第31話 「南川さん」

文字数 976文字

 朝から雨が降っていたある日、家族はリビングルームに集まり、思い思いに過ごしている。母はソファに座って趣味の刺繍をし、啓希は床に座って、テーブルの上にスケッチブックを広げて絵を描いている。
 
 紗代は、ウォークインクローゼットの奥で見つけた、祖母のものだと思われる、古いファッション雑誌を手にしながら、啓希のスケッチブックを覗き込む。
 
 
     ◆
     
「何を描いているの?」

 啓希は、顔を上げないまま答える。
 
「妖精だよ」

「へぇ」

 紗代は「妖精」と聞いて、透き通る羽の生えた可憐な少女の姿を思い浮かべたのだが、濃い鉛筆で描かれている途中のそれは、尖った耳と鉤鼻を持った、どちらかというと妖怪と呼びたくなる生き物だった。
 
 
 とはいえ、それはとても生き生きと描かれていて、鋭い目は紗代を射すくめているかのようだ。
 
「上手だね」

「へへっ、そう?」

 啓希が、鉛筆を握る手を止めて、こちらを見た。
 
「お姉ちゃんも何か描いたら?」

「えぇっ、私はヘタクソだもん」

「そんなことないよ。――はい」

 止める間もなく、スケッチブックのページをペリペリと切り離してこちらによこす。観念して、紗代も向かい側の床に座った。
 
「何を描こうかな……」

 啓希のペンケースの中から鉛筆を取り、なんとなく紙の上に滑らせる。蛇行する線は、やがて波のように動き出す。
 
 紗代は連想する。波、水しぶき、鏡池、池に映る自分、それから……。
 
 
 啓希が、手を動かしながら言った。
 
「そういえば、南川さんは美術部だったっけ」

「……え? 誰?」

 ポカンとしている紗代に、啓希が顔を上げる。
 
「南川さんだよ。お姉ちゃんの友達の」

 その名前に聞き覚えはない。友達だというけれど、そもそも私に友達なんていただろうか。
 
 
 黙っていると、啓希がじれったそうに言った。
 
「一度うちにも遊びに来たじゃない。ねぇお母さん」

「そうね。でも、その後で引っ越したのよね?」

 母は紗代に、同意を求めるように微笑みかける。だが、紗代は困惑する。
 
 いったい、なんの話? なんで二人して、わけのわからないことを。
 
 
 首を傾げた瞬間、不意に視界が揺れる。
 
 そして突然、脳裏に浮かんだのは、こちらを見つめる制服の女の子。悲しげな表情。あなたが……? 
 
 自分の意思とは関係なく、手から、ポロリと鉛筆が落ちた。
 
     ◆
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