§09 種村佳志@真帆

文字数 5,757文字

 金曜の午前中に医師の診察を受け、土曜の午前中の退院が確定した。看護師から食事や排便などの注意事項を細かく説明され、一週間後に経過観察のための来院予約を入れ、昼食を終えるともうなにもすることがなくなった。
 ロビーに降りて売店で週刊誌を買った。興味をひく記事はなにひとつなかったが、退屈凌ぎにはなる。――しかし、この国は昔からこんなに騒がしかったろうか。もしかすると手術の際の麻酔になにか重大なミスがあって、長いこと眠っていたのかもしれない…。
 広瀬がそんな馬鹿なことを考えながら週刊誌を眺めているところに、カーテンの向こうから声がかかった。声の主はすぐに特定できたものの、思いもかけぬ人物で面食らったと言うべきか、とにかく広瀬は慌てて週刊誌をキャビネットの上に置き、ベッド周りを整えてから招き入れた。
「突然すみません」
 すらっとした細身の男が、この七月の暑い盛りにスーツを羽織りネクタイまで締め、腰を低くしながら入ってきた。大手の営業には時々こういうタイプの人間がいる。真夏に汗をかかない。少なくとも客を訪ねるときには発汗を止めることができる。
「お電話を差し上げようか迷ったのですが…」
「わざわざいいのに。こんな病気で、却って恐縮するよ」
「昨日、美杉さんから入院・手術とお聞きして、驚きました」
 男は丸椅子を引き寄せると、ベッドからやや距離を置いて腰掛けた。
「あいつ、大袈裟に言ったんじゃないの?」
「いえ、すぐ退院されるからとおっしゃって。本当ですか?」
「うん、明日退院するよ」
「明日?」
「だから本当に見舞いなんか要らないんだよ」
「そうでしたか。…じゃあ、今日来て正解だった」
 ハンカチを取り出して額を拭う仕草を見て、とはいえ人の子か…と広瀬は変な安心感を覚えると同時に、その物言いにどこか引っかかるところを感じて口を結んだ。男も、広瀬の様子に気がついたらしい。日持ちのするものにしました、と言いながら聞いたことのある横浜中華街の紙袋を手渡すと、ビジネスバッグを床に置いて膝をそろえた。
「広瀬さん――」
 と、ひとつ呼吸を入れた。
「実は来週の木曜日、うちの橋本から、鳴海部長に会食のお約束をさせて頂きました。鳴海部長には美杉さんのご同席をお願いしております」
「ああ、そうなの」
「美杉さんのご同席は、実は、私から橋本を通じてお願いしたのです」
 言っていることの直接的な意味はわかった。が、本質的なところで、広瀬には男の言葉の真意が伝わっていなかった。――種村はどうして美杉の同席なんか求めるんだ?
「御社のどなたかがお見舞いに来られるとしても、終業後になるだろうと考えまして」
「確かに昨夜、美杉と神崎が来たけど」
「ああ。やはり美杉さんはいらっしゃったのですね。そんな気がしたのです、私も」
「来週の会食って、要するにP社の件だろう?」
「ええ、そうです。橋本と鳴海部長のお話はそうなりますね」
「ん? なんか、種村さんには別の話があるの?」
「え…?」
 どうやら伝わっていないらしいということに、種村もそこで気がついた。が、正直まったく想定していなかったもので、どう言い直すかなど悩みはじめるより先に、思わずじっと無遠慮に広瀬の顔を見てしまった。――もしかして読み違えたのだろうか?
 広瀬のほうもこのときになって、どうやら受け取り損ねたらしいことに気がついた。じっと顔を見られ、ああ、そうか!と思わず声が出そうになった。ただ、それでも広瀬にはまだ、今日ここに種村が訪ねてきた目的がわからない。――わざわざなにをしに来たのだろう?
 人がふたりで話していると、こういうことがまま起こるものである。メッセージが木霊してしまう、とでも言えばいいだろか。お互いそのことに早く気づいただけ幸いだったと言うのは早計だろう。自然現象としての木霊はやがて空気に呑み込まれて消滅するが、二人の人間のあいだでのコミュニケーションエラーが引き起こす木霊には、ループに陥った電子メールのように出口がない。
 断ち切ったのは、広瀬のスマートフォンだった。バイブレーション機能が働き、ふたりの眼が同時にキャビネットの上に向かった。電話ではない。短い振動が三回続いて切れた。暗いディスプレイの端で青いランプが小さく点滅していた。
 どうぞ、と種村が言い、失礼、と広瀬がスマートフォンを手に取った。神崎真帆からメッセージが届いている。ロックを解除し、一読して、広瀬は苦笑した。彼女は今夜もお見舞いに来てくれるらしい。「ありがとう、気をつけて」と返信し、スマホをキャビネットの上に戻したところで、広瀬は――同時に種村も――ほっと息をついた。
「種村さん。確かに私と美杉は同い年で、多くのプロジェクトを一緒にやってきた。が、職場の同僚という以外に接点はない。これまでも、今現在も」
「…失礼しました」
「私のことなんかより、あなたは美杉をちゃんと見るべきだ。あいつは二年ほど前にちょっと怖い目に遭っている。男性不信とまでは言わないけど、怖いものは怖い。だから真っすぐに正面から近づくこと。余計な駆け引きなどせず、思わせぶりな素振りも見せず、とにかく真っすぐだ。…私からもしアドバイスできるとすれば、それくらいじゃないかな」
「広瀬さん、俺が馬鹿でした。本当にすみません」
 種村は大袈裟にも、そこで椅子を立って深々と頭を下げた。
「種村くん、座ろう。いつものように話そうよ」
「あ、はい。…そうですね」
 ほっとして腰を下ろしたものの、種村は不必要な立ち回りの結果、美杉にもっとも近しいと思われる広瀬の好奇心をくすぐるだけの、まったく無用な情報を与えることになった。改めて向かい合った広瀬の余裕たっぷりな表情が、雄弁にその事実を裏づけている。
「種村くんところ、綺麗な女の子いっぱいいるよね?」
 そこから来るのか…と種村は気を引き締めた。
「女性社員は、多いですね」
「慎重な言い回しに切り替えたな」
「こういうことは数の問題ではありませんから」
「いや、果たしてそうだろうか? 大手通信企業に入社してくる才色兼備のお嬢さんたちに辟易しているところに、中堅IT企業で髪振り乱してる飾り気のない女が登場して、なんとも新鮮に映ってしまった――そんなとこなんじゃないのか?」
「違います。美杉さんは、その…とても可愛らしい方だと思ってます」
「あいつ、どこにでもいる普通の女だよ。家柄も普通、学歴も普通、会社も普通。いま君の周りにいるキラキラした女の子たちとはまるっきり違う。田舎者で、劣等感の塊で、必死に働いているうちに、気がついたら三十を超えてしまった。そこ、ホントにわかってる?」
「婚活サイトじゃないんですから、そういうスコアには意味がありませんよ」
「なるほど。要するに種村(たねむら)佳志(けいし)という男は、社会的な

みたいな要請に屈して物事を決めるような人間ではないと、そう言いたいわけだね?」
「はい。そういう考え方はくだらないと思ってます」
「大丈夫? 近くに本部長の娘とかいない? どこかデカいクライアントの役員の娘とか紛れ込んでない? もし万が一だよ、美杉と付き合うとかいうことになったとしたら、上下左右からの圧力が相当キツくなるんじゃないの? 種村くん、明らかにエリートなわけだし。もうエスカレーターに乗せられちゃってるんだからさ」
「あの、俺、美杉さんとは、

…という感じなんでしょうか?」
「ああ、そこに引っかかった? ごめんごめん。そこはほら、慣用句だよ。言葉のアヤ」
「広瀬さん、率直にどう思われますか? いちばん近いところで美杉さんをご覧になっていて、俺、行けると思いますか?」
「わからないなあ。正直なんとも言えない。二年前の事件が片付いたあと、あいつがなにを考えているのか…」
「その二年前なんですけど、あの、お聞きしてもいいでしょうか?」
「一口で言えば『ストーカー事件』。それ以上は言えない。本人の口からじゃないとまずい」
「なるほど。そういうことか。…美杉さん、俺に話してくれるますかね?」
「訊けば話すと思うよ。…ただ、二年ていうのはさ、全然ついこないだみたいなものだろう? あいつの中でいまどういう扱いになっているのか。…俺もそこは触れないようにしてる。まだちょっと早いような気がする。時間がすべてを解決するとは思わないけど、時間が必要条件であることは間違いない」
 種村は黙った。広瀬はまだやはりピンときていないようだけれど、種村は言うまでもなく広瀬を牽制する目的をもってやってきたのだ。ふたりに男女の関係がないことは承知している。しかし一方で、お互いに特別な存在であることも間違いない。こうして広瀬の話を聞けば、それは疑いようのないことに思われた。
 両社の間に資本関係が結ばれ、入社三年目だった種村がプロジェクトメンバーに組み込まれたのは、四年前のことである。将来を期待されて抜擢され、今ではもう上の管理者は文字通りそのポジションに必要な肩書を持っているに過ぎない状態にまで、種村は本件を任されている。決して派手に自分を押し出すタイプの人間ではないが、自負はあり、矜持がある。
 他方で、開発面での実質的なリーダーが広瀬であり、営業面では美杉だった。当時、ふたりとも二十代後半に入ったばかりのところであり、要するに両社の間には、将来を嘱望される若手をプロジェクトの中心に据えるという合意があった。そうでなければ、大手通信会社が中堅IT企業に出資する意味がない、という判断・決断である。
 一年後には、種村はプロジェクトの専任となり、両社の間を忙しく往来した。広瀬と美杉のことも――その経歴や人柄を――よく知るようになった。知れば知るほどに、どうしてこのふたりがこの程度の会社にいるのか、不思議に感じはじめた。確かに美杉の学歴は高くない。広瀬に至っては大学を中退している。だからここにいるという経緯はよくわかる。だから種村の疑問はそういう意味ではない。
 どうしてこういう人間が自分の会社には見当たらないのか、と言い直すべきだろう。大きな会社であり、確かに顔も知らない社員のほうが圧倒的に多いから、

と言い切るのは行き過ぎかもしれない。自分の経験が浅いだけであり、恐らくそれも正しい。ただ、なんと言えばいいのだろう――そう、広瀬と美杉は素晴らしく魅力的なのだ。眼つきも、振る舞いも、やり取りの切れ味も、酒席での話題の豊かさ面白さも、トラブル時の決断の早さや対応の思い切りの良さまでも、そばで見ていてスカッと気持ちが晴れるように清々しい。
 二年前の話は漠然と耳にしていた。美杉が魅力的に映り始めたのがその前後であることは、種村も自覚している。それは多分に、明らかに美杉が弱って行き、明らかに広瀬に頼って行く様子を、目の前で見せられたせいだ。問題がどう解決されたのかまでは知らないものの、ふたりがあの事件をきっかけにして特別ななにかを共有することになったのは間違いない。種村の眼にはそう映ったし、そう映ったからこそ、美杉があのとき見せた魅力的な気配に、益々抗えなくなっていった。
 婚活サイトのようなスコアに意味はないと言ったのは本心である。だが一方で、誰が見ても自分よりそうしたスコアの低い男が、いま目の前で障害になっていることも事実である。広瀬と美杉の間にそうした感情が現在のところないのだとしても、種村がこれまでと違う姿で立ち現れたとき、美杉が無意識のうちに広瀬と引き比べるのは間違いない。そのときこの人を超えることができるのか――種村には、「超えられる」と言い切れる自信がなかった。
「広瀬さん」
「ん?」
「やっぱり俺は間違っていませんでした」
「なんのこと?」
「今日は失礼します」
「え、おい!」
 急に立ち上がり頭を下げた種村を、広瀬は唖然として見送った。
「どうしたんだよ…?」
 ひとりで呟いて、それから、面倒臭いことになったなあ…と背中を上げたベッドに体を預けた。
 こうなったからには、美杉か種村かどちらかをプロジェクトから外すべきだろうか…と広瀬は極めて実務的に考えた。プロジェクトの運営面から考えてどうか?という意味である。いずれも両社の実質的な営業リーダーである。良好な関係という中に、恋愛感情に似た要素が紛れ込むのは構わない。そうしたこともあるだろう。しかしそれはあくまでも

までであって、

であっては困る。
 ――困るか? 困るよなあ…
 両社が抱える

を冷静に考えれば、美杉を外すのは難しい。代わりの者など当方にはいない。が、種村なら容易い。代わりの者など先方にはいくらでもいる。これは単純に企業規模の問題であり、人材の厚みの問題である。
 ――鳴海さんに相談するか? いやいや、ちょっと待てよ…
 種村の言い方を真に受ければ、鳴海も

を承知していると考えていい。そこに自分が顔を突っ込んで、種村を外させるような動きをすれば、それは即ち美杉をめぐる

と受け取られ兼ねない。

どころか、誰が見たってそうなるだろう。懸念は懸念として鳴海はきちんと理解するだろうけれど、それだけでは済まされない。
 広瀬は両手を枕にし、背中を起こしたままのベッドから天井を見上げた。種村は実にいい奴だ、と思ってきた。今日のこれがなければ諸手を挙げて美杉を祝福するところだ。が、今日のこれは頂けない。いっぺんに人間のサイズが小さくなった。
 ――ああ、ほんと面倒臭えなあ…
 種村はどこまでわかっているか知らないが、美杉遥はモテる。モテる人生を歩んできた女は、男の器を量る術に長けている。今日のこれを意地悪く耳打ちしたりはしないけれど、そうするまでもなく、美杉は容易に見抜くだろう。好きな女の周りから、仲の良さそうな男を退けてはいけない。それは女に、自身の人生はつまらないものなのではないかと、改めて考えさせてしまう。
 さて、どうするか――とはいえ、いまから気を揉んだところで、答えが得られるわけでもないだろう。種村が行動を起こすまで、美杉が結論を出すまで、放っておくしかない。どちらに転ぶかなんて、まだわからないのだから。広瀬は本当に面倒臭くなってしまったので、放り投げた週刊誌を手に取った。
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