§13 土曜日の朝@真帆

文字数 4,047文字

 ――僕は胡桃が欲しいな
 いつもと同じ六時半に眼を覚ますと、真帆は瑞穂からのメッセージを見つけ、しばらくベッドの上に座ったまま首を捻った。やがてひとまずトイレに入り、顔を洗い、洗濯機を回し、カーテンを開け、窓を開け、ベーコンエッグを作り、レタスをちぎり、バゲットを切って焼き、紅茶を淹れてから、テーブルに向かってもう一度メッセージを眺めた。
「胡桃のほうかあ…」
 瑞穂の読みは外れ、真帆はどうすれば瑞穂に胡桃を諦めさせて蓮の実を取らせることができるか……朝食の口を動かしながら頭を働かせはじめていた。が、今日は深く長い苦悶に陥ってしまう前に、すぐにいいアイデアが思い浮かんだ。大きな月餅だから半分にしよう。蓮の実が嫌いなわけではない。どちらかを選ぶとなれば胡桃なのだ。半分にすれば解決する。今日は冴えている。いいことがありそうだ。真帆は気分を良くした。
 朝食の後片付けを終えたとき、洗濯機はまだ回っていた。真帆は冷蔵庫から月餅を取り出すと、包丁で半分に割った。四つそれぞれをラップに包み、改めて冷蔵庫に戻した。包丁とまな板を洗うと、ちょうど洗濯が終わった。曇り空ではあるけれど、雨の予報はない。狭いベランダに出て洗濯物を干した。上空を鳥の群れが飛び去った。
 カプリパンツとTシャツに着替えると、冷蔵庫から月餅の半分ずつ――先ほどラップに包んである――を取り出して、手頃な紙袋に入れた。鍵を持ち、サンダルを履いて、表に出た。エレベーターで一階に降り、エントランスから表に回り、郵便受けの外側から、月餅を入れた紙袋を瑞穂のポストに放り込んだ。ふたたび自室に戻ると、瑞穂にメッセージを送った。
 ――蓮の実と胡桃を半分こにしたよ
 間違いなく、瑞穂はまだ寝ている。起きるのはお昼前くらいだろう。そもそも瑞穂のメッセージのタイムスタンプは一時とか、真帆には信じられないような時間だった。一時なんて試験前でも経験がない。辛うじて大晦日に零時を回ったことがあるくらいだ。瑞穂は相変わらずだな…と思いながら、真帆は掃除をはじめた。
 フロアリングの床もキッチンも玄関もバスもトイレも、ついでにヘッドボードの上や窓ガラスまで丁寧に拭いたとしても、ワンルームマンションの掃除など一時間もかからずに済んでしまう。時計を見ると八時半だった。冷蔵庫がほぼ空っぽではあるけれど、まだスーパーの開く時間には早い。真帆はいつものように、そこでぼんやりしてしまった。
 休日に、なにもすることがない。大学まではアルバイトがあった。試験前には日数をかけて――夜がもたないからである――しっかり勉強した。ところが社会人になってみると、時間が余ってどうしようもない。アルバイトをするわけにはいかないし(そもそも真帆にはアルバイトの経験もない)、定期試験の準備もない。つまり社会人は、なんらかの趣味に興じるか、友達や恋人と街を歩くか、結婚して家族と一緒に過ごすか、実はそうした備えを持って臨まないと、暇を持て余す生活に陥るものなのだ。
 三ヶ月ほどが経過したところで、真帆はそのことに気がついた。特にこうして夏がやってくると、公園は暑いし蚊はいるしで、長居のできる場所ではなくなってしまう。「池内」の叔母のおかげでお金には困っていないから、高級なカフェに座ったりするのもいいのかもしれないけれど、二時間とか三時間とか座り続ける勇気――というか厚かましさのようなもの――を、真帆は持ち合わせていなかった。本を読むのは好きだけれど、一日中ベッドに寝転がって時間を忘れられるほどでもない。
 困った。…困ったので、まだ少し朝が早いような気もするけれど、いよいよ相談しなければいけないと真帆は考えた。このままでは心がどうかしてしまう。そうならないように手当をしてくれる人が、「池内」にはひとりいる。そういうことしかしていないのではないか、と疑ってもいい人が。
 いつものように、相手はなかなか電話に出なかった。このときもまた、痺れを切らして諦めようかと思った瞬間に、応答があった。おそらくわざとそうしているのだろうと思う。そうすることで、こちらの思いの強さを推し量ろうとしているのだ。
『おはよう、真帆』
「おはよう、夏馬さん。起きてた?」
『むろん起きてたさ。今日あたり早起きの真帆から電話があるんじゃないかと思ってね、昨夜はいつもより早くベッドに入ったし、今朝もいつもより早く寝床を抜けて、もう洗濯も掃除も終えてしまったくらいだよ。…ああ、声はこれくらいで大丈夫かい?』
「うん、大丈夫」
『そこでね、さてこれからどうしようか…と首を捻っているところにちょうど電話がかかってきたというわけだから、真帆はほんとうにタイミングのいい女の子だね』
「ああ、私もそうなの。これからどうしよう…と思ってたとこ」
『それで僕に電話をかけてくれたんだね。そこで僕を思い出してくれるとは、なんとも嬉しい限りだ。土曜日の朝から真帆の可愛らしい声を聞くことができるなんて、きっと今日はなにかいいことが待っているに違いない。それはもう絶対に間違いのないことだよ。この世界に女の子の声ほどの吉兆はほかに見当たらないと、僕は常々そう主張してきたわけで――』
「夏馬さん、ちょっと私の話を聞いてくれない?」
『ん、なにか困ったことでも?』
「だから、いま言ったじゃない。私今日、これからどうしようかと思って…」
『今日一日だけのことかい?』
「そう。…うん、今日一日のことだよ」
『そうか。…ふむ、宿題は済んだのか?』
「会社に宿題はないの」
『上期の試験はこれからか?』
「試験とかもない」
『もしかして部活もサークルもないってことか?』
「そうだよ」
『そいつは困ったね』
「うん、困っちゃうよね」
『いつから宿題や試験や部活がなくなったのかなあ…』
「ずっと昔からなかったみたい」
『じゃあ真帆はこれまで休日をどうしてたんだ? ここ二週間くらい思い出せるかい?』
 (土)晴34℃――洗濯して、掃除して、読書して、散歩して、買い物して
 (日)曇35℃――読書して、散歩して、読書して、散歩して
 (土)晴33℃――洗濯して、掃除して、読書して、散歩して、買い物して
 (日)曇28℃――読書して、散歩して、読書して、散歩して
『僕には素晴らしい休日を送っているとしか思えないんだが』
「でもね、『二十二歳の女の子』としては、大いに問題があるのよ」
『あいにく「二十二歳の女の子」に関しては不勉強なものでね』
「ねえ、夏馬さん、なにかご用事なあい?」
『ご用事かあ。それなら白ヤギさんの手紙を黒ヤギさんのところに届けて――』
「白ヤギさんてだれのこと?」
『池内常葉というとっても怖いオバサンのことだよ』
「黒ヤギさんは?」
『安曇彩日香というとっても綺麗なお姉さんのことだよ』
「彩日香さんはムリ。ていうかさ、彩日香さんのこと黒ヤギさんとか、ちょっと違わない?」
『彩日香は黒だと思うけどねえ。真帆には彩日香は何色に見えるんだ?』
「彩日香さんはねえ、そうだなあ、やっぱり赤かな。うん、赤だよ、赤」
『常葉さんは白でいいのか?』
「まだお婆ちゃんじゃないけどねえ、ふふっ。でも威厳がある感じはするよね。ほら、ヤギにはお髭があるでしょう? …だからあ、そんなことじゃなくって! 私の今日のことを考えてちょうだい!」
『それじゃあ、ひとまず今週あったことを、月曜から順に聞かせてくれないか?』
 (月)曇33℃――朝が来て、昼が来て、夜が来て…
 (火)曇33℃――朝が来て、昼が来て、夜が来て、広瀬さんが入院した…
 (水)曇28℃――朝が来て、昼が来て、夜が来て、広瀬さんが手術をした…
 (木)曇30℃――朝が来て、昼が来て、夜が来て、美杉さんと広瀬さんのお見舞いに行った…
 (金)晴32℃――朝が来て、昼が来て、夜が来て、ひとりで広瀬さんのお見舞いに行った…
『なるほど。じゃあ今日の一大イベントは広瀬氏の退院ということになるわけだな』
「うん。そうだね」
『彼はひとりで大丈夫なのか?』
「大丈夫だよ。もう大人だし」
『いやいや。そうは言っても男だろう? それも独り身だろう? 近くに家族がいるのかい?』
「知らないけど。いないような気がする」
『そうなると、けっこう大変だよ。食事に出かけるのも、手術のあとじゃあ、なかなか苦労だろう。とはいえ買い置きが充分にあるとも思えない。四日も家を空けていたわけだしね』
「そうかあ。そうだよねえ…。でもね、明日は来るなよ、て言われたんだ、昨日」
『どうして?』
「それじゃあまるで奥さんだ、だって」
『真帆はなんて答えた?』
「なんだったかな? 忘れちゃった」
『しかし、そもそもその奥さんが、彼にはいないわけだろう?』
「うん、いない」
『それじゃあ、やっぱり困るんじゃないのか?』
「そうだよね。困るよね、やっぱり」
『うん、相当困ると思うよ』
「そうかあ。じゃあ行ってあげたほうがいいのかなあ」
『うん、行ってあげたほうがいいんじゃないかなあ』
「わかった。…私、行ってくる」
『そうだね。暑いから気をつけろよ』
「うん。ありがとう、夏馬さん」
『いやいや。僕はなにもしていないよ』
 真帆は電話を切ると鏡の前に立った。服装はこれで構わない。が、やはり少しは化粧をして行こう。すっぴんでは失礼だ。今朝は薄曇りではあるけれど、予報は日中晴れて34℃まで上がると叫んでいるのだから、リボンのついたストローハットを被って行こう。足元は? 退院は引っ越しみたいなものだし、買い出しとかも必要そうだから、スニーカーでいい。ただし、フットカバーと色合いを合わせてね。
 リュックサックには、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトル、突然の驟雨にも耐えられる折り畳みの日傘、今治認定のハンドタオル、コスメポーチにウェットティッシュ、お財布にスマートフォン、読みかけの文庫本(吉川一義訳『失われた時を求めて5 ゲルマントのほうⅠ』)――他になにか必要なものってある?
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