§07 日高英美里@瑞穂

文字数 6,308文字

 給湯室の脇に仕出し弁当を回収するためのボックスが置いてある。瑞穂はさっと弁当箱を水洗いすると、すでにいくつか積み上がっている中にそろえて入れ、ボックスの蓋を閉めた。が、振り返ったところに長身の今泉(いまいずみ)がぬっと立っていたものだから、驚いて思わず声を上げた。
「黙って人の後ろに立つなよ!」
「この場に適切な言葉が思い浮かばない」
「咳払いするとか、踵を鳴らすとか、そういう話だ」
「あくびをするとか、鼻をかむとか」
「そうそう。いいぞ、今泉。そうして文明社会に適応していかないとな」
 原始生活に近いと言ってもいいほどの〈田舎〉から東京にやってきた――そのようなキャラ設定が定着した同期の今泉に、お約束となった「文明社会への適応」というフレーズを返してやってから、瑞穂はその大きな体をすり抜けて廊下に出ようとした。が、今泉は空の弁当箱を持ってきたわけではなく、瑞穂に用事があったのだ。
「金曜日、出席?」
「もちろん」
「間違いないか?」
「なんで?」
「神崎がいるなら行く、て言ってる人間がいる」
「女の子?」
「それは明かさない約束だ」
「明かさないという時点で、すでに女の子だな」
「なるほど。確かに見かけよりかは賢い」
「誰がそんなことを?」
「綺麗な子だよなあ」
「ああ、日高(ひだか)か」
 給湯室の出入口を塞いで立つ新人二人を、白髪の目立つベテランの男が邪魔くさそうに押し退けた。別の部門の人間だから名前も役職も知らないけれど、言ってしまえば、いつも不景気な顔をしていることで記憶に残るような男だ。瑞穂と今泉は廊下の向かいに移り、弁当箱を片付けた男が廊下の向こうに消えるのを、眼で追いながら話をつづけた。
「今泉、やめとけ。田舎者のおまえにはふさわしくない」
「見た目のバランスは悪くないだろう?」
「見た目はな、確かに美男美女だ。が、日高はおススメできない。友達が苦しむ姿を黙って眺めてなんかいられないよ」
「俺って神崎の友達だったのか…」
「友達の忠告は聞いとくもんだ」
「もう遅い。土曜日にデートする」
「え、どこに?」
「それが問題なんだよ。なあ、神崎――日高って、どんなところが好きなんだろう?」
 今度は隣の部署の課長がやってきて、気安く手を上げて笑った。二人はそろって頭を下げ、給湯室の前から離れると、自販機の並ぶ休憩スペースの隅に移った。そこにも先客はいたものの、新人の男が二人、こそこそしゃべっていても誰も怪しまない。こそこそしゃべっている人間は、ほかにもけっこういる。
「俺の出席を条件にしている女の子の名前と交換だ」
「短い付き合いだったな、友よ」
「え、なんで? そんなヤバい子なの?」
「まあ、ある意味ヤバい。みんなちょっとそう思ってる」
「誰だ…。わからん。そんな子いるか?」
「とにかく日高をどこに連れてけばいいのか教えてくれ。教えてくれたら金曜の夜は俺が持つ」
「三次会まで?」
「翌日にデートする人間が、どうして三次会まで残る?」
「それもそうだ。明日の夕方までに聞き出しとくよ」
「持つべきものは友――とはよく言ったもんだなあ」
 今泉と別れた瑞穂は、いちばん甘味が強いと思われる缶コーヒーを自販機で一本買うと、この時間帯は混み合っていて当てにならないエレベーターを避け、フロアーをふたつ分、階段で駆け上がった。セキュリティゲートを通過し、柱のない広大なフロアーを見渡しつつ、壁伝いに当てずっぽうで左に歩き出した。
 こういうとき、瑞穂はなぜか左に折れることを選択する。双生児研究室でそう指摘されたあとも、意識して矯正しない限り、やはり左を選んでいる。真帆もそうだ。たとえば広いショッピングモールで同じ店に入り、片方が先に出て相手を見失ったようなときなども、左に行っただろうと考えて探せばまず間違いない。これが、姉弟だからという程度の話なのか、双子として育ったことが影響しているのか、コインの裏表くらいの確率の問題なのか、そこまでは瑞穂も――双生児研究室の専門家たちにも――わかっていない。
 しかし、いま瑞穂が探しているのは真帆ではなく日高(ひだか)英美里(えみり)なのだから、左右の選択の傾向など、その発見の手助けにはまったく役に立たない。それこそコインを投げて決めるのと同じだ。三ヶ月の研修を終え、配属されてようやく三週間が経とうとしているところであり、瑞穂は英美里がこのフロアにいることは承知していても、フロアのどこに座っているかまでは知らなかった。
「神崎がこんなところでなにしてるの?」
 ――今週の俺は引きがいい!
 瑞穂は後ろからかけられた声にくるりと振り返り、日高英美里を捕らえた。
「日高、三秒以内に答えて」
「は…?」
「高一の夏、いちばん楽しかった思い出の場所は?」
「え、あ、お台場かな…」
「高二の夏、いちばん楽しかった思い出の場所は?」
「え~と、江ノ島の展望台」
「高三の夏、いちばん楽しかった思い出の場所は?」
「これ、どこまで続くの?」
「3・2・1…」
「夏期講習の先生の部屋!」
「なにそれ?」
「こっちのセリフ。これなに?」
「夏期講習の先生の部屋とかって、あり?」
「だから、なんなのよ、これ?」
 英美里はその大きくやや色目の薄い瞳を細め、訝し気に、お調子者に特有の薄っぺらな瑞穂の笑顔を見据えた。クオーターだが、英美里のそのアイルランド系アメリカ人の形質がはっきりと現れている部位のひとつが瞳である。墨を流したかのように青味がかった独特の(くろ)だ。確かに美男美女には違いない、と瑞穂は思った。見た目だけは釣り合っている。
「う~ん、さすがに五年前の夏期講習の先生のとこに押しかけるわけにはいかないな。講師の存命も疑わしければ、少年少女たちの迷惑にもなる。従って却下!」
「勝手に却下とか、先生まだ三十代だし、神崎が決めること?」
「え、行きたいの? 夏期講習の先生のとこ。…あ、惚れてたのか!」
「ちょっと待ってよ。あんたと話してると頭がおかしくなる。…つまり、同期でどっか行きたいわけね?」
「日高、帰りにお茶しない?」
「ふつうに食事するなら――もちろんご馳走してくれるなら――付き合ってあげてもいいけど」
「金ならある。ただし、訳あって

だ。いいかね?」
「いいわよ」
 指を二本立て、ふたりで…を念押ししてから、瑞穂は英美里のフロアの壁際を引き返した。
――そうか、日高はどうも〈海〉っぽい…
 食事の際には今泉のことだとぶっちゃけていいだろう。そのほうが話が早い。正直、どこまで日高がそれを「デート」だと考えているのか、そこから疑ってかかるべきだろう。今泉は確かに長身の美男子だが、言っても田舎者だ。「デート」だからと舞い上がっているのは今泉のほうだけだという可能性も否定し切れない。日高はただ、ちょっと出かけたいところがあって、せっかくだから見栄えのいい男を連れて行こうとしている。それだけかもしれない。東京の女のやりそうなことだ。
 あれこれ考えながらフロアを出ようとしたとき、ふと視線を感じてセキュリティゲートの手前に足を止めた。瑞穂を見ていたのは、同じく同期の月浦(つきうら)朱音(あかね)だった。研修中からほとんど飲み会には顔を出さない、正直つかみどころのない女の子である。配属後もリクルートスーツみたいな格好をして、いかにも真面目そうに見える。瑞穂がちらっと笑みをつくると、月浦朱音も同じように笑みを返した。瑞穂は満足してゲートの外に出た。それきり月浦朱音のことは忘れてしまった。

 日高英美里のリクエストで――勝手に予約をとっていたのだが――下北沢のイタリアンレストランに座った。小田急沿線に暮らす瑞穂にも、荻窪の実家から通っているという英美里にも、職場のある恵比寿からはアクセスがいい。英美里はバカな女ではないから、社会人一年目の――それもまだ配属されて間もない――人間にとって、リーズナブルと言っていいクラスの店を選んでいた。
「金ならある、て言ったぜ?」
「なんで新人の私たちにお金があるのよ?」
「母親の実家が大金持ちだから」
「それで神崎が潤う理由は?」
「その莫大な資産を管理している叔母が、毎月過分とも言うべき小遣いを振り込んでくれる。そのうえマンションの契約もその叔母の名義だ。――ハッハァ! どうだ? 驚いたろう?」
 英美里がメニューを開き、手早く注文を終えた。
「そのお金、なにか訳アリの匂いがするわね」
「前に話したろう? 真帆は毎月母校の研究室に通うことになってる。俺も一緒に行く」
「ああ、真帆さんね。覚えてる。『聴覚過敏』のお姉ちゃん」
「お姉ちゃんではない。真帆だ。でもいまは真帆の話はいい。今日は今泉の件だ」
「やっぱり。あのあと落ち着いて考えて、そうだろうなあ…と思ってた」
「今泉は友達だ」
「神崎ってみんな友達でしょ」
「あいつは田舎者だ」
「あなただってそうじゃないの」
「日高、遊び相手ならほかを当たってくれないか?」
 テーブルにスパークリングワインが届き、なんでビールじゃないの?と瑞穂が尋ねたところ、ビールは嫌いだから…と英美里が澄ました顔で答えたので、瑞穂は納得することにした。
「神崎はなにを心配してるわけ? 初心な今泉くんを傷つけないでくれ!とか?」
「若干ニュアンスが異なるなあ…」
「でも今泉くん、どうして同じ田舎者の神崎に相談するかなあ」
「そこが今泉の、まさに今泉たるところさ」
「私のほうがリードしてあげれば済むことよね。違う?」
「最初からそういうつもりだった?」
「当たり前じゃない」
「てことは、おまえほんとに今泉のこと、好きなの?」
「見栄えだけで誘ったわけじゃない――とは言えると思う」
「そうか…。そうだったのか…。うん、それならいい。あいつはいいやつだよ。それも素晴らしくいいやつだ。あれだけの男はなかなかいない」
「今度はおススメするんだ。おかしいの」
 英美里は笑いながらフォークを手にした。
 瑞穂はもう今泉を話題に乗せなかった。代わりに、今泉が言っていた「神崎の出席を条件にしている女の子」について探りを入れた。が、英美里はそんな話は初めて聞いたと、とぼけている様子もなく首を傾げた。誰がそんなトンチキなことを言ってるのか私も知りたいとか言われ、やっぱり日高は嫌なやつだ…と思いながら瑞穂は顔を顰めた。
 ふたりはたまたま研修で隣り合う席に座った。ふたりとも初日から遅刻しそうになり、駅から同じ方向に走る女がいる/男がいるとお互い思いつつ研修会場の建物に駆け込んだところ、同じ階の同じ部屋に入り、ふたつだけ空いていたいちばん前の席に並んで座ることになった。研修は初日の朝に適当に座った席のままに始まり、最後まで変わらなかった。
 ――凄い美人の隣になったんだよ!
 と真帆に報告すると、彩日香さんを基準にすると何点?と尋ねられた。〈彩日香〉は従姉――母のすぐ下の叔母の次女――であり、一族の中で、あるいは町内で、市内で、県内で、もしかすると我が国を隈なく探してみても、容易には見つけられないほどの美人である。瑞穂はじっくりと考えてから、日高に七十八点を付けた。凄い高得点だね!と真帆は瑞穂の幸運を喜んでくれた。
 しかし、同級生からも教師からも疎んぜられ、自傷行為を繰り返すような十代を過ごした従姉と、たまたま隣の席になった同期の新入社員とを、横に並べてみることに意味などない。波長が合い、なんでも言いたいことを言える関係になったのは、瑞穂の持って生まれた人懐っこさが契機ではあるものの、英美里のさっぱりとしたオープンな性格もまた、そうした関係構築に預かって余りある。多くの大人でさえ腰が引けてしまう従姉の怪しげなオーラとは、比べようもないものだ。
「ほんとうに誰なんだろうね、神崎を目当てに出席するとか」
「まあ、大半の女の子が『瑞穂くんとお友達になりたい!』て思ってるわけだからさ」
「あなたのほうではもうお友達のつもりだったりしてね」
「おお、なるほどねえ。つまりはもっと関係を深めたい…と」
「ああ、どうしよう…。気になって眠れない」
 瑞穂のグラスにワインを注ぎ足しながら、英美里はもう一方の手を額の上に置いた。
「日高、おまえ、実は俺のこと――」
「今泉くんに聞いちゃう? いま電話して」
「いや、ちょっと待て! ふたりで飯食ってるとか、自殺行為じゃね?」
「あれ? 言ってないの?」
「あいつは俺に全権を委任してくれたんだ」
「だったらいいじゃないの」
「持つべきものは友――とかまで言ってくれて……」
「あ、今泉くん? いまちょっとお話しできる?」
 唖然とする瑞穂の前で、英美里がスマートフォンを耳に片目をつむって見せた。瑞穂は両手で口を覆って息をつめ、可能な限り気配を消すべく身を縮めた。
「ねえ、金曜の飲み会なんだけど、なんか神崎がくるなら出席するとか、意味不明なこと言ってる女の子がいるんだって?……うん、そう、神崎から聞いたのよ。……うん、お昼休みにふらっときてさ。……そう、そう。それって誰なの?……どうして?……私がお願いしてもダメなの?……ふ~ん、そうなんだあ。なんか淋しいなあ。……だって、今泉くんがどこかの女の子と隠し事してるとか、それって淋しくない?……違う? なにが違うの?……うん。……うん。……ああ、そうなんだ。……うん。……うん。……もちろんよ。……うん、約束する。……信じてくれないの?……うん。……うん。……はい?……え、そうなの!?……マジで!?……あ、ああ、なるほどねえ。……あ、うん。……ああ、そうだよねえ。……うん。……うん。わかった。ありがとう。……え、いま? 大学の友達と下北。……そうだよ。……うん、そう。……うん。そうだね。……うん、また明日ね。……うん、おやすみなさい」
 英美里が通話を切るのを確かめてから、瑞穂は口を覆っていた手を離し、ふうッと大きく息を吐いた。その様子を、肩肘でテーブルに頬杖をつく英美里が、なぜか無表情で、じっと見つめている。恐る恐る、瑞穂が口を開いた。
「日高の電話って、『うん』が多いのな」
「神崎、いまカノジョいる?」
「いや、こないだ別れた。地元で清算してきた」
「まだもう少し

したい感じ?」
「どういう意味よ?」
「やっぱり金曜まで待ったほうがいいと思うな」
「だから、どういう意味で? どういう

で?」
「おかしなことしたら、私、一生あなたのこと軽蔑するから」
「おい。なんか重たくなったぞ…」
 そこから先へは、瑞穂はもう連れて行ってもらえなかった。
 満腹になり、程よく酔って、約束通り瑞穂が払いを持ち、ふたりは下北沢の駅で別れた。ご馳走さま…と丁寧に頭を下げてから、英美里は井の頭線のホームに向かった。瑞穂は小田急線のホームに降りたところで、真帆にメッセージを入れた。
 ――真帆、ご飯食べた?
 すぐに返信が届いた。
 ――うん ちゃんと作って食べたよ 瑞穂はどうしたの?
 ――例の美人の同期とイタリアン!
 ――じゃあ いま彼女はシャワーしてるとこ?
 ――下北のホームです
 ――あれ? そうなんだ…………
 ――三点リーダーを四つも並べないでくれないかな。ほんとに寂しくなってくる
 ――早く帰っておいで 私が慰めてあげるよ
 ――いや、それはいい
 ――え どうして!?
 ――おっと電車がきた。おやすみ、真帆
 真帆の「慰めてあげる」は、延々と真帆の話を聞かされる事態を指しており、どちらが慰めているのかわからなくなる。読み聞かせをしているうちに、古い寓話になんだか考えさせられてしまい、子供が不思議そうに見つめているような――喩えが適切とは言い難いが、つまり、真帆の「慰めてあげる」は用をなさないのだ。
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