§16 「快復した病気」

文字数 3,642文字

 真帆がJR京浜東北線の蒲田駅に着く一時間以上も前に、広瀬は東急池上線の蒲田駅を離れていた。タクシーに乗ればいいのに…という美杉を振り切ってゆっくりと道を歩き、車内ではドアの端に寄りかかり、最寄りが地上駅であることに感謝しつつ、馴染みの商店街を抜けた。
 その間、美杉はずっと寄り添っていたのだが、どうやらその必要はなかったらしいと思った。病院に押しかけたのは余計なことだったかな…と考えていたところで、ふと広瀬が足を止めた。
「美杉、悪いんだけど、これ見て適当に買い物してくれない?」
 広瀬が差し出したのは、退院後の過ごし方について、注意事項を並べた紙切れだった。
「とりあえず二日分でいい。月曜は自分で買うから」
「いいわよ。でも私、広瀬くんのうち知らないんだけど」
「ああ、そうか。ちょっと地図出して」
 美杉がバッグからスマートフォンを取り出して、地図アプリを立ち上げた。広瀬が指先で操作して、アパートの場所にマーカーを立てた。ここからもうさほど歩く距離はない。
「203な」
「私のお昼も買って行っていい? 食べる場所ある? そもそも入るのを躊躇うほど散らかってたりしない? 言っとくけど私、掃除はしてあげないからね」
「俺はモノがちゃんと然るべき場所に収まっていないと落ち着かない人間なんだよ」
「へえ、それは楽しみ。その体じゃ慌てて片付けるのはムリだものね。でも異臭がしたら、速攻逃げ帰るから、そのつもりでいてよ」
 広瀬は信用されない不満をひょいと眉を上げることで示してから、じゃよろしく、と言ってゆっくりと歩き出した。美杉は商店街を戻り、小さなスーパーを見つけて受け取ったメモを開いた。――脂と繊維は避け、消化の良いものを。例として、うどん・おかゆなど、とある。それでは考えるまでもない。冷凍のうどんとか、レトルトのおかゆとか、そんなものを見繕えばいいだけだ。
 広瀬は二日分でいいと言ったが、美杉は四日分にしておいた。少しは味を変えたほうがいいだろうとも考えて――人は将来の食欲に関して多様性を想定する過ちを犯す――数種類のうどんとおかゆを選んだ。ちょうどいい、これを退院祝いということにしよう。
 地図を見ながら広瀬のアパートを目指した。外から人を集める街ではない。混み合った都内の古い住宅街である。東京に出てきて八年が経ったが、池上線の途中駅に降りたのは初めてだった。洒落た佇まいではないけれど、飾り気のない暮らしやすさを感じる。将来はこの辺りに暮らすのもいいかもしれない。
 地図アプリが美杉を案内した建物は、思いのほか大きく、しかも予想に反して小綺麗なアパートだった。ベランダと窓の数とその配置とが示すように、単身者向けの間取りではない。美杉は思わず地図を確かめてから、外階段にヒールを乗せた。
「確かにまあ、すべて然るべき場所に収まっている、とは言えるわね」
 玄関を上がってすぐのダイニングスペースのテーブルに買い物袋を置き、見渡す空間を埋め尽くすモノたちが、期待される役割を承知してそこにあることを、美杉は理解した。
 机が二つとパソコンが三台と本が数千冊――もう一部屋、ドアの閉まっている奥に、ベッドやクローゼットなどがあるのだろう。冷蔵庫が大型であることも、ここでの広瀬の時間の過ごし方を教えてくれる。
 要冷の品物を勝手にしまい込んでから――冷蔵庫の中にも爛れたレタスなどは見当たらなかった――美杉は小さなダイニングテーブルの、ふたつある椅子のひとつに腰掛けた。
「広瀬はそろそろ辞めるんじゃないか…」
「鳴海さんがそう言ってた?」
「立ち上がりそうなの?」
「金を出すというところは見つかったんだけどね。…でも、勝てる気がしない」
「お仲間も同じ意見?」
「そう。みんなそう思ってる。それに気づいてしまった」
 広瀬はデスクチェアーのひとつに――デスクチェアーはふたつある――美杉のほうへ体を向けて座った。軽い呻き声を吐き出しながら。
「何事かを成したい、何者かでありたい、どっちなのかしら?」
「エネルギーを燃焼し尽くしたら、そこで終わる。そのとき墜落した場所が、要するにゴールだ」
「ふ~ん、そうなんだ。どこかに行きたいところがあるわけじゃないのね」
「燃料が切れたら真っすぐ落ちるだけだよ」
「もう少し賢い生き方がありそうだけど…」
「それができないからこそ、こういう事態に陥るわけだよ、美杉くん」
 芝居がかった台詞とともに、広瀬が片腕を拡げ、夢の痕のごときモノに溢れた部屋へと、改めて招きでもするように、美杉の眼差しを誘った。
 しかし美杉の眼には、それらがすでに使い道のない、そもそもの機能が損なわれ、もう元の姿に戻ることのできない廃品のようだとは、映らなかった。
「入院中に決めたんだよ。みんなが見舞いにきてくれてさ。あいつらでっかい月餅を三つも買ってきやがって、そんなもの食えるか?」
「その月餅、どうしたの?」
「今朝、ナースステーションのやさしい天使たちにお配りした」
「あらあ…。私、月餅大好きなのに」
「そりゃ惜しいことをしたな。見舞いにきたのが昨日だったら分けてやれたのに」
 言いながら、広瀬がエアコンの風力を下げた。部屋はもう充分に冷えている。途端に静まり返ったように感じる気配の中、美杉はダイニングテーブルの下で足を組みかえた。
「これ片付けたら、一人じゃちょっと広過ぎるわよね、この部屋」
「引っ越してこようかな…とか考えてる?」
「そうかもしれない…。でも、押しかけるのは嫌」
 足元に視線を落とす美杉から、広瀬は自分の部屋を見渡してみた。
「片づけが終わるまで――そうだな、三ヶ月はかかるかな。アパートの契約更新はいつなんだ?」
「十二月」
「おお、ジャストじゃないか。――美杉、今度のクリスマスと正月は、ここで一緒に迎えよう」
「いきなりプロポーズ? デートもしたことないのに?」
「デートならオフィスで充分してきたろう?」
「味気ないこと」
 美杉が落としていた視線を上げたとき、それを待ち受けるように顔を戻していた広瀬の、いつものとぼけたような笑みに迎えられた。
「ねえ、本気で言ってる? 私を揶揄ったりしてない?」
「いますぐ歩み寄って抱き締めたいところなんだが、あいにく一度腰掛けちまうと、立ち上がるのがつらくてね」
「私に来いって?」
「来てくれないと、椅子に座ったまま睨み合いだ」
「頑張って立って歩いてよ。私が行くのは、ちょっと、難しいわ…」
「美杉も女の子みたいなこと言うんだなあ」
「ほら、すぐそういうこと言う。それで行けると思う?」
「そうか。よし。立ってみるか。…病院からここまで歩いてこれたんだし、ここからおまえのところまで歩けないはずがない。俺のこの長い脚なら三歩だ」
 デスクチェアーの両袖に腕を突き、半分はその腕の力を使い、呻き声とともに、見る者を――ここには美杉遥しかいない――冷や冷やさせつつ立ち上がった。そうして立ち上がってみると、確かに広瀬の言う通り、ここまで三歩でやってこれるほど、ふたりのあいだが近いことに、美杉はちょっと緊張した。
 立ち上がった広瀬は、しかし、そこから足を前に出そうとしない。身を固く小さくする美杉を、黙って三歩向こうから見下ろしている。美杉は戸惑った。どういうつもりだろう? なにを考えているのだろう? なにを待っているのだろう? ――ああ、私も立つのね。
 その通り、美杉がダイニングテーブルの椅子から立ち上がると同時に、広瀬がゆっくりと足を前に出し、一歩、二歩、三歩で美杉の目の前に到達した。そこで広瀬が抱き寄せるのか、美杉が倒れ込むのか、お互いに一瞬の迷いが生じたあと、それぞれがそうした。
「…広瀬くん、病院の匂いがする」
「ついさっき退院してきたばかりなんだよ」
「あら、どこを悪くしてたの?」
「女の子にはちょっと言いにくい場所なんだが…」
「でも、もうよくなったのよね?」
「そう。もうすっかりよくなった」
 それからこの大人の男女は無粋にも、極めて実際的な、つまり、この部屋の散らかりをいかにして片付けるか、そこへ女の持ち物をいかにして持ち込むか、調度や設備の過不足を点検し、一時費用と継続費用の按分を、ノートパソコン上に表計算ソフトを立ち上げて、不必要に大きなダイニングテーブルの一辺にふたつの椅子を並べて座り、綿密に計算し始めた。
 しかしそれが、確かにいかにも無粋ではあるものの、このふたりには楽しいのだ。そういうことをするのが好きな性分なのだ。性分だ、と言われてしまったら、いくら無粋だなんだと言ってみたところで、どうにもしようがない。そこに横槍を入れるのは、それこそ野暮というものだろう。
 なにしろこのふたりは、誰がどう見たところで、こうなることは明らかだったのだから。ただ、男のほうに「病気」があって、それが妨げになっていただけだ。その「病気」がこの数日間の入院で、もうすっかりよくなった…と言うのだから、もはや障碍はどこにも見当たらないのである。
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