§08 広瀬将@真帆

文字数 4,724文字

 広瀬が早退したのは火曜日の昼のことで、そのまま入院し、翌水曜にはさっそく手術が行われる手はずとなった。幸い、大きな切除を必要とするものではなく、土曜日には退院して、月曜日から出勤できるとの見通しだった。
 真帆は心底ほっとした。広瀬が手術を受けようとしないという話は、美杉から聞いて知っていた。手術を受ければ確実に楽になるという話だった。どうして広瀬が手術を嫌がるのか理由はわからない。美杉もわからないと言うし、真帆もちょっと尋ね辛かった。カッコ悪いのはわかる。想像したくないけれど、つい想像してしまう。想像するとおかしくなる。月曜の朝、広瀬が出勤してきたときに、思わず吹き出してしまいそうで怖い。
 広瀬がいない間――と言っても三日に過ぎないのだが――真帆の面倒は四年先輩の島本が見てくれることになった。面倒といっても、困ったことがあったら島本に、という程度の話である。配属されて三ヶ月も経てば、日常で困るようなことは起こらない。電話の対処も、訪問客への対応も、今日明日にやるべきことも、ひとつひとつ指示を仰ぐ必要はなくなっている。島本も昼休み明けくらいに、どう?とひと声かけるくらいだった。
 これまでも広瀬が不在にしたことは何度もある。複数のプロジェクトに関わっているし、そもそも真帆とは立場が違うので、参加を要請される会議体も異なる。半日いないときも、一日いないときだってあった。が、今回はちょっと事情が違う。広瀬は入院しているのだ。
 木曜の夜にお見舞いに行こう、と美杉から連絡をもらい、真帆は喜んで同意した。さすがに痔の手術をした男性のところに一人では行けないし、それも軽いと聞いて部署内にもお見舞いなどという話は出てこない。真帆は美杉からの連絡を待っていたのだ。
 当日、美杉は朝から外出していた。早く終われば帰社するし、中途半端な時間であれば外から連絡すると言われた。五時少し前に、現地で会いましょう、とメッセージが届いた。真帆は慌てて地図で病院を探し、オフィスからの移動経路と所要時間とを確かめた。電車とバスを乗り継いで五十分ほどかかる。美杉との待ち合わせは、七時に面会受付の前だった。
 三月末に東京に出てきたばかりの真帆にはまだ土地勘がない。京浜東北線に乗るのは初めだった。これまで、賃貸マンションのある小田急線、オフィスのある千代田線、叔母のマンションがある東横線、あとは山手線と井の頭線くらいしか利用していない。人出の多い街中を歩くよりも、小さなリュックに本を入れて近くの公園などへ出かけるほうが、真帆には楽しかった。
 東京の公園は不思議な空間である。境界がはっきりしている。この範囲が公園です、としっかり柵や生け垣や壁で仕切られている。中に入ると空気が一変する。公園に来たぞ!と気持ちが切り替わる。そこだけ周囲からくっきりと切り取られ、隔絶している。だらだらと曖昧に連続していない。そこが素敵だと思った。
 真帆の同期入社は五人で、男子三人、女子二人である。仕事帰りの誘いを何度か断っているうちに、めっきり誘われなくなった。休日の約束をするほど仲良しになっている人間もいるかもしれないが、真帆は知らない。唯一の同性とはまったくウマが合わない。異性の三人も職場の同期という線を越えてこない。そこは正直やや複雑な心境だ。エレベーターや廊下などでちょっと話をしていても、それっぽい感じは匂ってこない。
 確かに、学生の頃も決してモテはしなかった。地味で大人しい子と見られていた。地味で大人しくて、たぶん「ちょっと変わった子」だ。十代を通じて親密だった数少ない友達はひとりも東京には就職しなかった。大学から東京に出て行った友達とは、四年の間に疎遠になった。
 東京には、母方の「池内」の親族が六人いる(神崎のほうはいない)。同世代にも従兄二人に従姉・従妹がひとりずついるけれど、郷里にいるときから交流が薄い。そもそも四人のうちの三人は

のつく秀才だ。一緒に暮らしていたいちばん年上の従兄とは八つも歳が離れており、真帆がまだ小学生のうちに東京に出てしまった。
 ――私はいまひとりぼっちなんだな
 山手線から京浜東北線に乗り換えて、混み合う車内から夕暮れの窓の外を眺めながら、真帆はふとそんなことを思った。ワンルームマンションの隣には瑞穂がいるけれど、瑞穂はあくまでも「きょうだい」だ。仲良しではあっても、人の抱える空虚には様々な種類がある。瑞穂が埋めてくれるものもある一方で、瑞穂ではどうにもならないものも多い。
 初めて降りる蒲田駅は思いのほか大きかった。ロータリーでバス停を探した。⓪番から⑥番まで並んでいて、不安だったので交番で教えてもらった。
 バスはすぐ病院に着いた。歩いてもいいくらいの距離だった。が、暑かったのでバスに乗るのが正解である。待ち合わせは面会の受付にしたはずだが、バス停を降りると美杉が立っていた。心配してくれたのだろう。
「お疲れさまです」
「けっこう遠かったでしょ、ここまで」
「この辺てまだ東京ですよね?」
「東京よ。もうぎりぎりだけどね」
 話しながら歩き出した。外来は閉じている。ひと気がない。面会の受付をしてエレベーターに乗った。お見舞いの品は美杉が買ってくれている。私のほうが時間があるから、と言って。
 六人の大部屋だった。広瀬は入ってすぐ左手のベッドにいた。枕を高くして横向きに寝ていた。そのほうが楽なのだと、あとで聞いて知った。
「本当に神崎まで来たのかあ」
「え? あ、すみません…」
「いや、いいんだけどさ。いいんだけどね」
 言いながら、ベッドの背中を(電動になっている)ゆっくりと起こした。
「無理しないでよ」
「大丈夫。重症患者じゃない」
「どうだった? 痛かった? 面白かった?」
「痛くも面白くもないよ」
「先生は男? 女?」
「妙齢の女性だったな」
「あら。じゃあ変なこと想像したんだ?」
「してない。…どういう尋問だよ、これ」
「妙齢の、とか余計なこと付けるから」
 笑いながら、美杉がお見舞いを取り出して、ベッドを跨ぐテーブルを、広瀬の足元から引き寄せた。
「プリンはOKよね?」
「おまえ、自分の好物持ってきたな」
「OKよね?」
「ああ、OKだよ」
「これ、おいしいのよお。神崎ちゃんも食べてみて」
 中目黒にある有名店のプリンだった。横浜で顧客と打合せがあった美杉は、わざわざ中目黒に回ってから蒲田まで来たらしい。が、真帆はこれを食べたことがある。叔母のマンションがそれこそ中目黒にあって、月に一度は訪ねる約束だ。確か五月、食事のあとに頂いた。ここは黙っていよう。初めて食べたふりをしよう。が、真帆は決して気を使ったわけではない。叔母の話をしたくないのだ。嫌いだからではなく、難しいからである。
 実際、「池内」の話をするのは難しい。真帆は本家に育ったものの、それは母が長女だったからであり、長男である叔父の奥さんが若くして亡くなってしまったからであり、だから従兄と本当の兄妹弟(きようだい)のように育ったのだが、「池内」の実権は本家に暮らす長女と長男にはなく、中目黒の三女(真帆の二番目の叔母)が掌握しており、実は真帆と瑞穂が暮らす賃貸マンションの契約者はその叔母であるとか――そんなこと、どうやっても説明できない。
 だから真帆は、うわあ!おいしそう!いただきます!と声を上げてみせた。
「そういえば神崎、いま誰が見てくれてる?」
「島本さんです」
「あいつ役に立ってるか?」
「う~ん、特にお願いすることもないので…」
「ねえ、島本くんてどうなの?」
「四年生ができるべきことを四年生なりのやり方できちんとできる」
「カウント1、てことね。それは貴重な情報。いいこと聞いたわ」
「ああ、でも、美杉のことはたぶん苦手だと思う」
「色っぽいから?」
「押しに弱いから。色じゃないほうの」
「足した分だけちゃんと増やしてくれるなら、それで充分」
 こんな話を聞いていいのだろうか…と真帆は少しそわそわした。プリンは美味しいけれど、ふたりのやり取りが気になってしまう。島本さんのことだけで終わってくれるといいのだけど、ここに新人の私がいることに気づいてくれるといいのだけど…。
 そう真帆が念じたせいか、社内の人物評価は続かなかった。ふたりとも同い年――今年度内に三十一歳になる――であり、それぞれ開発部門と営業部門のこれからを担うスターとして、すでに周囲から認定されている。このふたりからどう評価されるかは、この会社での、この先数年の過ごしやすさに直結するわけだ。新人の真帆はまだそうした評価の対象にはならないが、数年後、いまと同じようにふたりに可愛がられているかどうか、それはわからない。
 島本の話のあとは、三人は落ち着いて他愛のない話題を――もっぱら美杉が提供し――おしゃべりしながらプリンを食べ終えた。空いた瓶や封やスプーンなどを、そこはやはり真帆が片付けた。プリンを食べ終えた途端、美杉はもう帰り支度に移ろうとした。真帆はもう少し広瀬のそばにいたかった。水色の患者衣が新鮮で、無精髭も印象を変えている。ごく素直な感情として、なにか少しでもお世話がしたい、と思った。
 美杉はそんな真帆の胸の内を察したかのように、
「私もう帰るけど、神崎ちゃんはまだいていいからね」
 とひとりで椅子を立った。真帆は慌てた。思わず広瀬の顔を見て、どうぞ、なのか、どちらでも、なのか、迷わされた。が、ぽんっと美杉に肩を叩かれてしまい、腰を上げるタイミングを折られた。
 真帆は美杉に頭を下げて、病室を出る背中を見送って、改めてベッドの上の広瀬に顔を戻した。穏やかな表情をしている。真帆のほうはそれこそ心臓が喉から飛び出しそうなほど、急に緊張した。
「神崎、あのプリン食べたことあるだろう?」
「…どうしてわかったんですか?」
「芝居が下手くそだから」
「美杉さんにもバレてますでしょうか?」
「あいつはそういうの気にしないから。…友達と食べ歩きとかしてるの?」
「いえ、偶然です。叔母の家に行ったとき、たまたま夕食後に頂いて。…私、休みの日はひとりで公園行ったりとか、そんな感じですから」
「公園でなにを?」
「え~と、本を読んだり、子供たちが遊んでるのを眺めたり…」
「いいね、それ」
「いいですか? なんか、年寄りみたいじゃありません?」
「神崎はそういう自分が嫌なのか?」
「嫌ではないです」
「だったらいいじゃないか」
「そうですね。…はい、いいです。…あれ、なんか変ですね」
 広瀬と初めて仕事や職場に関係しない話をしていることが、真帆にはおかしかったのだ。が、そんなことをおかしがって真帆が「変だ」と言っているとは、広瀬にはわからない。ただ、この子はちょっと変わってるんだな、と思っただけである。
 そこで神崎真帆はイヤーマフを外し、それから公園の話をして、郷里の話をして、その勢いを借りて叔母の話をしているところに、面会の終了時間が訪れた。
 真帆は少し気持ちが昂っていた。けれども生来穏やかにしゃべるタイプだったから、広瀬は心地よく真帆の話す声を聞いた。大人が子供の声に微笑むように、女の声は男の耳を心地よく、男の声は女の耳を心地よく振るわせるのだろう――そんなことを考えながら、広瀬は真帆を見送った。
 消灯まで一時間、広瀬はベッドを起こしたまま、ぼんやりとカーテンを眺めていた。病室の誰かが咳ばらいをし、ベッドの上で体を動かす気配がした。廊下を歩くスリッパの音が聞こえ、看護師たちの話し声が聞こえた。が、看護師たちの声は――みんな真帆と同じくらいの年齢に聞こえたけれど――広瀬の耳には特段心地よくは響かなかった。
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