§04 広瀬将@真帆

文字数 7,158文字

「おはよう…」
 背中から声をかけられて、真帆は慌てて振り返った。
「あ、おはようございます!」
「早いね…。元気だね…。若いね…」
「何時に寝たんですか?」
「三時…少し前かな」
 広瀬はデスクの椅子を引くと、そおっと慎重に腰を下ろした。
「お仕事、じゃないですよね?」
「じゃないねえ。ハハッ。はあ…」
「からだ壊しますよ、ほんとに」
「もう壊れてる。修復できない。だからいい」
 サンドイッチの袋を慎重にそっと破き――広瀬は毎朝同じコンビニの同じタマゴサンドしか食べない――いかにも苦しそうに口の中に押し込む様子を、真帆は少し心配な心持ちで見守ってから、慌てて席を立った。
 一カ月の研修を終え、広瀬のグループに配属されてから、そろそろ三ヶ月が経つ。季節は春から夏に移った。新入社員に特有の緊張感と疎外感はもう消えている。真帆はコーヒーサーバーでホットアメリカンを淹れ、広瀬のデスクにカップを置いた。
「神崎はやさしいなあ。俺に優しくしてくれるのは、

では神崎だけだよ」

って…。広瀬さん、毎朝それ言ってますよね」
「感謝の言葉だけは擦り切れることも色褪せることもない」
「あ、それ初めて聞くかも」
「よかった?」
「はい。いまちょっとトキメキました」
 無茶苦茶な生活を送っている(らしい)広瀬だが、社会人としての最低限の支度は維持されている。お風呂には毎日入っている(ようだし)、着替えも洗濯もしている(ようだし)、髭もきれいに剃ってある。遅刻や欠勤もない。ただ、決まって毎朝このような状態なのだ。
「私、九時から会議なので」
「九時から?」
「働きやすい職場をつくるなんとか会議…」
「ああ、あれね。いってらっしゃい。道中気をつけて」
 真帆はノートパソコンを胸に抱えて部屋を出た。ドアを閉めるときに振り返ると、広瀬はいつものように背筋をピンと立てたまま、サンドイッチをコーヒーで流し込むところだった。持病の痔が悪化していて、その姿勢を動かすことができないのである。
 会議室にはまだ数名しか座っていなかった。真帆は入り口で頭を下げてから、入ってすぐの前から二番目の席についた。すでにスクリーンは下ろされており、プロジェクターの調整も終わっている。開始間際になってバタバタッと人が集まってきた。
 広瀬(ひろせ)(まさる)は三十一歳、プログラマー、主任、川崎市出身・在住、横浜国立大学中退、独身。本来、毎日オフィスに出勤してくる必要はなく、フレックスでもテレワークでも――それで業務に支障がない限り――構わないのだが、なぜか毎朝きっちり就業開始時間の十五分前にはデスクに座っている。
 繰り返しになるが、身なりは清潔で、髪も短く刈っている。穏やかな語り口で、時々しかめつらしく眉根を寄せる様子が、いかにも(さま)になっていた。初めて紹介されたとき、カッコいい大人の男の人だ!と真帆は嬉しくなった。が、まさかこんな無茶苦茶な生活を送っているとは――こういうタイプの人間は、真帆の周囲にはこれまで現れていない。
 働きやすい職場をつくるなんとか会議…に出るのは、この日で三回目になる。実質的に――おそらく気がついたらいつの間にか――「新人教育の一環」的な位置づけになっており、各部門から出てくる顔ぶれも、その春に新人の配属があれば自動的に充てられているそうだ。職場に戻り、翌週の部内会議の席で新人が発言する機会を用意するための、ある種の通過儀礼になっている。
 ただ、新人が出席する意味はあるな、と真帆は思う。いわゆる「素朴な疑問」を抱き得るからだ。それはほぼ新人しか抱き得ないと言い切ってもいい。運営サイドは、そうした「素朴な疑問」を受け取ることで

を得たいのだろう、新人や地方採用の転勤者の参加をむしろ歓迎している。だから――新人や地方採用の転勤者ばかりが集まっているために――時々ピントの外れた意見に笑いが起こる会議でもあり、真帆はいつも出席を楽しみにしていた。
「神崎ちゃん!」
 会議を終え、廊下を回ったところで声をかけられた。ちょうどエレベーターを降りてきた営業部の美杉(みすぎ)(はるか)は、一日に一度は広瀬を訪ねてくるもので、真帆もすっかり顔見知りである。そもそも美杉が誰にでも気軽に声をかける――また声をかけられる――タイプでもあった。並んで歩き、ドアのセキュリティを解除する前に、美杉が囁いた。
「広瀬主任様の御機嫌は?」
「いつも通りですけど。…あ、でも今朝はちょっと冴えてたかも」
「どんなふうに?」
「美杉さんには教えません」
「あら、

剥き出しねえ」
 笑いながら手のひらを認証システムにかざし、美杉が先にドアを開けた。その場に真帆が思わず立ち止まってしまったせいだ。
「私、そんなこと…」
「じゃあ、私に教えない理由はなに?」
「だって美杉さん、いっつも広瀬さんを困らせてばっかり」
「あれは喜んでるのよ」
「嘘です、そんなの」
 噂の広瀬は相変わらず椅子の上に背を垂直に立て、腕を組み、いまは顎までも天井に向けて、いかにも思案気な様子を醸し出していた。が、いよいよ持病が辛くなってきたのである。今日は早退かも…と真帆がふとそんなことを考えて歩みを緩めたとき、美杉がわざと置いてけぼりにするように、大股でデスクの間に滑り込んだ。
 明るいグレーのスカートスーツでボディラインを強調しつつ、美杉が開発部門のフロアーに現れると、いつも華やかに人目を惹く。さほど美人ではない。そこは自覚がある。しかし、髪の長さや化粧の巧みさや、見るものの勝手な期待(妄想?)に訴えかけるような戦略は、持って生まれた矜持が許さない。だから、顔形からはむしろ個性を消し、眼差しの方向を、その抜群のプロポーションに惹きつける。生来的に授かったアドバンテージを際立たせれば、一瞬で〈場〉を支配することは難しくないレベルにあることを、あるとき美杉遥は発見した。支配すると言っても、あくまでも軽やかに、だ。
「あ~あ~広瀬くん! 眠いの? 痛いの? 今日はどっち?」
 周りに聞こえるように呼びかけながら、美杉はデスクの上に手を突いて、広瀬の顔を真上から覗き込んだ。すぐには腰掛けず、デスクに手を突くポーズをつくることで、腰から脚へのラインの美しさを周囲に見せつける。演出の狙い通り注目を集め、笑い声を引き出した。が、広瀬という男は微動だにしない。いや、できない。いま重心を動かすのは危険だった。広瀬は薄目を開けて、美杉が横から――しかも真上から――覗き込んでいるのを確かめはしたものの、また眼を閉じて呻くように言った。
「どんな悪い話だ?」
「Dがプロジェクトから降りるって」
「なんだ、いい話か」
「Sが裏で糸を引いているらしいって聞いても?」
「Dは踊らされたように見せかけてるだけだろう。そいつはSも承知しているはずだ」
「な~んだ、知ってるのか。つまらない。…神崎ちゃん、椅子借りるわよ」
「え~ッ!?
「七分で帰るから。そのあとたっぷり可愛がってもらいなさい」
 また笑い声が上がり、真帆は不満げに頬を膨らませながら、フリーアドレスコーナーに空きスペースを探した。ここまでは誰もが承知しており、かつ期待している騒動である。が、その先は、相変わらず上を向いたままの広瀬の耳元で、真帆の椅子を引き寄せた美杉は声を落とした。いたずらに、あるいは意図的にプロジェクトを攪乱してきたDが抜けるのは構わないものの、大きな穴が空くのも事実である。なんとか埋めなければならなかった。
「ここにNとKがいるとするじゃない?」
「Nって?」
西尾(にしお)
「Kでよろしく」
「Kはまだ浜松町から帰ってこられないのよ」
「いま『ここにいるNとK』て言ったぜ? なんでいない人間を並べた?」
「一択しか用意できなかったから」
 自身の不甲斐なさに、ちょっと苦い顔をする。そのまましばらく黙ってみせ、広瀬が首を横に倒して眼を向けてくるのを、美杉は待った。美杉が黙り込んでしまったので、広瀬は仕方なく、億劫そうに首を捻った。
「おまえさっき、『七分くれ』とも言ったな?」
「聞いてくれる?」
「聞くしかあるまい?」
「広瀬くんさ、Aを使ってみる気ないかな?」
「もう大丈夫なのか?」
「人事はそういう診断書を受け取ったみたい」
「本人は?」
「広瀬くんの下なら…て言ってるそうよ」
吾川(あがわ)さんが俺の下ねえ…」
 広瀬はまた上を向いて黙り込んだ。美杉は髭剃り痕のきれいな顎のラインを見つめている。ふたつ上の吾川の能力は広瀬も承知しているが、問題は年齢と指揮系統の上下ではなく、吾川が抱えている心の病である。プロジェクトは方針論議を終えたばかりのところであり、確かにまだハードワークを求められる段階にはない。だが、Dの空けた穴にAをあてがうのは無理だ。広瀬は頭の中で持ち駒を洗い直し、組み直してみる。結論はすぐに出た。
「わかった。ただしAはPMO。Dの穴はYで」
「ありがとう! すぐに両角(もろずみ)さんと話してくるね」
 さっと立ち上がり背を向けて歩き出した美杉を、広瀬の声が追った。
「つまらない交換条件もらってくるなよ!」
 美杉は振り返り、巧みなウィンクを返してみせると――広瀬は上を向いているのだから、そのウィンクはフロア全体へのアピールだ――廊下に近い端っこのほうのフリースペースで、膨れっ面を続けている真帆の肩をぽんっと叩き、小走りに部屋を出て行った。
 その羨ましくも眩し過ぎる後ろ姿を見送りながら、美杉が放りっぱなしで行ってしまった自分の椅子を元に戻し、真帆は探るように広瀬の横顔を伺いつつ自席に座った。
 広瀬はまだ考えている。いまは眠気と痛みに堪えているのではなく、それを忘れて本当に頭を使っていた。吾川が鬱状態に陥って休んでいると聞いたのは、確か年度末だった。いろいろな人間が好き好きに話題に乗せたものの、その誘因というか作用因というか、吾川をそこに引き込んだ経緯がわからない。過ぎるほどの真面目でもなければ、コミュニケーションに問題のある人でもなく、それこそ「中庸」という言葉がうまく当てはまる、バランスの取れた人間だ。現実から逃避したいがために、うっかり診断書をもらってしまうような馬鹿でもない。去年彼が関わっていたプロジェクトにも、悪い噂は聞こえていなかった。秋の計画が年末にリスケジュールされていたが、そんなものは掠り傷だ。
「…広瀬さん?」
 もしかすると、広瀬は何回か真帆に呼ばれていたのかもしれない。
「おお、戻ってたか」
「また美杉さんが困った話を持って来たんですか?」
「いや、今日は珍しくいい話だったよ」
「ほんとうに?」
「神崎はどうして美杉を嫌う?」
「嫌ってなんかいません。ただ、ちょっと…」
 口ごもるのは、その先を意図的に間違えようとする企みに、他方ではやはり躊躇うからだ。
「ただちょっと…?」
「美杉さんが帰ったあと、いつも広瀬さんは機嫌が悪くなります」
「そう見えるか?」
「はい」
「じゃあきっとそうなんだろうなあ」
 真帆が予定していた通り、広瀬はどこか嬉しそうに――そう、

微笑んだ。いつも広瀬の機嫌が悪くなるというのは、言う必要もないことだけれど、真帆の嘘である。美杉がいつも困った話を持ってくるというのも、これも言う必要のないことだが、真帆の嘘である。ただ、真帆には自覚がない。間違えようとする意図的な企みは、真帆の中で、真帆に悟られないように働く。真帆はほんとうに広瀬の機嫌が悪くなると思っているし、ほんとうに美杉は困った話を持ってくると思っている。しかし、それは真帆の中の嘘なのだ。なぜなら真帆は、それを口にする際に得体の知れぬ苦さを味わって、同時に躊躇いも生じている。
 今日は真帆のほうから椅子を広瀬の隣に寄せ、お互いのディスプレイを覗き込めるように、ノートパソコンをデスクの上に並べた。広瀬が承認済みの上位工程の仕様書を開き、真帆がいま作成中の下位工程の仕様書を開く。いずれも真帆が、さらに上位の仕様書から、この三ヶ月かけて落とし込んできたものだ。研修用のサービスではない。急がないけれど、最終的には顧客(ただし社内の)に提供し、業務で使ってもらう。一週間に一度、一時間ほど、業務部門と認識(いまいるところ)と意識(次に向かうところ)をすり合わせながら進めてきた。新人の真帆が携わることは、むろん当該部門の責任者も了承している。
「これ、自分でやるところを想像してみな。面倒臭くて嫌になるから」
「間違っているわけじゃないんですね?」
「正しい場所にはたどり着くよ。でも、着いたときにはみんなへとへとになってる。次の仕事に取り掛かれないばかりか、もはや到達に伴う達成感すら得られない」
「なんか、酷い言い方…」
「そういうことで、はい、やり直し」
「私いま傷つきました」
「いちいち傷つくなよ」
「傷つきたくて傷ついてるんです」
「意味がわからん。…とにかく手順に惑わされるな、きちんと抽象化に従え。わかった?」
「わかりました。やってみます。…でも、この傷が癒えてから」
「お大事に」
 それはこっちの台詞だと思いながら、真帆は椅子に座ったまま後退し、ノートパソコンを引き寄せて、自分のデスクに向かった。――そう、瑞穂に話した内容とは異なり、広瀬は真帆の左隣に座っている。島本は右隣であり、従って、広瀬との間の壁にはなっていない。つまり、真帆が瑞穂に話したような、真帆・島本・広瀬・美杉と並ぶ事態は、実際には起こり得ないのであり、真帆と島本が向かい合い、広瀬と美杉が向かい合うとき、背中を合わせるのは真帆と広瀬なのだった。つい先ほどの美杉の登場のような事態を、「広瀬から疎外される状況」と抽象化したあとに再構成された図式こそ、真帆が抱く職場の姿だ。
 デスクに戻った真帆が振り返ったとき、広瀬は背筋を伸ばした窮屈そうな姿勢で、キーボードをぱたぱたと叩きはじめた。男性らしくない、細くて長い指――完全なブラインドタッチではない我流の指使いだが、まるでタッチパネルに触れるように軽やかで、力が抜けている。指の動きと、ディスプレイに現れ出る文字列の量とが、一致しているように見えない。キーボードを叩くときにだけ指が二十本に増えている感じだ。滑らかな指の動きの残像がそう見せる。
 真帆は前工程の設計書を大型の画面いっぱいに広げた。まずは俯瞰して見る。どうしてシーケンスがあんなに複雑になってしまったのか。確かに昨日、ずいぶんリスクの高い業務手順だな…とは、見直しながら考えていた。情報を分割する作業が多い。これだとあとで集まったときに困ったことにならないか? なにがそれを求めているのだろう…。
――神崎ちゃん、今日ふたりでランチしない?
 設計書を睨みつけているところに、美杉からメッセージが届いた。
――やった! ごちそうさまです!!
――想定外の応答……いいわよ、なに食べたい?
――糖分が足りません~
――いま糖質制限ダイエット中なんだけど
――私たち、ほんとウマが合いますよね!
――1245Dゲートで
――ラジャー!
 ディスプレイの隅で美杉と社内チャットをやり取りしながら、真帆はこれまでの仕事を振り返った。ここまでの設計資料はすべて承認されている。会議もいい雰囲気で、活発なディスカッションをしてきた。それなのに、ここで突然躓いている。そうであれば、なにか見落としがあるはずだ。あるいは、最初に切り捨ててしまったものの中に実は大切な…。
 真帆は慌てて椅子を立ち、デスクの間をすり抜けて、壁のロッカーから分厚いファイルを取り出した。作業用テーブルの上で現行システムの構成を記したA3シートを広げ、ひとつひとつサブシステム名を拾って行く。当時の設計者の視力が異様に良かったのか、あるいは悪かったのか知らないけれど、ディスプレイで見たのでは全体がつかみにくい、A3サイズにびっしりと書き込まれた設計書の束である。――あった! これだ! 
 先方の課長が、これには手をつけない(正確には「つけられない」)と言った古い外部システム。手をつけられないと言われたことで、インターフェースをそのまま使うのだと思ってしまったのだが、そうではない。そういうふうに捉えてはいけない。真帆はいちばん初めに広瀬が口にしたことを思い出した――
「見つけた? 早いね」
 声に顔を上げると、テーブルの向かいに広瀬が立っていた。
「広瀬さん、最初にこのこと言ってましたよね?」
 と、真帆は外部システムを表すボックスを指差した。
「言ってたかな? 言ってたかもな。…とにかく今日は俺、早退するから。あとは自分で考えて」
「お医者さん行くんですか? 付き添いましょうか?」
「やっぱり神崎は優しいなあ。天使だよなあ」
「真面目に心配してるんですけど」
「いい、いい。このままタクシー乗るから」
 広瀬は軽く片手を挙げ、文庫本だけを持ってオフィスを出て行った。
 真帆はふたたび現行システムの概要書に向き直り、頭の中でこれまでの設計作業を振り返る。この古い外部システムが問題のすべてだと言い切れるだろうか。確かにこことのやり取りを見直すことで、手続きの数を減らせるのは間違いない。でも、広瀬はさっき「抽象化に従え」と言ったはずだ。確かにここは欠陥ではあるけれど、抽象化に関係するとは考えにくい。
 あるいは、なにか不必要なものを作ってしまったのだろうか。いちいちそこに問い合わせなければいけないような。みんなが使うからまとめておくと便利、という発想は抽象化ではない。共通するからと言って外に出してしまったら、むしろ使い勝手が悪くなる場合もある。それならみんながそれぞれに持っていたほうがいい。たとえば、たとえばなに…?
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