§06 「エピジェネティクス」

文字数 3,883文字

 私たちは産まれてすぐ、地元の国立大学のある研究室に連れて行かれました。もちろん最初のころのことはまったく覚えていません。そこはいわゆる双子=双生児を研究しているところで、後から知ったことですが、全国のいくつかの国立大学が連携して実験データを集めていました。つまり、私たちは二卵性双生児のサンプルだったわけです。
 私たちの叔父が――母の弟にあたる「池内家」の長男ですが――県議会の厚生委員会のメンバーだったことが、私たちが研究室に連れて行かれることになった理由だと聞いています。ただ、私たちの父母はふたりとも高校の教師でしたし、東京にいる叔母は医学博士でしたので、叔父の存在だけが理由であったとは思えません。母も父も、誰かのせいにしたかったのでしょう。
 でも、研究室で嫌な思いをした記憶はまったくありません。いつも複数組の双子と一緒でした。真帆と瑞穂が別々の部屋に分けられて、やはり同じように分けられた他の双子の片割れとゲームをしたり、なんらか課題を与えられたり、ただそこで遊んだりしていただけですから、嫌な思いもなにもないのです。それでも私たちは、やがて、一卵性と二卵性の違いを認識するようになりました。具体的に何歳のときだったかは覚えていませんけれど。
 そしてあるとき――あれは確か私たちが日記を書きはじめる少し前のことだったと記憶しています――研究室の先生から、二卵性双生児の類似性は(統計的には)一卵性双生児のそれを下回るという話を聞きました。私たちにはもうそのことの意味がわかるようになっていました。それを聞いても、私たちは特別その事実に反発を覚えたり、失望したりすることはありませんでした。私たちは私たち自身が思っているほどには似ていないということを、それまでに受けてきたいろいろな実験が教えてくれていたからです。
 私たちが「似ている」のは、実は多分に、見る人たちが無意識のうちに働かせる「ふたごだから」という認識の修正(矯正?)によって維持されていることも、教えてもらいました。そして、そうした周囲の見る人たちの「ふたごだから」が私たちに跳ね返ってきて、私たちも互いに自己認識を修正(矯正?)しているらしいのです。これは、しかし、私たちが本当は似ていないことを意味するわけではありません。やはり私たちは周囲から双子と認識される程度には、しっかり似ていたということです。
 研究の中心は言うまでもなく一卵性双生児です。そこに、二卵性双生児を対比することで、その違いをより鮮明に浮かび上がらせることができるという話は、私たちにも理解できました。もちろん、その実験の効果を高めるために同じ高校・大学を選んだ――あるは選ばされた――という事実はありません。私たちの学力は模試の判定結果も含めて本当にほぼ同じレベルにあり、それは東京に行きたいと訴えられるほどには高くありませんでした。そして、先にもお話しした通り、私たちには大切な日記がありました。
 このころ私たちは、その後の私たちにとって極めて重要な教訓を発見しました。それは、研究室の先生と学校の先生とでは、まったく違う世界を見ているという発見です。彼らの違いの根っこにあるのは、私たちの脳が――つまり真帆の脳と瑞穂の脳とが――生物学的な根拠をもって違っているという事実に対する認識でした。
 研究室の先生によれば、脳は性的な器官であり、私たちのアイデンティティの決定に際し、性的に大きく影響するということでした。たとえば、よく聞く右脳と左脳の違いは、男の子では明確であっても、女の子には見られません。これは遺伝子レベルでの違いであり、性染色体に起因する違いであり、つまり、生まれながらに違うわけです。そしてこの違いは、遺伝型の差異であるばかりでなく、表現型の差異をも生み出します。つまり、身体――あるいは心身――器官の機能的な特性を違えてしまうのです。
 たとえば、真帆が菜の花の美しさに魅入られているとき、瑞穂はずっとモンシロチョウを追い駆けています。――たとえば、待ち合わせ場所を真帆が教えると、瑞穂は迷子になってしまいます。逆に瑞穂が教えると、真帆はたどり着くことができません。――たとえば、瑞穂が不機嫌にむすっと黙り込んでいるとき、真帆がなにを尋ねても瑞穂は話してくれません。反対に、沈んだ様子でいる真帆の肩に手を乗せると、瑞穂は酷く後悔することになります。なぜなら瑞穂は一晩中、真帆の話を聞いていなければならなくなるからです。
 これらはすべて、耳や目といった私たちの感覚器官の構造の違いの結果であり、そうした器官を働かせる、あるいはそれらの器官が受け取った情報を処理する、私たちの脳の構造の違いに起因しています。そしてその違いは、私たちの異なる性染色体のせいで、違っているわけです。
 私たちは間違いなく、

、日記を書くことにしたのでしょう。私たちが数十分違いで同じ母と父から生まれた双子であり、同じ家に育ち、同じものを食べ、同じ幼稚園や学校に通ってきたことよりも、私たちが女の子と男の子であることのほうが、私たちにとっては決定的に重要な事柄になるとわかったのです。

 ここから少し難しい話をします。うまくお話しできるか、正直なところ自信はありません。ただ、私たちが参加していた双子の実験がなにを明らかにしようとしていたのかについて、この難しい話を避けていては知ることができません。
 問題は――というか課題は――「エピジェネティクス」でした。
 私たちは遺伝子を母親と父親から半分ずつもらいます。一卵性双生児では、スタートが同じ性染色体ですので、遺伝子も同じ配列になります。私たちは二卵性ですから、スタートの性染色体から異なっており、遺伝子の配列が違っています。
 遺伝子は――だんだん話が怪しくなってきますけれど――すべてが働くわけではありません。働くというのは、たとえば形とか色とか硬さとかの身体であったり、あるいは甘いとか痛いとか煩いとかの感覚であったり、嬉しいとか怖いとか寂しいとかの感情であったり、そうしたなんらかこの世界と関係して行くための、内外の受容感覚に影響するという意味です。つまり、遺伝子はすべて働くわけではないということは、そうした感覚に影響しない、いわばどうでもいい遺伝子があるという話になります。(え、ちょっと違う?)
 私たちの違い――つまり真帆と瑞穂の違い――は、元々の――母と父からもらった――遺伝子の配列の違いだけでなく、そのもらった遺伝子のうち、どこの遺伝子が働くか(働かないか)によっても違ってくる――遺伝子がどんなタンパクをつくるか(つくらないか)によっても違ってくる――それが「エピジェネティクス」です。(だいたい合ってるよね?)
 私たちは一卵性の双子ではないので話がややこしくなっていますが、一卵性ではわかりやすくなります。彼らの遺伝子はまったく同じなのに、でも、まったく同じコピー人間になることはありません。それぞれ違った人間になり、片方だけが太ったり(痩せたり)、片方だけが病気に罹ったり(ずっと健康だったり)、片方だけが上機嫌だったり(不機嫌だったり)します。この違いを生み出すひとつが「エピジェネティクス」です。(ここは大丈夫かな?)
 そしてどうやらこれは、産まれたときにすべて決まっているわけではなく、成長してゆく過程での環境や経験にも影響されるみたいだ、という話なのです。もちろんこれは、元々持っている遺伝子を働かせるかどうかという話ですので、そもそも実現する可能性のない能力――口から火を吐くとか?――を獲得できるわけではありません。(そこ、笑うな!)
 私たちが研究のサンプルになったのは、性別の違う二卵性の双子ではあるけれど、双子である以上、育つ環境はほぼ同一であり、かなり近いタイミングで似たような経験をするはずだ、と期待されるからです。少なくとも、同じ日に誕生パーティーが開かれますし、同じ日に同じ予防接種を受けるでしょうし、同じ日に同じ小学校に入学するだろうことなどは、間違いなく見通すことができます。
 実際私たちは、そんなに大きな時間が開くことなく、ほぼ同じ経験をしてきました。ただし、ほとんどなにをとっても、少しだけ瑞穂のほうが真帆より早かったのは事実です。おむつがとれたのも、自転車に乗れるようになったのも、ひらがなが書けるようになったのも、九九を間違えなくなったのも、それに好きな人ができて、手をつないでデートをしたりしたのも、瑞穂のほうが真帆より常にいくらか先でした。(そうだよね?)
 それが、〈いま〉の私たちをつくるのにどう影響してきたのかは、わかりません。ただ、こうしたことが常に瑞穂のほうが真帆より先であったことは、日記を読み返せばわかります。並べてみれば、真帆が瑞穂を追い駆けてきたことは明らかです。つまり、ほぼ同じ環境に育ち、かなり近いタイミングで似たような経験をしてきた私たちに、どうしてそのような(ある意味)一方的な差がついたのかということも、立派な研究データになるわけです。
 私たちはこの春に実家を離れ東京に出てくるまで、声をかけられれば必ず実験に参加してきました。東京に出て来てからも、真帆のほうは毎月研究室を訪ねています。もうふたり一緒に来なくてもいいと言われているのですが、ここまでは瑞穂も必ず同行してきました。でも、私たちは違う職種の違う会社に就職しましたから、今後はそれも難しくなっていくだろうと思います。
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