第26話 初の新潟町検分 砂丘被害

文字数 2,436文字

 到着早々、修就は、予定通り仮奉行所に入った。

修就が、上段の間に着座すると次の間に控えていた

長岡藩の新潟町奉行2名、郡奉行に続いて、

唐物改役などがあいさつをした。

修就は、仮奉行所と居屋敷中を歩きまわり、

造作の修理・畳替え・障子張りが

すべてなされているかどうか自らの目で確認した。

修就は、長岡藩領時代に新潟町のあらゆる町政を

取り仕切っていた町役人を停廃することを宣言して

長岡藩領時代から奉行所に勤めている町役人たちを驚かせた。

「身共は、もういらねぇってことですか? 」
 
 新潟奉行所検断の1人の松浦久兵衛が、

修就の御前まで進み出て質問した。

「そうではない。まあ、落ち着いて聞くが良い」
 
 修就が冷静に告げた。

「お奉行様は、身共がどれだけ、

新潟のためにやってきたのか何も知らねぇ故、

斯様なことを仰せになれるんですよ」
 
 松浦の背後には、無言の圧力をかけてくる

長岡藩領時代から奉行所に勤める町役人たちが控えていた。

修就は立ち上がると皆を見まわした。

「実は、わしは、古くからおぬしらを存じておるが、

定めしおぬしらも、わしのことを存じているはずじゃ。

この顔に見覚えはござらぬか? 」
 
 修就の思いがけない問いかけに、その場が騒然となった。

 長岡藩領時代からの町役人たちが

互いの顔を見合わせて耳打ちしている一方、

修就は不敵な笑みを浮かべて見据えた。

「この新潟に、江戸屋と申す飴売りがおったじゃろ? 

あれが、わしじゃよ」
 
 修就の言葉に、先ほどまであんなに息巻いていた松浦が、

口をあんぐり開けたまま固まった。

新潟奉行着任後。修就は、新潟において、

雨、霰、雪、風という荒天が続く1年の内で最も、

不安定な季節の洗礼を受けた。悪天候の中でも、

新潟浜村受け取り作業を行うため、

組頭、広間役、定役、並役いずれも、

野袴を着けて総出勤しなければならなかった。

江戸で選任された他の新潟奉行所構成員たちも続々と、新潟入りを果たした。

4日前に、新潟入りした組頭の関源之進は仲番所を受領した。

同じく、組頭の成瀬又太郎の方は、

三条出船がおくれて15日にやっと到着して、

仲番所、唐物改番所の他、本町通にある

高札場、広小路にある船蔵などを受領した。

 また、洲崎の番所へは、広間役の村上愛助が出張して

建造物と共に備え付けの大筒小筒を引き継いだ。

 この日、修就は、長岡藩から仲金2100両余を査収した。

 悪天候に風邪が重なり、修就は、

心身共に不調の状態で受取り作業を進めなければならなかった。

 新潟地堺の榜杭打ち、囲籾の受領、牢屋の引き継ぎも終わった。

 同年、10月20日。郷村引渡し申達となったこの日。

長岡藩領時代の新潟町奉行の槇三左衛門、安田杢両名。

郡奉行の木村戸右衛門以下、町役人たちは全員、

麻上下威儀を正しく、居間に2列に並んだ。

「郷村、諸書物、諸番所その他を受領した」
 
 修就が申し渡すと、一同、平伏した。

 支配換えの業務を終えた修就は、

翌日付で「囲籾請取侯趣申上侯書付」

「新潟表御備場洲崎番所其外請取侯趣申上侯書付」と

新潟表記録にある御届と共に、

「郷村諸書物請取侯趣申上侯書付」として、

事務完了御届を老中の土井大炊頭利位や真田信濃守幸貫に提出した。

修就は手はじめに、組頭を通して、

検断や年寄に「今日より奉行所支配と心得」

その旨を小前の者まで徹底させよと命じ、

10月21日の4ツ時には、検断3名を呼び出した。

「いろいろご苦労」
 
 修就が、1間置いた部屋から謝意を表すと、検断3名が平伏した。

「向後は諸事入念に」
 
 さらに、修就が申し渡した後、

検断3名が、「承知つかまりました」と告げて、再び、平伏した。

奉行所の係分担は、組頭2名が相談して、

奉行である修就が決定して申し渡すとした。

早速、翌日から、新奉行の町内検分が開始された。

修就は休む間もなく、翌、22日五ツ時から、

羽織袴姿で、洲崎番所をはじめ、各番所を廻り夕方に帰着した。

 その翌日も同じく、五ツ時に奉行所を出て、

雪・霰・寒風と相次ぐ悪天候の中、

柾谷小路から船に乗り代官島、附寄島、水島、

米山前等を検分して提灯をつけて帰着した。

24日には、六ツ半時に出立して、

浜風が荒れ狂う新潟浜通から、関屋・寺尾・青山・内野を通り、

五十嵐浜村番所に至るまでの検分を行った。

「話には聞いておったが、想像以上に、ひどい有様じゃ」
 
 修就は、浜通りを検分する道すがら、

飛砂の惨状を目撃し思わず絶句した。

「堀直寄様が、元和3年に、巡見した折にも同じように

この惨状をご覧になり、浜手に河原グミを植えさせたそうにごぜぇます。

 これまで、藩も、砂丘地に植栽するなど手を尽くして参りましたが、

この通り、とても、人が住める状況ではござらん」
 
 案内役を務めた長岡藩年寄の又左衛門が恐縮気味に話した。

 新潟町には、砂丘があちこちにあるが、

信濃川河口に近い日和山は、新潟町で最も高い砂丘の1つだ。

日和山の頂上からは、日本海を一望することが出来る。

日和山の下には、新潟町の廻船問屋が共同で作った下小屋があり、

各問屋の手代が毎日のように詰めている。

各問屋の手代たちは、交替で日和山の頂上に登り、新潟湊を監視する。

新潟湊に廻船が近づくと、通辞船に乗り込み廻船へ向かうのだ。

 晴れた日は、家族連れが浜辺に円陣を作り食事をするなど、

思い思いのひとときを浜辺で過ごす町民の姿が見受けられる。

 新潟の浜は、町民にとって憩いの場所でもある反面、

砂入りや飛砂が発生する不毛な土地でもある。

修就は、検分に立ち会った町民から話を聞き、

砂入りがある度に、住処を転々としなければならない町民の苦労を知ると、

ただちに、海岸樹木の伐採を厳禁し、

奉行所の役人に砂時計と諸苗木植付掛を任命した。

 さらに、北蒲原郡方面の漁村に側近を派遣して

松苗の育て方を研究させるなど行動を起こした。

検分に参加した奉行所に長岡藩領時代から務める

町役人たちは日を重ねる内に、修就の多少強引ではあるが、

抜群の行動力に、一目置くようになった。

 
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