第22話 断末魔にたゆたうラフマニノフ

文字数 2,559文字

 人殺しと結婚詐欺、女に酷なのは如何な場合でも命にも代え難き無償の愛を算盤に換算された時だろう。私は殺人犯の方だった。恋愛に関しては未熟な、ただの大量殺人犯だった。此処では死刑囚として扱われ、名前の代わりに番号で呼ばれている。

 73番、op.73、慰安会の催しは今日で三度目。落語と手品には興味はなかったが、クラシック音楽、暗雲の先の見えない生活、いつ絞首刑の日取りが決まるか、法務省の気紛れに開き直った無法者は唯一の趣味であった、そしてまた犯行時にもイヤホンで聴いていたラフマニノフを聴けるというのだから一日に一本支給される煙草を今日、慰安会後の休憩時間に優越感と共に吸おうとこっそり靴下に三本隠し貯めていた。

 くだらない演奏だったら裏切られた期待で晩御飯を吐くだろうし、平淡な見世物で終われば煙草も一本で収めたろう。しかしそのどちらでもなかった。食事やニコチンよりも、この死ぬ間際に、生きる、厳密に平たく言うと、生きていることの喜び、を知ってしまった。

 番号仲間達とワイワイ談笑しアンパンと牛乳を手で弄びながら演奏家を待った。演奏家はどうやらまだ学生で、一つ二つの小さなコンクールの受賞歴はあるらしいが無名の、良いところのお嬢様らしい。何を間違えてこんな所にピアノを運んだのか、看守は必要以上に険しい顔をしてステージの前でがっしり腕を組んでいた。

 時間になり幕が開き、品の無い野次を浴びながら現れ出でたのは見ているだけで心安らぐ清楚な微笑の女の子だった。その子がピアノに着き鍵盤をなぞるとけたたましい喧騒で溢れていた会場が静まり返った。彼女の佇まい、子どもから大人、時代から時代への通過儀礼を見るようにも思えたその瞬間、ピアニストは喉に息を溜めた。

 そして音楽がクレシェンドで荘厳に流れ始めた。一瞬も永遠に想えるほど面白いように時間を盗まれた。目で見ているものや手に握り締めた餌が、自分さえ全くの架空物で在るかのように、程なく永久に奪われる大切な時間を無遠慮に半ば横暴に強奪された。
 それはもう此処に居る者たち全て、化学兵器のあられに全滅させられ、歴史上の大事件に名も載らぬ被害者として土底に埋もれさせられた。人間扱いされなく、夢や希望も一縷のゴミクズのくせに、一ちょ前に足や肩が震え、呼吸や心音が懐かしい物と思わされた。

 三十分の演奏の後、彼女が手を膝に置き深く溜息を吐くと、惜しみなき拍手や歓声が館内を怒涛のように埋め尽くした。右隣の23番が涙を流しながら「まだ間に合うなら、もしまだ許されるなら、子どもたちを探しに行こう。行くんだ」と憤りながら洩らした。やつはリストラに遭い一家離散で自棄に為り、公園でダンボールに火を着けてホームレスを焼き殺した殺人犯だ。目の前の席の奴は計画強盗の常習犯で、「例えどんなことをしても入場料を払いたい。また聴きたい。聴きたい」と呟き震え、左隣、真後ろの席の奴らは軽罪の模範囚なりに大声で叫んでピアニストに賛辞を送っていた。彼女が立ち上がり頭を下げると一際大きな歓声が上がった。しかしその中で私一人は只立ち尽くしているだけだった。

 だからだろう、彼女は私に気付き小さく手を振った。命は沢山在る。限りなく浪費されていく。そしてその一端を買い出た衝動的な愉快犯だ。この瞬間だけは喉の奥から来る衝動を抑えず、母から生まれた喜びと、自分が捻ってやった沢山の命への葬念を全身の血管全てを以って、もの言わげに其処に立った芸術って、そいつにに「殺してくれ。生まれても来なかった事にしてくれ」と、発狂するような血の蒸発、頭から脳髄を吸われ、意識も耳から遠のいていく。

 はっきりと憎んでいた生まれ故郷の町並みが暗夜にぼんやり沈んでいく。周りが五月蠅くて例えどんな大きな声を出してもどうせ声は届かないだろう。呼吸を深くし、衿を整え、同室の囚人に教わった手話で「ありがとう」と告げた。彼女が手話で「こちらこそありがとう」と返してきた。

 ピアニストは何も言わず微笑んで軽く頭を下げて舞台袖に消えて行った。

 ウワサではその後、世界指折りの音楽家になり、世界中を飛行機で飛び回り人々に歓喜を与え、その演奏でわれわれを救ってくれているらしい。永劫、私が死ぬその時までの遠く、彼女の笑顔が我々の笑顔でもあるように祈り、口座の乏しい預金をいつかまたあの演奏を聴く機会があったら、なんて、儚い夢に惑いながら階段を上る足音が彼女の演奏の邪魔をしないか、罪の深さを、その許せなさを自分に許さず、看守に番号で呼ばれた際、凛然と自分の本当の名を告げた。

 その三日後、執行日が取り決まり、私は心地よい耳鳴りに悶えながら恋心にも似た感情を胸に押し殺し、救いたまえ、と彼女の成功と幸福を祈った。眠れない夜に鉄格子の隙間から風の音を聴いた。退屈で、欠伸が逆に眠気を邪魔しているように思えた。

 階段の一段目は得体の知れない初めて見る建物『ド』を、二段目にやっと懺悔『レ』、三段目以降はスキップをして『ソ』。そこまで来ると真っ平らな平原にしか見えなかった。途方もなく広がる平面、楚歌の光景、もう恐れることもなく人で在ることを諦めた。

 執行者が最期の言葉を求めたが、
「一言では了わらない。」
吊るされたロープに首を掛けられる寸前、おこがましく普通の女の子に恋をした冬がまるで春の野原のように縦横に体の緊張をほぐした。「死ぬんだね」

 何処だか知らない国で彼女の演奏と気持ちはいつか歩調を合わせて、踊るような旋律に涙が、複雑な嬉し涙が意味も無く周りを面白がらせたので、取り合えず会場が静かになるまで待った。唐突に誰かが弾いた『ショパン』が流れた。気は利いてるが退屈で、三人居る執行人を見回したが誰も目を合わせなかった。

 三人の内の誰かしらはあの慰安会の救済を再び受けるだろう。羨ましかった。罪のない人々を殺めた罰を、必要十分で身一つの罪悪感の中、不足や割に合わないものを日常となだめ、咎の泡水がぷちんとぶら下がった。白濁に意識が遠ののいていいく最中、大好きだだったラフマニノフの第三番を少しだけ嫌いになったた。最期に、最期にに、私が殺した方々や遺族の方々に謝罪を述べるべきだろううろと浮かんだだが、その自由もがもが、ぱっつりとと遮断されたた。



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