§02 神崎家の双子(前)

文字数 5,885文字

 瑞穂、まずは

からはじめましょう。
 今年のお正月、「東京で働くとはどういうことか?」という私たちの投げかけに、「君たちを待っている日常はこういうものだよ」と返ってきたときの図式を覚えてる?
 →①仕事を終えて家路につく
↑    ↓
↑ ②駅ナカに素敵なお店がある
↑    ↓
↑ ③自分へのご褒美を買う
↑    ↓
 ←④朝起きて仕事に出かける
 この図式は私たちの一日(平日のね)を表しているように読めるけど、一週間として見てもいいわよね。④が月曜で、①②③が金曜日。あるいは夏季休暇と冬期休暇という中期的なサイクルを当て嵌めることもできそう。実際もうじき私たちも初めての夏季休暇をもらおうとしていて(①)、郷里で家族や友達と過ごす約束(②③)をしているわけだから。
 でも、どうして「駅ナカ」には素敵なお店が並んでいるのかしら? どうして「自分へのご褒美」なんて都合のいい言い訳を思いつくのかしら? どうして私たちはまんまと「慰められて」しまうのかしら? 考えるまでもないわね。世の中には頭のいい人たちが大勢いて、私たちの日常から

を失くそうと企てているからよ。そう、ここには

の。
 なぜだかわかる? 「駅ナカの素敵なお店」は「自分へのご褒美」というレトリックによって、

ではなく

に変換されているからよ。浪費は二十世紀の終わりくらいまでの古臭い概念、消費は二十世紀の終わりくらいからの真新しい概念。浪費には後ろめたさに寄り添う形で満足感があるわけだけど、消費にはそれがない。瑞穂もボードリヤールの議論は覚えてるでしょ?
 ねえ、この無限ループに私たちはどうやって対抗すればいいか、思いつく? 死ぬ…ていうのは無しだからね。それから「ご褒美を我慢する」なんていうのも駄目。そもそも「我慢」しているってことは、もうすでにこのループの中に入り込んでしまっているわけだから。大体さ、自分へのご褒美ってなに? それってもうウロボロスじゃない? まさに永劫回帰よ!
 気をつけなくちゃいけないのはね、たとえばテレワークで在宅OKになったら、少なくとも「駅ナカ」は無効化されるじゃない? これってすごく大きいことよね。②が消えると自動的に③も消えるわけだし。でもそうすると、今度はそこに「診断」が口を開けて待ちかまえてる。②を拒否して③を回避したりしたら、もうあっというまに私たちは「排除」されちゃうんだから!
 これってどうなのよ?

――いきなりこんな凄いメールもらっても…
――だって駅ナカって問題だと思わない?
――俺には駅ナカに素敵なお店なんてないけどね
――瑞穂はどうしていつまでもそんなふうにバカなの?
――もうすぐ新横。「バリ勝男クン」の地元限定品買ってきた
――じゃあ私ご飯つくっといてあげるからビール買ってきて
――了解!

 神崎(かんざき)真帆(まほ)神崎(かんざき)瑞穂(みずほ)は、二卵性双生児として産まれた。二卵性だから、遺伝子配列は当然のことながら異なっている。そもそも性別も違い、いわゆるクローンではない。母の結婚が遅かったうえに、なかなか子供ができなかったことから、不妊治療のクリニックに通った。二卵性双生児が産まれた要因のいくらかは、その影響と考えていいのだろう。平均に比べて体重は小さかったものの、元気いっぱいの双子だった。
 世田谷区内、小田急沿線の駅から十分ほど歩いたところに、築浅のワンルームマンションが建っている。ワンルームだが、バスとトイレは別になっているし、洗濯機パンもきちんとある。キッチンは世の中の標準的なサイズよりもやや広く、ベランダは隣り同士が見えないように設計されており、かなり贅沢な造りだ。住民の多くは都内に通う会社員(それも大半が女性)だったが、学生も僅かながらいて、この春、ちょうど隣り合った三階の二部屋が空いた。
 真帆と瑞穂のほうでは隣り合っていることを望んではいなかったし、建物が違っても、最寄り駅が違っても構わないと考えていたのだが、叔母の一存でこのような暮らしを始めることになった。なにしろ四年間は叔母が家賃を負担してくれる――叔母が契約してくれる――という話だったから、真帆も瑞穂も素直に礼を言った。そして実際、郷里を離れて東京での生活をはじめてみると、こうして隣り合っていることの安心感は大きかった。
 この、就職に伴う上京のためにマンションを用意した叔母というのは、母方の妹だ。彼らふたりの母親がそこの長女で、叔母は三女――間に長男と次女がいる。母のきょうだいにはさらに四女と次男もいるのだが、ふたりにとって「叔母」と言えば三女の「常葉(ときわ)叔母さん」のことを、「叔父」と言えば長男の「拓馬(たくま)叔父さん」のことを指す。
 ふたりは、彼らが地元の国立大学を卒業するまで、母の実家で祖母と、叔父の家族と一緒に暮らした。祖父はすでに他界しており、叔父の奥さんも早くに亡くなって、八つ離れた男の子(従兄)がいた。実家で暮らすことになったのには、そうした経緯がある。いまから二十数年前、表門に「池内(いけうち)」と並んで「神崎(かんざき)」の表札がかけられた経緯だ。

「どうして真帆は帰って来ないんだ? まさか男と一緒とかじゃないよな?」
「それお父さんが言ったの? 四十男と温泉行ってるよ、とか言ってみればよかったのに」
「そんなこと言ったら卒倒しちゃうよ」
「私さ、そんなにお父さんに可愛がられた記憶ないんだけど」
「初めて離れたからじゃないの?」
「あ、そうか。なるほどね。瑞穂、今日は珍しく冴えてるじゃない!」

 池内の本家は大きな邸だった。文化財に指定されるような建物ではない。ふたりの祖父が歴史ある古い家をすっかり取り壊し、建て直した。上に五部屋、下にリビングとダイニングに加えて三部屋、トイレもバスも上下にある。上のバス・トイレは子供たち――真帆と瑞穂の母の世代――が使っていた。ふたりが産まれた時には、上を「神崎」が、下を「池内」が使うように変わった。それでもキッチンとダイニングは下にあったから、食事はいつも一緒にとった。
 池内の祖父が遺した財産は、その邸だけではない。住まい以外の不動産や有価証券などがたっぷりあった。三女の叔母・常葉が、不動産をすべて流動資産に換え、現在も管理を一任されている。彼女に資産を預けることは長男の叔父・拓馬が決めた。文句はどこからも出なかった。叔母は母方の姉妹兄弟(きようだい)の中でも突出して頭が良く、不思議な存在感・威圧感・信頼感があり、真帆や瑞穂の世代からも絶大な支持を集めている。

「ああ、今日はビールが美味しいねえ」
「どうせ一日中部屋の中にいたんだろう?」
「まだ六月なのに、32℃とか言ってるからね。それでずっとあのディスクールを考えてたの」
「〈駅ナカのディスクール〉とか命名したわけ?」
「そう! 確かにあれはもっとも洗練された収奪装置だわ」
「なにを収奪されるの?」
「そういう意味ではこれはすでに

課題だと言っていいわね」

 真帆が肉野菜炒めとイカの一夜干しを用意し、瑞穂のおみやげを肴に氷の入ったグラスに缶ビールを注いだ。真帆の言った通り、日中、東京の気温は32℃まで上がり、そのまま熱帯夜になる予報である。だから瑞穂が指摘した通り、真帆は一日まったく部屋から出なかった。ベッドの上に寝ころんだり胡坐をかいたりしながら、言うところの〈駅ナカのディスクール〉を考えていたのである。
 瑞穂には友達が多く、真帆には友達が少ない。瑞穂はいつも誰かとどこかに出かけようとするが、真帆はひとりで部屋の中で過ごすことを好む。粘着質で傷つきやすい真帆に対して、瑞穂はヒトやモノに対する執着心が薄い。それでも双子のふたりはよく似ていた。ちょっとした仕草や表情や、腕を組んだり脚を組んだり頬杖をついたりするときの上下左右や、あるいはそうするタイミングが一致することなど、見ていると鏡を映すように同じ挙動をとることが多い。しかしそれは、もともと双子だから似ているのではなく、たまたま双子だったから似てしまったのだと、研究室の先生から聞かされていた。研究室とは、ふたりが卒業した国立大学の、行動遺伝学研究室である。
 ふたりは産まれて間もなく日本の双生児レジストリーに登録された。複数の大学や研究機関が連携して整備を進めているデータベースであり、DNA構造から様々な実験結果まで膨大な情報が蓄積されている。ふたりは二卵性双生児のサンプルであり、要するに、「生まれか育ちか?」という問題にアプローチする際の、「育ち」側のサンプルだった。
 そのため、他人には「一卵性の引き立て役」と、やや自嘲気味に表現してきた。間違いではない。研究者が知りたいのは、遺伝子レベルではクローンのはずの一卵性双生児が、なぜまったく異なる人生を歩むのか?という設問に対する回答なのであり、二卵性双生児が仮に極めて似通った人生を歩んだとしても、それはあくまでも一卵性双生児と比較対照するためのデータに過ぎず、二卵性双生児そのものに関しては正直あまり興味・関心を抱かない。

「ねえ、ほんとうに千佳(ちか)ちゃんと別れるの?」
「しかたないよ。遠距離はムリって言うんだから」
「遠距離って言うほど遠くなくない?」
「仕事帰りに待ち合わせるとかできないだろう?」
「そうか。千佳ちゃんはそういうことがしたいのね、ふ~ん」
「もう就職決まってたのにさ、俺たちなんで付き合ったんだろう…とか思っちゃったよ」
「なにそれ?」
「でもまあ、そんな先読みして付き合ったりしないよね」

 週末、瑞穂はこのやり取りが示唆する関係の、いわゆる

のために帰郷したのだった。ひとりで新幹線に乗り――ここでふたりから「千佳」と呼ばれている彼女は見送りに来ないという正しい判断をした――小田原で「のぞみ」に追い抜かれるのを待っているところへ、真帆からメールが届いたのである。瑞穂はむろんメールで返信するようなことはしなかった。
 ふたりはこの三月まで郷里の同じ国立大学に通っていたのだが、学部が違うということもあり、真帆はついにその千佳という女の子の姿を眼にすることなく東京に出てきた。これでもう一生その機会は失われてしまったと真帆は考えた。瑞穂の彼女の顔を見ないというのは初めての経験である。恐らく千佳という女の子は私の中に居場所を見つけられずに消えてしまうだろうと思った。プルーストが人間をふたつの種族に分けたように、瑞穂が自分の知らない人たちに好奇心を抱く種族であるとすれば、真帆は自分の知っている人たちにしか興味を抱かない種族である。
 瑞穂は造形だけを拾えば決してカッコいい男の子ではないのに――真帆にはまったく理解できないのだが――なぜか女の子にモテた。いつも隣に女の子がいた。処理されない欲動を抱えて悶々としている期間など、瑞穂にはほとんどない。女の子は絶えることなく速やかに供給される。まるで通りかかるたびに店舗が入れ替わり、思わず足を止めずにはいられない駅ナカのようだ。それは瑞穂にとってそうであるだけでなく、女の子にとってもきっとそうなのだろう。
 真帆はその間、部屋のベッドの上に座り込んでそれを眺めてきた。真帆は常に観る者であり、瑞穂は常に観られる者の位置に立ってきた。もちろんそれは、瑞穂が自らを真帆から観られる者として差し出すからであり、そうすることで真帆は瑞穂を観ることができる。そうでなければ、ベッドの上に座っている真帆に、飛び回る瑞穂の姿が観えるはずがない。
 このような関係は、十二歳の夏にはじまった。その夏、ふたりは同時に発見したのである――いわゆる第二性徴の明らかな

を。不思議なことにそれは、一般的に言われている

を転倒させ、性差のない

からはじまった。しかし今後それが性差を際立たせる方向へ進んで行くことは、当然ふたりも予備知識として共有し、警戒していたところだった。

「でさ、どうして真帆には『ご褒美』が必要なの?」
「決まってるじゃない、ストレスを溜めて一日を終えるからよ」
「仕事のストレス?」
「ううん、職場のストレス、トポロジカルな環境因子――説明してもいい?」
「うん、説明して」
「私のひとつ先輩は島本(しまもと)さんで、ひとつと言っても四年目なんだけど、広瀬(ひろせ)さんは島本さんの上司なのね。つまり島本さんは私と広瀬さんの間に立って、私と広瀬さんの接触を阻んでるわけ。物理的にも私と広瀬さんの間に島本さんの席がある。さらに美杉(みすぎ)さんが一日一回はやってきて、広瀬さんの隣に座るのよ。位置関係としては、私・島本さん・広瀬さん・美杉さんの順に、縦というか横というかに並ぶわけ。そうすると島本さんに向き合う私と、広瀬さんに向き合う美杉さんは、ちょうど向き合う形になるでしょ。美杉さんは私に対して広瀬さんに背中を向けさせるわけだから。そうやって私は島本さんと美杉さんによって二重に広瀬さんから疎外されてるの。…言ってることわかる? ちゃんとイメージできてる?」
「すごくよくわかる。…でもさ、真帆、なんで広瀬さん? けっこうオジサンじゃなかった?」
「いま三十歳。今年三十一歳になる。私たちと八つ違いの明らかに他の連中とは違う男の人。見た目も悪くないし仕事もできるし頭も良くて物腰も柔らかい。そんなの私、初めて会ったのよ」
「八つ違いの明らかに他の連中とは違う男って、いるじゃん。産まれたときからずっとそばに」
夏馬(なつめ)さんのこと言ってる? とんでもないわよ! だってあの人ったら見た目はゴツイし仕事なんかしてないし頭は無茶苦茶いいかもしれないけど冷血な皮肉屋じゃないの。ぜんぜん違うわ!」
「美杉さんって人はいくつなの?」
「広瀬さんと同い年」
「美人?」
「顔は普通だけど信じられないくらいスタイルがいいの。確信犯的にピッタリなスーツでほっそいヒール履いておっぱいとお尻と太ももと脹脛を周りに見せつけながら登場するのよ」
「それってなんか羨ましい職場だなあ」
「そのうえ声もよく響くし言うことも気が利いてるの。島本さんも男の人特有の張りのある声で話すの。広瀬さんはとってもやさしい声で静かにおだやかにお話しするのに…」
「ああ、そうか。つまり〈声〉が問題なんだね。…え、もしかしてマフしてない?」
「マフはしてるわ。してないと私、卒倒しちゃうもの。島本さんの声にも、美杉さんの声にも耐えられない。でも広瀬さんは別。別格。あの人の声は私を脅かすことがない」
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