§10 タイムスタンプ@真帆

文字数 5,669文字

 神崎真帆は昨日とほぼ同じ時刻にやってきた。もう明日退院だからお見舞いは持って来なかったと言った。ほんとうはなんにも思いつかなかったんですけど…と可愛らしく小さな舌を出した。だから代わりに――というのもおかしな話だが――広瀬のほうから種村にもらった月餅を持ち出した。中華街の老舗の紙袋を開けてみたところ、大きな月餅が三つも入っていたのである。
「ひとつは喰う。もらっておいて、ひとつも手をつけないわけにはいかない。それは俺の中の倫理だ。が、三つは喰えない。神崎の欲しいのを二つ持って行ってくれ」
「え~、ホントに! 広瀬さんにどれを残しましょう?」
「俺はどれでもいいよ」
「じゃあ、蓮の実と胡桃を頂きます。ごちそうさまです!」
 今日は同期の誘いを断ってきたのだと、真帆はそう話した(これは嘘である。真帆はすでに同期から誘われることがない)。正当な理由があると後ろめたい気持ちにならなくて済む、とも付け加えたので、広瀬は笑ってしまった。いつもは実在しない用事をこしらえては逃げているらしい。同期が退屈なのであれば、それはもう仕方がない。広瀬はそう考える人間だった。
 昨夜と違い、金曜の夜が見舞いにふさわしいものなのか、この日は他所のベッドでも多くの話し声が聞こえた。訪ねてきたのはいずれも女である。話し声でそれとわかる。話すのはほぼ見舞客のほうで、病人である男のほうは生返事だ。恐らく妻か娘か、そんな関係なのだろう。
 真帆もやはりよくしゃべった。穏やかで心地よい声だな、と広瀬は今日もそんなことを思った。どうやら職場では、自分はちゃんと彼女の声を聞いていないらしい。きっと言葉の意味ばかりに気をとられているせいだろう。意味が覆い隠しているもの、それが声だ――と、学生のときに誰かのそんな文章を読んだ記憶がある。誰かは忘れてしまった。
 真帆もついさっき広瀬が考えたのと同じように、あれは奥さんですね、こっちは奥さんて感じじゃないなあ…と声をひそめて彼女なりの推理を披露した。そうして他の見舞客の声にひとしきり耳を傾け、関係分析を行ったり来たりした後で、ふと真顔になった。
「私はなんでしょう?」
「部下だろ」
「ふつう想像しますか? 部下とか後輩とか。しませんよ、ふつうは」
「じゃあ、なんだよ?」
「私、妹っぽくありません? そうです。たぶん私は妹です」
「お姉ちゃんだったよな、神崎は」
「お姉ちゃんじゃありませんよ。私は真帆で、向こうは瑞穂で、それだけです」
「ん…?」
「完全に平等で、完全に固有なんです。真帆と瑞穂で、瑞穂と真帆です。そもそも二卵性ですから、上も下もありません」
「そういうのって、誰に教わった?」
「そういうの?」
「固有だとかなんとか、そういう議論をさ」
「あ、それは研究室の先生です。私たち、双子の研究のサンプルだったので。産まれたときからずっと。今でも追跡されてるんですよ」
「へえ。二卵性でもサンプルになるの?」
「それがなるんですねえ。私たちの先生は『エピジェネティクス』の研究に参加していまして、一卵性との比較対象のために、二卵性のデータも大事なんです」
「エピジェネ…?」
「エピジェネティクス、です」
「なにそれ?」
「え~と、すみません…。そこはちゃんと説明できなくて…。私も瑞穂もそんなに頭のいいほうじゃなくて…。とっても恥ずかしいんですけど…。遺伝子のなんとかではあるんですが…。遺伝子の、なんていうか、産まれたあとに起こる変化というか…」
「産まれたあと? 放射線で壊れるとか、そういう話?」
「違います、違います! そんな怖い話じゃなくて、ふつうに、たとえば育った環境とか、子供のころの体験とか、そういうやつです」
「それで遺伝子が変わるの?」
「遺伝子は変わらなくて、遺伝子の働き方が変わるんです、けど……ああ、そこはダメです。ムリです。自分で本読んで調べてください。私には説明できないです」
「でも神崎は二卵性なんだろ?」
「え~と、つまりですね、同じ日に産まれて、同じ家庭に育って、同じ学校に通って、そういう二卵性の、そのうえ性別が違う双子の――というサンプルなんです。わかりますか?」
「ああ、なんかわかった。『氏か育ちか』みたいな話な」
「そうそう! そんな感じ、そんな感じ」
「脳波とか調べられるのか?」
「いえ、私たちは脳波まで調べられたことはなくて、なんていうか、行動心理?ていうんですか? いろんな〈ジョウキョウ〉に放り込まれて、私たちがそれぞれどんなことをするか?みたいな、そういう実験に参加するんです」
「学者はそこでなにを見る?」
「たとえばですね、楽しいことがあったり嫌なことがあったりしたときにどんな態度をとるかとか、ほかの子が贔屓されたときに怒るかガッカリするか気にしないか、とか」
「ふ~ん。で、君たちはどれくらい似てるの?」
「ふつうに考えた通りです。一卵性ほど似てないし、同性の二卵性ほど似てないけど、双子じゃない〈きょうだい〉よりかはずいぶん似てる。…そんな感じです」
「それは似てるの? 似ちゃったの? それとも似せてるの?」
「…鋭いですね、広瀬さん」
 その通り――そこが問題なのだ。
 淡々とした表情の広瀬をじっと見つめながら、そこが問題なのだ――と真帆は胸のうちで繰り返した。なにごとか深く考えはじめてしまった様子の真帆を見て、広瀬はキャビネットの上のマグカップに手を伸ばし、夕食後にもらったお茶をひとつ口にした。
 真帆の眼はその手の動きを追いながら考えていた、〈生まれ〉なのか〈育ち〉なのか〈ふたりであること〉なのかという広瀬の質問について――答えはどれかひとつではない。たとえば頬杖や脚の組み方などは〈生まれ〉かもしれない。贔屓されている子のことが気にならないのは〈育ち〉かもしれない。そして、恋をしたりデートをしたり、あれは間違いなく〈ふたりであること〉の結果だろう。それを、どうやって広瀬に伝えるべきか、そもそも広瀬に伝えていいものか、真帆は迷った。
「エピジェネなんとか、ちょっとおもしろそうだな。俺も勉強してみるよ」
 真帆が心ここにあらず…の様子になってしまったので、広瀬が呼び戻した。
「あ、じゃあ先生に聞いておきますね、どの本がいいか」
「そうだね。よろしく」
 面会の終了時間が近づくと同時に、真帆の時間もまた終わろうとしていた。
「明日退院ですよね? 一人で大丈夫ですか?」
「おいおい、明日はくるなよ。それじゃあまるで奥さんだ」
「奥さん? う~ん、それはなかなか難しい選択ですねえ」
「なにが?」
「私は間違いなく

になると思いますよ。でも、広瀬さんが

になる見込みって、かなり薄い感じじゃないですか?」
「まあ、想像するのは難しいな」
「想像できないことをすると確実に失敗するよ、て言われたことがあります」
「誰に?」
「いとこのお兄さん」
「きっと頭のいい人なんだろう」
「どうなんですかねえ。…とにかく変な人です。なんて言うか――」
 そこで、面会時間の終了を告げるアナウンスが流れた。
「あ、もう時間ですね。じゃあ、明日はお気をつけて。月曜日、お待ちしています」
「ん、ありがとう。瑞穂くんによろしく」
「はい。ありがとうございます」
 カーテンを閉じ、病室を出て、ナースステーションの前を通り過ぎたところから、急ぎ足になった。高層オフィスのエレベーターと違い、病院のそれは言うまでもなく動きが遅い。息を詰めていた真帆は夜間出入り口から表に出ると、思い切り真夏の夜の空気を吸い込んだ。吐き出すときに膝に手を置いたのは、かたかたと震えてきたからである。
 ふたりきりになることなんて無理…と瑞穂に言ったように、真帆は持っている限りの勇気を搔き集め、結晶化して首から下げて、それをグッと握り締めながらやってきた。広瀬の病室は大部屋で、厳密に言えば

とは言えないけれど、しかし、カーテンは閉じられていたのであり、広瀬は患者衣を着けてベッドに横になっていたのであり、オフィスの会議室や打合せブースとは明らかに違う。真帆にとってそれは

に準じる状況だった。そこから抜け出してきた途端に膝がかたかたと震えてくるのはどうしようもない。
 じっとしていてはいけないと思い、真帆は王宮前の衛兵のように歩き出した。それくらいの気持ちにならないと、足が上がらなかった。グーグルマップが徒歩十三分と計算する道のりを、三十分ほどもかけて駅にたどり着いた。最短ルートは品川→渋谷→下北沢を経由する。品川までは夜の上りだから空いていた。が、品川から渋谷までの車内では酷い目に遭った。大崎でうっかり外回りの右側のドア近くに押し込まれてしまい――うっかりもなにも、真帆は知らなかったのだが――五反田・目黒・恵比寿と乗り降りする乗客にもみくちゃにされた。
 もう泣き出しそうになりながら渋谷を玉川口に出て、そこからも後ろから追い立てられるように井の頭線の改札を入った。ここではホームの前の方まで行くべきことを、真帆も承知している。金曜の夜九時過ぎの渋谷はちょうど二つ目の帰宅ラッシュの時間と重なって、狭いホームの中央を掻き分けつつ突き進んだ。急行をやり過ごし、各停を待った。
 病院を出たときに膝が震えていたのは、三十分ほども歩いているうちに収まっていたけれど、山手線でのポジショニングの失敗もあって、真帆は疲れ果てていた。滅多にしないことなのだが、下北沢で乗り換えたとき、今日はお弁当で済ませようと決めた。
 そこでハッとして耳に手を当てた。病院に着き、受付を済ませ、広瀬のベッドがある病室に入る前に、イヤーマフを外したまま、付け忘れていた。…そのせい? いや、違う、と真帆は思った。もちろん、山手線で泣きだしそうになってしまったのはイヤーマフのせいかもしれないけれど、病院を出たときから足が震え出したのは、イヤーマフのせいなんかではない。
 真帆は最寄り駅で目の前のコンビニに立ち寄り、十分ほど歩いて賃貸マンションのドアを開けた。靴を脱ぐと、短い廊下を這って進み、フロアリングの床に仰向けになった。廊下の灯りだけでぼんやりと見える天井を見上げたとき、突然そこで――予期していた通りに――心拍数が跳ね上がり、思わず胸を押さえた。
 天井が星空(のようなもの)に変わっている。それは真帆を包み込むように無限の彼方へと広がりながら、真帆の内側から溢れ出すように胸の奥をなにか頻りにまさぐった。いつもとは少し違うようだ。が、どこがどう違うのか把握できない。しかし、

はやはりこの日もうまくコントロールされており、真帆が部屋にたどり着くのを待っていた。
 

が誰のせいなのか、もはや明らかなように真帆は思った。ふつうの思考がふつうに働いてふつうに得られる結論は、

が「広瀬将」のせいであることを主張している。広瀬が真帆の中のなにかを探し出そうとしており、真帆は広瀬にそれを見つけられまいとして、四方八方に幾重ものベールを下ろすのだ。違う。隠そうとするのではない。

を見つけられないように、わざと四方八方へとバラバラに弾き飛ばすのだ。そもそもの意味をつかみ取ることができないほど小さく、無秩序に解体し、ばら撒くのである。
 そうして広瀬の眼が攪乱されてあちこち惑いつつ躓いているうちに、真帆はこっそり日記を消す。日記の記述のある一日が、落ち着きを失くしておろおろきょろきょろと、不安げに周囲を見回す。前後の一日や、あるいはもっと前や後の一日やらが、おまえはなにものだ?と詰め寄ってくる。
 我々はおまえを知らない。おまえは我々の〈きょうだい〉ではない。おまえはどこかで拾われてきたのではないのか? よく見てみろ、おまえの遺伝子は我々のものとは違う。エピジェネティクスのせいではない。配列からして違うではないか。おまえのDNAは我々とはそもそもの始まりから異なるのだ――
 真帆は眼を開けた。いや、ずっと眼は開いていたのだが、いま改めて眼を開けた。
 立ち上がり、部屋の灯りをつけ、着替えをした。実家から持って来たノートパソコンを小さなテーブルの上に置いた。キーボードを操作する手がまだ少し震えている。Wi-Fiにつながったところでデスクトップにあるショートカットをクリックする。パスワードを打ち込むと、ふたつのテキストファイルが並んで現れる。「真帆」・「瑞穂」の順に並んでいる。真帆は「瑞穂」を開く。ページダウンしながら探しはじめる。21歳、20歳、19歳、18歳、17歳――あった。これだ。
 ――ごめんね…
 心の中で呟いて、デリートキーを押す。一字ずつ、その日の記述が消えて行く。けっこう長い。ずいぶん書いたのだ。たくさん書くことがあったのだ。たくさん書かなければいけなかったのだ。書いているうちにどんどん長くなってしまったのだ。書けば書くほどに、次の言葉を、次の行を求められたのだ。だからこんなに長くなってしまった。
 その日の記述がすべて消えたところで、真帆はファイルを閉じる。変更を保存するか?と尋ねられ、真帆は「はい」と応える。タイムスタンプが更新される。21:44――瑞穂はいつ気がつくだろう。毎日開いてはいないはずだが、今日は金曜日だから、この週末には気がつくだろう。なんて言えばいい? なんて応えればいい?
 そうか、そうだ! 真帆は突然うまいアイデアを思いつく。今日のことを書こう。広瀬をお見舞いに行ったこと。職場の先輩でありOJTでもある広瀬が入院したのだから、お見舞いに行くのは全然おかしなことではない。そういう職場なんだよ、と伝えればいい。
 プリンをお見舞いに持って行ったら、月餅をお土産にもらってしまったの。蓮の実と胡桃のふたつ。瑞穂、食べたかったらひとつあげるよ。大きな高級な月餅だよ。少しずつ食べれば何日も食べられるよ。欲しかったら連絡してね。ポストに入れておくから。あ、すっごくすっごく甘いから、冷蔵庫に入れなくても大丈夫――
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