§11 タイムスタンプ@瑞穂

文字数 5,637文字

 ――タイムスタンプが更新されている!
 瑞穂は一瞬ぎょっとして手が止まった。同期の仲間と終電ぎりぎりまで飲み騒ぎ、帰ってきたのは一時前だった。楽しかった時間の余韻が残っていて、直ぐに眠れそうもなかったから、なんとなくノートパソコンを開き、いつもの習慣でクラウドを開き、パスワードを叩いていた。いっぺんに酔いが冷めるとは、まさにこのことだろう。瑞穂は少し迷ってから、ファイル「瑞穂」を開いた。

 今日、美杉さんと一緒に病院へお見舞いに行ったよ。例の広瀬さん。なんと、広瀬さんは×の手術をしました。ああ、女の子には書けないわ、×の手術だなんて。ヒントをあげるね。おしりのところです。いやいや、これじゃヒントじゃなくて答えだって!

 瑞穂はほっと息をついた。新しい日記だ、今日の――いやもう昨日か。いったん腰を上げ、冷蔵庫から缶ビールを持って来てから、続きを――けっこう長い――読みはじめた。
 真帆はもうとっくに眠っている時間である。瑞穂と違って夜に弱い。修学旅行でもいちばん最初に眠ってしまい、友達の大事な話を聞きそびれたと嘆いていた。大事な話というのは、要するに、誰ちゃんは誰くんのことが好きだとか、実はその逆だとか、そんな話である。大事と言えば大事かもしれないが、それは聞き逃したからそう思うのであって、損失を知らなければ後悔の念は生じない。
 広瀬についてはこれまでも何回か登場している。広瀬さんと美杉さんと常葉叔母さん――就職して東京に出てきてからの真帆の日記には、ほとんどこの三人しか出てきていないように思う。たまに同期が登場することがある。唯一の同性が憂鬱だ、とかなんとか。
 昔から真帆の日記には登場人物が少ない。友達二人、先輩二人、先生一人、恋人一人、そして従姉の芳乃(よしの)さん。いや、先生は二人か。学校の担任やゼミの指導教授と、双子研究の河合(かわい)先生だ。つまり、従姉の芳乃が叔母の常葉に置き換わったことが象徴するように、真帆の日記にはそのとき触れられるほど身近にいる人間しか登場してこない。友達も先輩も先生も、学年や学校が上がるたびに入れ替わり、一度消えた人間は、二度とふたたび現れることがない。従って、B6版のノートのときから変わることなく登場しているのは、唯一、双子研究の河合先生だけだった。
 瑞穂は長じるとともに河合先生とは離れてしまったが、真帆は実験の呼び出し以外でも会いに行っていた。東京に出てきてからも月に一度の訪問(真帆の聴覚過敏の経過観察)も楽しみにしている。が、瑞穂は億劫だなあと思っていた。実家に顔を出して旧友たちと会うのはいいのだが、河合先生を訪ねるのはもう終わりにしたい。我々はそもそもが二卵性であり、研究対象そのものではなく、一卵性の「引き立て役」に過ぎない。DNAから異なる自分たちにとっては、違うのが当たり前であり、それが遺伝子のせいだろうが環境のせいだろうが、正直どちらでもいいことだ。
 真帆の日記はいつになく機嫌の良さそうな書きぶりだった。どうやら真帆は広瀬という先輩というか上司のことが本当に好きらしい。当人はまだはっきりとは自覚していないように思える。酷く無邪気で、中学生の少女がちょっとカッコいい若い部活の先生のことを話しているような感じに近い。そのようにしか読めない。要するに、十年前と一緒である。
 この十年、真帆はほとんど変わっていない。もちろんこの日記がまだB6版のノートではじまったときから見れば、

かわからなかった胸も人並みに膨らんだし、お尻のほうなどは瑞穂の眼にも魅力的に映る。日記に記されてきたことを信じる限り、恋愛も失恋も初体験も、半年遅れくらいで追いかけてきた。変わらないのは、そうした変化や経験を経ても、真帆は十三歳の少女の頃と同じような調子で、同じような表現で、同じような言葉使いで、同じような距離感で、同じような立ち位置で、なにもかも同じように見えていて聴こえていて感じていて――言ってしまえば、この世界に対する象徴化の度合いが変わっていないということである。
 にもかかわらず、真帆と瑞穂はよく似ていると河合先生は言う。実験結果がそれを表していると。確かにちょっとした癖というか、ちょっとした好みというか、あるいは気を許せる人間のタイプであったり、なにか思いがけないことがあったときの振る舞い方など、そうしたものが似ているという自覚はある。他人からもよく言われてきたし、自分たちでも気づくことがある。だがそれが、我々が歩む人生にいったいどれほどの意味を持つというのか?
 どうやら真帆は明らかに月餅を

したいようだったから、瑞穂はスマートフォンを手に取ると、「僕は胡桃が欲しいな」とメッセージを送っておいた。蓮の実でも胡桃でも瑞穂はどちらでもかまわないのだが、真帆が日記に「蓮の実と胡桃があるよ」と書いていたので――彼女はこういうときには自分が好きなほうを先に書く傾向があることから――胡桃を選んだのである。そしてまた真帆は、こういうときに「どちらでもいい」と送ってしまうと決まって「どっちか選んで!」と返してくるに決まっており、他方で、彼女の好みのほうを選んでしまうと、どうすれば瑞穂にそれを諦めさせることができるか、深く長い苦悶に陥って厄介な事態になるから、胡桃を選んだのでもある。
 こうした瑞穂の洞察は、もちろん彼らが双子だから得られたわけではなく、ましてやエピジェネティクスの影響を測る必要などもないことで、要するに、二十二年余りを一緒に成長してきたからに他ならない。それ以外に理由など考えられないし、探してもしょうがない。瑞穂には、河合研究室での実験は、そうしたことの理由なり要因なりを「一緒に成長したのだから当たり前」という常識で割り切ることを敢えてしない、ただ偏屈で無駄に頭のいい大人たちの、贅沢で終わりのない暇潰しとしか思えなかった。
 いずれにしても真帆が書いた――書き加えた――昨日の日記の更新内容に安堵して、瑞穂はノートパソコンを閉じ、缶ビールの最後の一口を飲み干すと、トイレに立ち、歯を磨き、パジャマに着替え、エアコンの温度を少し上げ、ベッドに寝転がり、最後にスマートフォンを充電ケーブルにつないだ。
 と、その瞬間にメッセージが届いた。こんな時間に真帆か!?と驚いたが、違った。

 神崎くん、もう寝ちゃった? 私はいまやっと家に着いたところです。遠くてホントうんざり。今日は久しぶりにとっても楽しかったです。神崎くん、歌が上手でビックリ! 私、お酒が苦手で遠慮してきたんだけど、これからは参加したいなあ、なんて思っちゃいました。以上です。おやすみなさい。

 同期の月浦(つきうら)朱音(あかね)からだ。彼女は確か湘南新宿ラインが終わってしまい、東海道線で大船まで帰るからと、先に店をあとにしたはずだった。一時過ぎになってしまったのか…と瑞穂はちょっと気の毒に思ったが、メッセージの内容は明るい。
 月浦が参加したのはこれが二度目か? 三度目か? 「お酒が苦手」というのは、おそらく「酒席が苦手」という意味だろうと瑞穂は受け取った。確かに居酒屋では隅のほうに身を隠し、みんなの話を聞くばかりだったことを覚えている。カラオケボックスでも果たして彼女が歌ったかどうか…。いや、歌っていないはずだ。それは間違いない。
 しかし、そんなことはこの際どうでもよかった。月浦のメッセージの構成が、「とっても楽しかった」→「神崎くんは歌が上手!」→「これからは参加したい」と流れており、素直に受け取れば、あるいはこれを真に受ければ、「神崎くんがいるなら参加したい」に組み直すことができる。
 ――そうか! 今泉が言ってたのは月浦のことだったのか!
 道理でピンとこないはずである。顔を思い出すのがやっと…というくらいにしか、記憶に残っていない女の子だ。集団の中でのその印象の薄さ――あるいは印象を薄めている挙措動作――が、ちょっと真帆に似ている。そう思ったことがあった。けれども、とにかく顔を出さないのだから、どうしようもない。それでも今夜の彼女の様子はうっすらとだが覚えている。やはり、真帆に似ている。
 すぐに返信しなければ…と瑞穂は焦りつつ、眠気の吹き飛んだ頭で文面をこしらえた。

 ちょうど寝ようとしていたところだったのに、君からのメッセージを読んで目が覚めてしまった。今夜は眠れそうにない。君が僕の眠りを奪ってしまった。ああ、月浦朱音はなんて罪作りな女なのだろう! なんてね。月浦さん、また参加してくれ。今度はちゃんとお話ししたい。今日の君はずっと隅っこのほうに隠れていただろう?

 月浦朱音――どこかの農学部出身、だったような気がする。大船は実家だと言っていた、と思う。品質保証系に配属された、ような気がする。見た目も、それが予想させる言動も、とにかく控えめで目立たない、すぐにどこか隅のほうに隠れてしまう、そんな女の子だ。控えめで目立たない女の子は、控えめで目立たないという形容詞しか残さない。そこに副詞(強弱)が伴うくらいだ。彼女には「ぜんぜん」とか「まったく」とかだろうか。
 月浦朱音――すっきりとした顔立ちをしていた。たぶんそれもいけないのだろう。いまだに就活スーツみたいなものを着ている。たぶんそれもいけないのだろう。背は高くもなく低くもなく、太ってもいないし痩せてもいない。たぶんそれもいけないのだろう。髪は長くもなく短くもなく、走るのが早くもなく遅くもない――いや、足の速さは知らないけれど、間違いなくそうだ。成績だってよくもなく悪くもない。まあ、成績についてはお互いさまだけど――
 月浦朱音――とってもいい名前だ。万葉の世界をイメージさせる雅さがある。親もきっとせっかくの「月浦」姓を活かした命名を考えたに違いない。月浦小夜とか、月浦渚とか、月浦千波とか…。「朱音」の「音」は波の音だとして、「朱」はなんだろう? 夕暮れの月が赤みを帯びる時間帯に産まれたのかもしれない。産科の窓から夕焼けがきれいに見えたのかもしれない…。
 どうするか……瑞穂はスマートフォン上のメッセージを何度も読み返した。今日の出席メンバーも思い返してみた。居酒屋の情景、人通りの多い週末の街を歩く情景、カラオケボックスの情景、渋谷の駅でみんなと別れた情景――月浦は先に帰ってしまっていた――瑞穂はそうして必死にその姿を再現してみようとした。が、つかめそうでつかみ切れない、なんとも言えぬもどかしさばかりが空を切る。月は夜を明るく照らすが、恒星ではない。
 もちろん、瑞穂がじっとスマートフォンに見入ったのには、理由がある。火曜日の夜、下北沢のイタリアンレストランで、日高英美里が口にした言葉だ。
 ――おかしなことしたら、私、一生あなたのこと軽蔑するから
 どういう意味なのだろう? あのとき、英美里は間違いなく今泉から「月浦朱音」の名前を聞いている。だから、英美里は間違いなくそれが「月浦朱音」であることを前提に、そう言ったのだ。
 しばらくして、ふたたびメッセージが届いた。

 まさかすぐに返信してくれるなんて思いもしなかったから、あのあとすぐにさっとシャワーだけ浴びて、ブラッシングをして、歯を磨いて、入眠剤を飲んで、そしたら神崎くんからメッセージが届いているのを発見して、私はいまちょっとしたパニックです!! とってもよく効くお薬なので、私はあと数分しか意識を保っていることができません。なんだか電池切れを覚悟したアンドロイドの台詞みたいだけど。ほんとうなの。ごめんなさい。また明日。よかったら。メッセージ。ください。すごく、ウレ、シカ、ッタ……ぷつん―――

 瑞穂は思わず笑ってしまった。正直、かなりウケた。ひとりで声を上げて笑った。が、すぐに真顔になった。慌ててメッセージを確かめた。
 ――入眠剤ってなんだ!?
 そんなに慌てるようなことではない。入眠剤くらい、いまどき飲んでいる人間は大勢いる。そういう社会である。が、瑞穂はそれを軽く受け取ることができなかった。従姉の姿が――あの美しくも恐ろしい彩日香の姿が――とっさに思い浮かんだ。母の姿も。研究室の河合教授の姿も。それから叔母・常葉の姿も。
 自分たちが受けていた双生児研究の裏には、途中から別の目的が隠された。それは、叔母・常葉の意向を受けて、河合が密かに共有していたものである。直接的には母のせいであり、間接的には従姉のせいであり、遡れば祖父のせいである。母方の、「池内」の祖父だ。遊説先で倒れ、そのまま亡くなった。死因は心不全。だが、司法解剖が行われた。検死結果は叔父・拓馬と叔母・常葉だけが聞いた。医師の診断を裏付けるものだった、とふたりは言ったそうだ。しかしすぐに噂が流れた。薬物反応が出たらしい、「池内」はそれを隠している、と。
 ただの噂だと「池内」の人間は否定した。が、母と叔母(四女)がいくつかの薬を飲んでいることを瑞穂は知っている。従姉・彩日香の病的な奇行は隠しようがなかった。叔母(四女)の娘である従妹の静花については不思議なくらいに情報がない。そもそも彼女には最初から父親がいない。
 そして我々は二卵性の双子として産まれてきた。そのこと自体はおかしなことではない。が、「池内」にとっては好都合だった。さっそく河合研究室に連れて行かれた。表向きは双生児研究のサンプルとして。実態は我々を――特に真帆を――継続的に注意深く見守るために。
 瑞穂は明日、月浦朱音にメッセージを送ろうと決めた。どこかで、たとえば横浜とかで会ってもいい。いや、会いたい。会って確かめたい。会って直接彼女の口から聞きたい。――心配しないで。私は小さな頃からちょっと神経質なタイプで、特に大勢の人と会ったあとには眠れなくなることがよくあるの。ただそれだけのことだよ。そう言って笑ってもらいたい。
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