第8話 孤独な放浪者

文字数 1,606文字

 気違いにも色んな種類があって、その一つに夢遊病がある。眠っていながらも何かに取り憑かれて、記憶の無い所作を施してしまうというものだ。そういう意味で彼女の失敗は目覚めの悪いものであったろう。芸術とは単なるエンターテイメントの一種ではない。常に孤独と闘う自分の中での核戦争のようなものだ。彼女のその名演奏の陰に常に失われて逝くものが在るのも、ピアニスト以外の顔も、どちらが良いとは言えなかったが、この四年、彼女を診てきた中で、私も戦いの舞台に放り出された。

 彼女が目を覚ましたのは三日後、私が宿直している夜中のことだった。病室からガタゴト音がするので覗いてみたら、部屋中を歩き回りながら一心に空盤を弾く彼女がいた。声を掛けても届かず、抱き抱えると折れそうに、その晩はベッドに縛り付けて傍に居てあげた。何かをしてあげられるから医者になった訳でもなく、何かをしてあげたいから医者になった訳でもない。でもその時は違った。もう治らない彼女の左手を握り締めて、静かに泣いた。

「ごめん」

と謝った。正しく言えば私だけのせいではなかった。でも、真っ先に言う立場であったと、ヒポクラテスの誓いを自らに説いた。彼女はうつら言に一人の日本人男性の名を呟いた。それを数えると次第に眠くなっていった。そして眠った。

 翌朝、看護士に起こされると、窓際のカーテンの傍で彼女が伸びをして薄ら笑っていた。
「先生。お陰様で。」
寝惚け眼で、白衣を正し、
「もうピアノは済んだのかい?」
「そうね。先生にだから言うけど、これからなのよ。」

 彼女の背中は逞しかった。昨日の夜とは打って変わって、圧縮されれば弾けるバネのように、揉みくちゃにされても形を取り戻すゴムのように、自由気ままに後のスケジュールを相談された。夢や希望が溢れ出て、子供が欲しいとか、南国に住みたいとか、こちらの心配を全てはぐらかした。

 閉鎖病棟を抜け出してパジャマ姿で信号無視、スキップで喫茶店に入って、看護士に捕まる。サンダルで息を切らして迎えに来た私に、吸えない煙草で咳をして、
「アイスクリームが食べたくなっちゃって」
とベロを出した。

 三ヶ月のリハビリが済み、彼女は笑顔で会釈をして朗らかに去って行った。その後も外来に訪れていたが、ピアノを再び弾き始めたと聞いた時は何て言ったら良いか分からなかった。彼女は少しずつ交友関係を話してくれたが、あの名前は出てこなかった。彼女のファンであるという別の患者さんにそれとなく聞いたところ、二年前に同じ名前のマエストロが交通事故で亡くなったらしい。点と点を線で結ぶのに机上は狭かったが、医療仲間のコンパで彼女が以前堕胎した話も小耳に挟んだ。

 古びれた立ち呑み屋の有線で古い曲が流れ、彼女が以前、笑いながらヌイグルミを必要以上に抱き締めてたな、その後、ヌイグルミに何て名前を付けてたっけ、一歩一歩核心に近付いていくのが怖ろしくて、今日はもう酔っ払ってしまおう。

 次の日の休憩時間に煙草を吸っている時、ふと、彼女の戸或る一部の懐古への執着性に反して、彼女の口癖に「いいわ」「いいよ」「そんなものだもんね」なんて現在への従順な同調性があったことを思い出した。実は知っていて、何かに気付いていて、でももやが掛かってその先に少しずつしか踏み込めない。しかししばしば無抵抗にゆっくり進む。そのうち前に進んでいるのか後ろに進んでいるのか分からなくなる。暗がりをゆっくり進む。春の散歩は気楽に来た道を振り返り、ぼやけた景色に足取り任せ、喩え寒い国でも肺の深くまで呼吸を行き渡らせる。その歩数にして二億三千万歩。行き着く先の判らないまま、思い出すのか忘れるのか意にそぐわず、最初の一歩を危うんでいる。思い出す速度感覚が人とは違う病気も在るものなのか、趣味でつけていた自分のカルテに「ポコ・ア・ポコ物忘れ症候群」と書き加えた。あの日ひったくった煙草を噛んで火を着けた。



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