§15 土曜日の夕@真帆

文字数 6,537文字

 どうしたことか、真帆は十三時過ぎに病院に着いた。広瀬はすでに退院していた。九時には家を出て、だから、遅くとも十時には病院に着くはずだった。駅に戻って歩きながら、ここはもう東京のぎりぎりだと言った美杉の言葉を思い出した。だから真帆は駅前を通り過ぎて真っすぐに南下した。南下すれば、地図の記憶が確かであれば、広い河川敷に出る。
 太陽をやや右手に仰ぎ見ながら、真帆は三十℃を超える暑さの中を、日傘をさし、ミネラルウォーターを口にし、ハンドタオルで汗を拭いながら歩いた。駅から三十分ほどで、やはり広い河川敷に出た。急に風が流れた。堤防の階段を下りてみる。野球場やテニスコートがあり、サッカーやフリスビーをする若者たちがいる。犬と追い駆けっこをして遊ぶ子供の姿が見える。
 真帆は堤防を降りたすぐ脇の草の上に座った。頬に汗が浮いているせいだろう、唇の端から沁み込んでくる涙の味が、いつもより酷く塩からい。リュックサックからウェットティッシュを取り出して頬を拭った。涙はティッシュを使い切ってしまうほどには流れ出さなかった。
 家を出たのはほんとうに九時だったのだろうか――きっと違う。十二時近くだ。電話を切って、ベッドに寝転がって、寝てしまったか、テレビを見ていたか――そうだ、テレビがついていた。高校野球の予選だ。プロ野球で使うような大きくてきれいな球場だった。どこなのか、真帆には特定する知識がない。東京で放送するのだから、首都圏のどこかなのだろう。
 そうしてなにをしていたのか――わからない。いつまでもぐずぐずとベッドに座っていた。お昼までに着かなければ広瀬に会えないだろうとずっと考えていた。お昼までに着かないといけない。そうしないと広瀬に会えない。病院で会えなかったらどうしようもない。広瀬の家など知らない。買い出しをしたり、いろいろ手伝ってあげるはずだったのに。
 もう間に合うはずのないことをわかっていながら家を出た。電車を乗り継いだ。駅から歩いた。病室を訪ねた。もう間に合わないことはわかっていたのに。……そしてまた少し涙が零れる。そしてまた少し風が流れる。……ほんとうはどうすればよかったのだろう。ほんとうに九時に家を出ればよかったのだろうか。十時に広瀬を驚かせ、呆れさせればよかったのだろうか。
 飛行機が見えた。思いがけないほど低く飛んでいる。真帆は地図アプリを立ち上げてみた。もうすぐ近くに空港があることに驚いた。試みにここから歩いたらどれくらいかかるか調べてみると、地図アプリは一時間四十一分だと教えてくれた。真帆は溜め息をついた。この暑さの中を一時間四十一分なんて、とても歩けない。間近で飛行機を見たかったのに。……そしてまた少し涙が零れる。そしてまた少し風が流れる。
 反対方向には駅があった。こっちはすぐそこにある。真帆は腰を上げ、いったん日傘を置き、リュックサックを背負ってから、日傘を拾った。堤防を上がり、人と自転車の行き交う土手を歩き、高速道路のような橋の下をくぐると、もう目の前に電車の橋梁が見えた。「六郷土手」というその駅からは、一時間余りで部屋に帰ることができた。なぜか四回も乗り換えた。
 洗濯物が乾いていたので取り込んだ。時計を見ると五時を少し過ぎていた。改めて窓を振り返ると、確かに空はオレンジ色になっていたので、真帆は首を傾げた。また時間がおかしなことになっている。あの堤防に二時間も座っていたことになる。少し泣いて、少し考えて、ふと飛行機に気がついて、地図で経路を調べてみて、また少し泣いて、たったそれだけで二時間も経過してしまった。
 しかし今日の真帆は、あの〈星空に包まれるような感覚〉には襲われていない。失われた時間は、強制的に時計の針を動かすときのように、あっという間に過ぎ去った。そうだ。腕時計の竜頭を引き出してくるくるッと指を回す、あの感覚に近い。ただし、外の時間を時計が追いかけるのではなく、時計を回して外の時間を動かした。
 ――なにが竜頭を回したのだろう?
 午前中にこの部屋の中でそれが起きたのは、真帆を広瀬の退院に間に合わせないためだ。午後に河川敷の堤防の下でそれが起きたのは……わからない。ただこの日を終わらせてしまうためだろうか。もしそれが善良な意志を持っているのであれば、真帆は広瀬に会わないほうがいいと考えてくれたのであり、今日はもうなにもしないほうがいいと考えてくれたのだ。
 もちろん、もしそれが善良な意志を持っているのであれば――という但し書きが必要ではある。悪意であれば、それはきっと真帆をひとりぼっちの淵へと突き落そうとしたのに違いない。だが、真帆は確かにひとりぼっちではあるけれど、混乱はしていなかった。おかしいな…と思っただけであり、もうひとつ言えば、もしそれが善良な意志を持っていれば…と考えてみただけである。
 ふと、真帆はイヤーマフを外し、耳を澄ませてみた。隣の部屋に瑞穂がいるか、気配を探ろうとした。が、鉄筋コンクリートの賃貸マンションの壁は厚く、これまでも物音を聞いたことがない。叔母が真帆のためにそういう建物を選んでくれたのだ。真帆は諦めて床に座り、洗濯物を丁寧に畳んだ。そこで買い物に出かけるのを忘れていることを思い出した。けれどもまた表に出る気持ちにはなれなかったので、買い物は明日にすることにした。
 洗濯物を畳み終えたところで、もう一度、真帆は耳を澄ませてみた。今度は眼を閉じて神経をそのことに集中させた。マンションの壁くらい、いくら分厚くたって、私たち双子のテレパシーの敵ではない。どちらかがシベリアのどこかでくしゃみをしたって聞き取れるのだ。が、やはり瑞穂の気配は感じられなかった。瑞穂は私たちの特殊能力が届かないところに隠れてしまっている。
 そんなことができたらどんなに素晴らしかっただろう! …いや、ダメだ。テレパシーとか使えたら、ぜんぶ瑞穂にわかってしまう。私が今日、病院に間に合わなかったことも、多摩川に二時間も座っていたことも。それに昨夜、十七歳のときに書いた日記を消したことも。いや、そもそもその前に、その日記を書いたそのときに、それが作り話だということがバレていたはずだ。
 真帆は自分の体のことや心のことは正直に書いた。左の乳輪にホクロがあることも、それがちょっと残念に感じることも。だけど〈彼〉がそのホクロを舐めてくれると気持ちがいいと書いたのは嘘だ。そんなことは真帆のホクロは経験していない。瑞穂が〈彼女〉のおっぱいの話を書いたから、真帆も自分のおっぱいの話を書いたまでの話である。
 そう、十七歳の瑞穂がそんなことをしたと書いたものだから、十七歳の真帆は鏡に自分の胸を映し、乏しい知識を総動員して、あれこれ想像した結果がそれだった。乳輪にホクロがあり、それを手掛かりにして創作ができたことに、真帆は満足感を覚えた。これは使えると思い、体中にホクロを探し、すべてメモしておいた。メモはその後も大いに活躍した。ホクロは真帆の作り話に現実味を与えてくれた。
 真帆はハッとして洗面所に駆け込んだ。Tシャツを脱ぎ、ブラジャーを外し、鏡に両手を突いた。
 ――ない…。ホクロがない!
 右の首筋からも、右のわき腹からも、左の腿の裏にも、左の二の腕の内側にも、ホクロが消えてなくなっている。もう一度、胸を鏡に突き出して、そもそものきっかけとなった左の乳輪を見たが、じっくり観察するまでもなく、そこにホクロなどなかった。
 真帆は脱ぎ捨てたTシャツを慌てて着ると、テーブルの上のノートパソコンを開いた。Wi-Fiにつながるとすぐにファイル「瑞穂」を開いた。一気に十七歳まで遡った。昨夜消したと思われるところから数ケ月さらに遡り、それからゆっくりと二十歳過ぎくらいまで戻ってきた。思った通り、ホクロに関わる記述が消えている。私はホクロを消してきたのだ。
 念のため、ファイル内を「ホクロ」「ほくろ」「黒子」と検索してみた。ひとつも見つからなかった。日記からホクロを消させる仕事は終わったのだろう。ホクロにまつわる真帆の作り話はもう残っていない。今日から違う仕事が始まるのだろうか。始まるのに決まっている。だって、竜頭をあんなふうに回したのだから。
 不思議なことに――いや決して不思議ではないのだが――真帆はちょっと安心した。夏の夕暮れはまだ明るい。陽が落ちてちょっと涼しくなっているだろう。このまま座り込んでいるよりも出かけたほうがいいような気がしてきて、真帆はやはり買い物に行くことにした。エコバッグにお財布とスマートフォンと鍵を入れて部屋を出た。
 エレベーターに乗り、鏡に自分の姿を映したとき、なにか忘れ物をしているような気がした。それでもエレベーターを降りてエントランスから表通りに出るまで思い出せなかった。通りに出て、風がすっと吹き抜けて、やっぱり涼しくなっている…と思ったところで気がついた。
 真帆はエコバッグを胸に抱えてエントランスに駆け込み、エレベーターに飛び乗った。誰にも会いませんように…と祈りながら廊下を早足に――音を立てずに――進み、部屋に入ってほっと息をついた。洗面所で着替え直し――裸の上にTシャツを被っただけであったことを忘れていたのだ!――落ち着いてあちこち点検し、改めて部屋を出た。
 土曜日の夕方のスーパーのレジにはけっこう客が並んでいた。真帆は左回りに――スーパーはどこに行っても売り場が同じ順路になっていて、違うのは右回りか左回りかだけであり、ここは左回りなのだった――ゆっくりと歩いた。野菜も果物もお魚もお肉もなにもかもが美味しそうに見えた。きっとお腹が空いているのだろうけれど、いちいち足が止まってしまい、たとえばブロッコリーとカリフラワーの前で、あるいはヒラマサとカンパチの前で、真帆は長いこと首を捻った。
 少し買い過ぎたかもしれない…と反省しながら、重たいエコバッグを下げて帰宅した。瑞穂はまだ部屋にいない。超能力があるからではなく、真帆にはただ

のだ。それを超能力と呼ぶのかもしれないが、見えるわけでも聞こえるわけでも感じるわけでもなく、ただ

だけなので、なんとも名付けようがない。
 真帆は冷蔵庫を開け――もちろんいま買ってきたものを入れるためにである――そこにラップで包んだ月餅をふたつ見つけ、今日はお昼ご飯を食べ忘れていることに思い至った。それでお腹が空いていて、いつも以上になにもかも美味しそうに見えたわけか。世の中こうして考えてみればなんにでも理由があるものだな…などと思いながら、冷蔵庫をいっぱいにした。
 しばらく冷房に当たって涼みながら、きっと今日の不思議な出来事にもなにか理由が見つかるのだろうと考えた。今日のことばかりでなく、これまでホクロにかかわる日記を消してきたことにだって、やはり理由を見つけられるのだろうと考えた。消した日記が――そもそも乳輪にあるホクロのことから始まったせいもあって――いわゆる性的な内容――とはいえ真帆の創作物である――であったことは、その理由を見つける手掛かりになるはずだと考えた。
 が、真帆の考えはそこで止まってしまった。真帆はエアコンの前から冷蔵庫の前に戻った。そして扉を開けて中をじっと見た。――広瀬の退院に立ち会って、広瀬の家まで一緒に行って、冷蔵庫の中を見て、買い出しに出かけるなんて、私はどうしてそんなことを考えてしまったのだろう…。
 真帆はふたたびノートパソコンを開き――空腹を忘れている――ファイル「瑞穂」を眺めた。日記は高校一年の夏休みから始まっている。それより以前の日記はB6版のノートと一緒に実家にある。母や、叔父・叔母たちが集めた蔵書で埋め尽くされた、本家の書庫に隠してある。『ビアス選集4 幽霊2』の箱の中だ。神西清のチェーホフ全集の後ろに隠れている。『ビアス選集』にしようと言ったのは瑞穂だった。『幽霊2』にしようと言ったのは真帆だった。『戦争』は違うし、『人生』は重いし、『殺人』は怖いから、まったく関係のなさそうな『幽霊2』の箱の中に入れたのだ。
 さっきも確認したように、クラウド上の日記からはホクロにかかわる記載が消され、十七歳の真帆の恋物語が虫食いになって残っている。十七歳の真帆が恋をしたのは事実だし、片恋でもなかった。学校の帰り道は手をつないで歩いたし、唇のほんの端のほうだけだったけれど、クリスマスの夕暮れにキスもした。だけどそのときの〈彼〉が真帆の乳輪のホクロを舐めたことはない。だからそこを舐められると気持ちがいいかなんて真帆は知らない。
 でも今はもうホクロの話は消えてしまった。消してしまった。ホクロの消えた十七歳の真帆の恋物語は

な姿に変貌している。性的な要素を失った恋物語は、いわゆるプラトニックな恋物語に姿を変えるのではなく、

で、どういうわけか却って猥褻さを増した。思春期ならではの微笑ましい不器用さ加減とか、抑え切れない剥き出しのグロテスクな欲望とか、あるいは情けなくみっともない無力感だとか、そんな、いかにも十七歳らしいなにものも感じさせない。ただもう気持ちが悪くなるくらいに猥褻な恋物語なのである。
 けれども真帆は、それらを消してしまいたいとは思わなかった。気がつけば、夢中になって十七歳の自分が書いた日記にのめり込み、恥ずかしさに頬を赤らめながらも、甘美でナルシスティックな切なさに酔い痴れていた。
 真帆の創作は、十七歳のときと二十歳のときの二回、ほぼ瑞穂の日記を追いかけ、なぞるように行われた。十七歳の真帆は交合に至る手前で物語を終えることができた。それは瑞穂が、それによって悲しい結末を迎えたからで、瑞穂にとっては悲しい出来事だったけれど、真帆がほっと息をついたのは事実である。しかし二十歳の真帆はそれを避けることができなかった。十九歳の瑞穂が幸せな日々を書き連ねはじめたからだ。
 いまはそのときの真帆の日記も、すでに消えてなくなっている。二十歳のときこそ、つい三年前のことなのに、なにを書いたのか記憶がない。あのときは現実の〈彼〉はいなかった。決して高望みをしているわけではない。過大な自己幻想を抱いているわけではない。けれども、十七歳の恋が終わったあと、これまで真帆を好きだと言ってくれた(確か)三人の男の子たちは、いずれも真帆から好かれる男の子にはなり得なかった。
 それに加えて、そもそも瑞穂の日記も淡白なものになっていた。十七歳の時とはまったく違い、十九歳の瑞穂はその幸せな日々の記述の中に、どこを舐めただとか、そんな具体的な行為やら心情やらを記すことはしなくなった。十七歳の瑞穂と十九歳の瑞穂は別人だった。だから二十歳のときの真帆は、手掛かりとなるものを得られずに、いまとなってはなにを書いたのか思い出せない程度の創作しかできなかった。
 とはいえ、ホクロを消す仕事はすでに終わっている。どちらが先なのかわからない。

というのは、体のホクロか日記のホクロか、という意味だ。真帆はこの春からせっせとその

を消してきたのである。体のホクロが消えて行くのを追いかけて日記のホクロを消してきたのかもしれないし、日記のホクロを消すことで体のホクロが消えていったのかもしれないし、前後はどうでもいいのだが、とにかくそれは今日をもって――正確には昨夜をもって――終わったのだ。
 真帆はノートパソコンを閉じた。表はすっかり暗くなっている。瑞穂はまだ部屋に戻っていないけれど――しつこいようだがそれはわかる――私はここから頑張ってみる。もう日記は消さない。
 今日はきっと、それを知るための一日だった。瑞穂はわかってくれるだろう。瑞穂は許してくれるだろう。だって、瑞穂はずっとわかっていたはずだから。私たちのあいだでは、それはもうわかってしまうはずだから。
 だけどまだ、真帆には瑞穂と離れるのは難しかった。もう少し、あともう少しだけ、時間が欲しい。もう少し、あともう少しだけ、そばにいて欲しい。あと少しだけでいいから。
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