあった。この時に思った、「ふーん、つまらないな」、この感覚は未だに変わらず私の胸が音の支配から抜け出すのを突き動かしている。

 中庭のロータリーに車が一台停まり、手配人が近付くと、一人の華奢な女の子が降りてきた。二人の唇は何かにはしゃいでいるよう、忙しなく動いた。ピアニストはまだ晩冬早春だと言うのに薄着のジャケットの中にはTシャツ一枚。読唇術の得意はここに在り。咳をしているのは前夜の酒宴で酒に呑まれタクシーで此処まで来るのに不慣れな煙草って奴の煙を狭い車内で喉に痛ませたとのことだった。そう唇を読んだ。
 サナトリウムの庭には緑が生い茂り、整備されたレンガ詰めの歩道に足影が颯爽と闊歩して行くのに、思い勝手な足音とか言うものを風から想起した。彼女が口を尖らして口笛吹くのに真似して私も口を尖らした。さてさて、――見物――だな。

 彼女、ぴあにすとはにこやかに皆とお茶とお菓子で三十分談笑して、いざ、ピアノの前に座ると、何故か楽譜を閉じた。
 何を弾くのか、私にはどうでもいいことだが、見てみると赤ん坊の呼吸が始まるようになだらかに指が動き、くすくす笑いながら白鍵と黒鍵を行き来した。遊戯ホールの熱が次第に沈み程好く暖かく、カーテンから零れてくる陽光がその曲調に合わせ、影まだらを物狂わせていく。勿論聞こえないが隣の席の白ステッキが心熱くなったのか目尻に白玉のような雫を溜めているのを目の当たりにし、一生聴ける事は無いだろうが、諦め期待半分ずつ、その弾き手の女の子の類無き季節の訪れを今にも待ち侘びた。

 その時が来た。ピアノを激しく叩きつけるように弾き流し、首の後ろに長い黒髪をぐるりと手繰り、降霊の一種か、この無感動な耳にも何か聴こえるんじゃないのか、肺に伝わる振動が脳の奥底から来る快感と結びつき、今にも立ち上がって叫びだしたいような衝動、心臓をドンドン叩かれて、自分も殻を破り何かを伝えたい衝動で、肩が震えるのを必死に抑えた。ピアニストはその自分の特異性を縦横無尽に世界を闊歩して伝えまわるのだろう、世界もそれに応えるのだろう。しかしこの耳には何も聴こえない。それは私達側の言い訳だ。ピアノが在る。其処に彼女は居る。その得体の知れない物への子どもの好奇心のような発作が収まるのには、彼女が帰る、その必要があった。

 今はもう動かないピアノ、「しーん」、こういう時に遣う言葉であろう。彼女に何か伝えたくて、皆が手を振る別れの最中、一人駆け寄り恥ずかしげも無く言葉を掛けた。
「(たぶんこう言えた)ありがとう」
彼女は察して。ちぐはぐな手話で、友達ね、本当、また、何処かで。
 私の耳が聞こえないのも、彼女が手を擦りながら四葉のクローバーを探して私にくれたのも、微笑み、全て受け入れては側から流す、神様の我侭なのだ。得体の知れない物を恐れるでなく興味欲しがる、そこに私も人並みに立てた様な気がした。

 彼女はタクシーの窓を全開で手を振ってくれた。運転手は逸りも気後れもせず無難に仕事をこなした。その去り際、私の目には彼女が運転手に、「急いで」、独り言で「ピアノを」と。

 読唇術の行方はいつの日かテレビの中で彼女が演奏後、小さな口で「終わり」と告げたのを見逃さなかった。しかしそれを誰に教えるでもなく、耳に恨むのに夜が怖ろしくて、カーテンに閉じられた薄暗さと毛布の優しさだけが晩年の私の拠り所となった。
 興味の一種に「怖い物見たさ」とあるが、その一粒のタネを私はサナトリウムの花壇に埋め、健常である目ももう必要のない物とした。



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