第75話 新しい感情

文字数 1,003文字

 みんなでお茶を飲みながら一休みした後、寿司が届く前に部屋着に着替えようと思い、紗代は自室に向かった。
 
 階段を上がりながら考える。自分の部屋に入るのは何ヶ月ぶりだろう。
 
 洋館の部屋とは比べものにならないほど狭くて質素だけれど、小さい頃から長年使い慣れた部屋だ。今夜から、またこの部屋で寝られる。
 
 だが、懐かしい気持ちでドアを開け、壁のスイッチを押して電気を点けた紗代は凍りついた。部屋の真ん中に、あの日、紗代が割ったはずの古い姿見がこちらを向いて置かれている。― Fin ―
     ◆
     
     
 久しぶりに家族がそろい、出前の寿司を食べるという。
 
 僕たちと同じだ。そう思い、ハッピーエンドにほっとしながら読み進んだ真名人は、最後の一行を読んでぎょっとした。
 
 やっぱりこれは、ホラー小説だ。割れて、捨てたはずの鏡が、元の状態で紗代の部屋にあるなんて……。 
 
 鳥肌が立った腕をさすりながら、真名人は考える。ホラーだけれど、でも。
 
 
 そうだとしても、真代は、やはり紗代の一部だということなのではないか。真代は、つまり真代が棲む姿見は、自分の中にある、認めたくない感情や、ドロドロした部分の象徴でもあるのだ。
 
 だが、それらも含めて一人の人間なのであって、きれいで明るいだけの心なんて、きっとあり得ないのだ。これは、そういうことを描いた小説なのではないか。
 
 きれいなものも汚いもの全部抱えた上で、人は皆生きて行くのだ。
 
 
 真名人は、ようやく読み終えた本を閉じて、ベッドサイドに置く。
 
 「フォレストガール」の作者は知らない名前で、作品を読んだのは初めてだ。もっとも、真名人の今までの読書量はそれほど多くないし、作家に詳しくもない。
 
 でも、小説ってすごい。言ってみれば作り物で、一人の作家の頭の中から生まれた想像の産物でしかないのに、読んだ人の心を揺さぶったり、考えさせたり、影響を与えたり。
 
 
 真名人の胸に、新しい感情が芽生えた。自分でも、いつか小説を書いてみたい。
 
 でも、その前に、もっとたくさんの小説を読みたい。そうしなければ、きっといい小説は書けないだろう。
 
 世の中には、数えきれないくらいの小説がある。中には、読んで辛い気持ちになるものもあるだろうが、それでも、読めば何かしら得られることがあるに違いない。
 
 真名人にとって、「フォレストガール」がそうであったように。
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