§03 神崎家の双子(後)

文字数 4,412文字

 産まれてすぐに双生児レジストリーに登録され、物心つく前から研究室に通いはじめたことは、真帆の聴覚過敏を早い段階で発見するという僥倖をもたらした。男性教師の場合は教室の後ろのほうに座らせてもらい、騒々しい休み時間にはイヤーマフをつけて回避行動をとることができた。地元の国立大学の研究室の診断というお墨付きがあったから、学校の無理解という余計な苦労をせずに済み、発達障害などという不必要なレッテルを貼られてしまうことからも免れた。
 研究室では、もしかすると女の子に特有の発達順序のバラツキが強く出ているだけで、成長とともに解消される可能性があるという話もあったのだが、真帆の聴覚過敏は発達過程における一時的な不安定ではなく、生涯を共にしなければならない器質的な故障だった。だから瑞穂はこうしてふたりで話をするときの自分の〈声〉の在り方をずっと探している。いちばん長い時間をそばで過ごしてきた瑞穂の〈声〉が、いまも真帆にとってはいちばん心地よい〈声〉だ。
 そのような真帆の小さな――しかし現実的な対処を必要とする――生きにくさが、瑞穂に男の子として振る舞うことを要求し、それに応えようとすることで、瑞穂は極めて実践的な男の子になり得た。セックスとジェンダーの話である。社会的な要請ではなく、努めて生物学的な器質に由来するセックスとジェンダーの話である。そして、あくまでも真帆と瑞穂の話である。
 瑞穂が優しい女の子と何回ベッドを共にしようが、真帆が奇妙なディスクールをいくつ組み立てようが、そんなこととは無関係に、ふたりの世界は形作られる必要があった。ふたりはそこで、向かい合うのではなく、横に並んで座った。ふたりでモノを見て、聞いて、触れて、話し合い、確かめてきた。研究室がどんな類似性を観察し、どんなデータを収集し、そこからどんな統計的双子像を導き出そうとも、真帆と瑞穂はふたりのために、ふたりでありつづけてきたのである。

「とりあえずストレスの原因はわかったよ。…それで真帆は、実際に駅ナカに慰められるわけ?」
「ああ、それね。それなんだけどね――田舎から出てきた二十二歳の新入社員の女の子が会社帰りにどんなものが欲しくなるのかをヤツらは完璧に把握し切ってるのよ」
「でもさ、真帆がそんなものに絡め獲られるなんて、俺には想像できないんだけど」
「そうね。でも言うほど私だって頭がいいわけじゃないから」
「それはよく知ってる。同じ大学に通ったし、うちに医学部はない」
「医学部なんて常葉叔母さんだけじゃない。――そうだ! 私ね、今日もうひとつわかったことがあるの。このマンションて鉄筋コンクリートで壁が分厚くて上の音も隣の音も聞こえない、とってもしっかりしたマンションだと思わない?」
「真帆のためにそういうところを選んでくれたんだろう?」
「なんだ。瑞穂は気づいてたのか…」
「当たり前だよ。そうでなければ、いくら『池内』だって、こんなところ用意してくれるはずがない。彩日香(あすか)さんのアパートも大和(やまと)さんのアパートも、ほんと普通の木造二階建てだったから」
「そしたらどうして瑞穂までついてきたわけ?」
「双子に差をつけちゃいけないと思ったんだろうな」
「瑞穂は普通のアパートでいいのにね」

 そういう意味では、ふたりが手のかからない子供たちであることができたのは、真帆の聴覚過敏が早期に発見されて然るべき対処が施されたことと、瑞穂という少年がそうしたことへの豊かな想像力を持っていたことに因るところが大きかった。どこかでひとつでも掛け違いが生じていたら、ふたりの関係は現在のような形には落ち着いていなかったろう。それを乗り越えるのは苦労の要る話であり、乗り越えられずにしまった可能性だって少なからずある。
 たとえばいまも、真帆の日常に駅ナカが存在しないことを、瑞穂は承知して聞いている。小田急沿線のマンションと乃木坂のオフィスとを往復する中で、電車を乗り換える際にホームから離れることはない。乗り換えの必要すらない直通電車だって走っている。そして真帆はその往復ルートを特別な理由もなく変えることなど絶対にしない。駅ナカに誘惑される可能性など、真帆の帰宅途上には発現し得ないのだ。
 従って、真帆が抱えている問題は、彼女の「駅ナカのディスクール」という図式で捉えられるものではないと言い切ることができる。実際のところ問題は、職場環境に結合した仕事上のストレスなどではなく、真帆がめずらしく恋愛事案の発生について報告しているのだということに、瑞穂もそろそろ気づいていた。それを「駅ナカのディスクール」という図式の

を持ち出すところから始めなければならないところが、いかにも真帆らしい。

「よし。じゃあ、改めて整理してみようか」
「なにを?」
「真帆と広瀬さんの間を遮る二枚の物理的な壁についてだよ。――やり方は、そうだな、三つある」
「待って、瑞穂。ちゃんと私の話聞いてた? 島本さんのほうは確かに私と広瀬さんの間に物理的に立ち塞がっているわけだけど、美杉さんは広瀬さんに背中を向けさせるのよ。だから島本さんは文字通り物理的な壁になるわけだけど、美杉さんのやり口はもっと巧妙なわけ。わかった? 私の置かれている状況は美杉さんの眼には丸見えなの」
「それを言うなら、美杉さんだって、真帆の眼には丸見えのはずだよ。監獄じゃないんだから、一方的に見られるだけってことはない」
「違うわ、瑞穂。まだわかってない。もし私の眼が島本さんを飛び越えたとしたら、そのとき私の眼はもう広瀬さんの背中に釘付けになっちゃうじゃない。でも美杉さんは広瀬さんと島本さんを飛び越えてくるだけじゃなくて、美杉さんから広瀬さん・島本さん・私という四人がどういう関係にあるのかを構造的に把握することができちゃうわけ。そうでしょ? これは視覚とか視野とかの話をしているわけじゃなくて、

の話をしているんだから。つまりいま私はそういう極めて困難な状況に抜き差しならない感じで嵌め込まれてしまっているのよ。わかった?」
「そうか、わかった。じゃあ方法はひとつしかない」
「なに?」
「職場の外で広瀬さんとふたりきりになる」
「……瑞穂ってさ、やっぱりほんと悲しくなるくらいバカだよね」
「無理なの?」
「無理に決まってるじゃない」
「そっかあ。俺なんかすぐふたりっきりになっちゃうけどなあ…」

 言うまでもなく、真帆・島本・広瀬・美杉の四名が、島本と広瀬が背中合わせになって二組の男女が向き合う状態になるのは、一日のうちほんのわずかな時間に過ぎない。そもそも美杉は他部署の人間であり、真帆が自分でも言っている通り、一日に一回はやってくる、という程度の関わり方なのである。従って、真帆と島本が向き合う時間と、広瀬と美杉が向き合う時間とが重なることですら、かなり稀な事態であると想像していい。
 しかし、真帆の中での職場のイメージは、「真帆・島本・広瀬・美杉の四名が島本と広瀬が背中合わせになって二組の男女が縦列に向き合う状態」を構成する場として、緩やかにではあるが固定されてしまっている。真帆にとって出勤するというのは――あるいはオフィスに入るというのは――そのような場に身を置くこととほぼ同義になっている。真帆がオフィスという場を理解する際には、そのような静止画が勝手に前のほうに出てきてしまうのである。
 慌てて付け加えておくが、真帆はこれを承知している。自分の脳がそのように働いてしまう強い傾向があるということを、だ。そもそもは母と父が、長じてからは真帆自身が、双生児研究室の

や、叔母の常葉から紹介された様々な

の話を聞き、自分がどのような器質を持って産まれ、潜在的にどのようなリスクを背負っており、この世界とどのように付き合って行けばいいのかを、極めて具体的かつ実践的に学んできた。
 そこに、瑞穂はいつも一緒にいた。双子なんです、といえば、ああ…という反応が返ってきた。なにが「ああ…」なのか、隣でにっこり微笑みながら、瑞穂は胸の内ではいつも首を捻っていた。が、そうした

の話を瑞穂は不思議と理解したのである。真帆が自分のことなのに首を傾げ、助けを求めるように瑞穂を見ると、瑞穂がにっこり微笑んで頷くから、真帆もなんだか安心して――わかっていないのに――先生に頷くのだった。そしてあとから――わかっていなかったので――瑞穂に尋ねる。…ねえ、瑞穂。今日の先生はいったいなんの話をしてたの?

「ほんと言うと、よくわからないの。なんか、そういう気分になりたいな…てだけで、ちょうどそこに広瀬さんがいて、たまたま静かな声で話す人で、それだけのことかもしれない」
「それだけでも、けっこう凄いことだと思うよ」
「どこが凄いこと?」
「そういう気分のときに、そういう人がすぐそばにいるってこと」
「そうかなあ…。でもほんとうはさ、こういうのって、人が先にくるものじゃない?」
「ヒトも有性生殖をする動物なんだから、あとから相手を探すのは不思議なことじゃない」
「え、じゃあ、私ったらいま、発情しちゃってるわけ!?
「二十二歳の健康な女の子が発情するのだって、ぜんぜん驚くようなことじゃない」
「そもそもヒトに発情期とかある?」
「それって前にも話したことあるよね。二十二歳の健康な女の子が、二十二歳の健康な男の子に魅力的に映らないとしたら、ヒトはレッドデータブックに載るはずだって」
「人間がヒト科をレッドデータブックに載せるのってすっごく怖い話…」
「そのレッドデータブックは、そもそも誰のために発行されるのか?てね」
「少なくとも『EW』て評価を下すのはもう人間じゃないはずよね?」

によって造られた環境にヒト科が保全されている…」
「その

って、

?」
「人間に替わってレッドデータブックを作成しよう、なんて考えるくらいに知的で不遜な連中」
「……ねえ、ところで私たちなんでこんな話してるんだっけ?」
「真帆がいま発情期を迎えていて、きっと広瀬さんにも魅力的に映っているはずだ――」
「ちょっと待って! 広瀬さんは二十二歳の健康な男の子じゃないわ。二十二歳でないばかりか健康でもないもの」
「健康じゃない?」
「あの人ね、あのね、え~と、あれなのよ…」
「あれって?」
「だから、ほら、お尻の病気…」
「痔のこと?」
「二十二歳の健康な女の子に変なこと言わせないでちょうだい!」

 だから真帆と瑞穂には隣り合う部屋が用意された。この日のように、ふたりがこの世界を書き換える作業がまだしばらくは必要だろうと、そう考えられたのである。真帆がそのいささか特異な感覚世界の中で漂流してしまわないために、瑞穂は折につけ耳元で呼びかけてやらなければならない。――太陽の位置を見てごらん? 頬を撫でる風を感じてごらん? 時間と方角は合ってるかい?
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