第20話 新たな局面

文字数 6,952文字

 天保14年、6月11日。幕府は、越後長岡藩に対し「新潟上知」を命じた。

 「新潟上知」の成立は、修就の出した調査書が決め手となった。

修就の調査書には、長岡藩が、新潟上知を承知せずにはいられなくなる程の

長岡藩にとって、不利益をこうむる内容が、事細かく記されていたからだ。

 幕府は、「新潟上知」を行う目的として、

幕府の改易転封権の再確認・幕府の財政補強・海防の強化・流通統制が挙げた。

上知の理由は、唐物抜荷事件が新潟において、

2度にわたり摘発されたにも関わらず、

唐物抜荷が今もなお、行われている現状に対する長岡藩の

その場凌ぎの対応と北国方面の海岸防備に関して長岡藩は、

不十分であるというものだった。

第1回目の唐物抜荷事件の直後、老中の水野忠邦は、

勘定奉行の明楽騨守をはじめとする

御庭番家筋の旗本たちに各地の抜荷探索を命じた。

新潟町での唐物抜荷事件の探索の結果、

第1回目の唐物抜荷事件が落着した後もなお、

水銀、丁字、大黄などを積み込んだ船が、新潟湊へ入港していたことが発覚した。

新潟町の店先に並んでいる薬種類や光明朱などの唐物がどれも

江戸で売られているよりはるかに安いと評判を呼んでいることから、

新潟町の店で売られている唐物の大半は、

薩摩船と交易した抜荷の唐物であるという風評が江戸にも広まった。

また、新潟町の豪商として有名な廻船問屋「津軽屋」の主、高橋健蔵や

廻船問屋「当銀座屋」の主、善蔵が、

専ら唐物取引を行い大儲けしているとの風聞が、

唐物抜荷摘発以前の新潟町と近隣国へ、広まったことがあった。

さらに、会津若松において、

漆塗り製品が黒塗り製品より安く売られているのは、

新潟の商人が、抜荷を行って安く仕入れた光明朱が

多く出回っているからだとの風聞もあった。

修就は、長岡藩が、唐物抜荷の取締まりを徹底的に行わなかったのは、

新潟湊で徴収する仲金の内、諸経費を差し引いた残金3500両が、

藩の財政の収入源となっており、改革政策が実施されて、

運上金と「冥加金になると、この収入は消滅して、

川除川浚などの町普請、沖ノ口番所及び水戸教船などの

経費を出すことが出来なくなるという見解をした。

 朝、四ツ。太鼓が打ち鳴らされた江戸城大手門前は、

御用付の侍たちが続々と、登城し混雑する。

天保14年、6月17日。修就は、

諸糸麻の裃と黒紋付を身に着けて颯爽と大手門をくぐった。

修就は、この日を晴れやかな気持ちで迎えた。

天保11年に越後新潟町の内々御用を仰せつかって手柄を立てたことにより、

上知後に新設される越後新潟町の初代奉行に登用される内示があったからだ。

家では、お滝が、赤飯を炊きお頭つきの鯛を準備して帰りを待っているはずだ。

朝の6時ころ、修就は登城すると、目付の案内で中奥の御座の間に伺候した。

月番老中の土井大炊頭利位が、下段と二の間との境にある柱のもとに、

両手をついて着座していた。

修就は、土井の左手、下段の入側の方の柱のもと、

敷居との間の辺に着座して平伏した。

少しして、家慶が、肩衣に袴を着けた姿で御休の間から現れて、

御座の間の上段に着座した。御用取次が、土井に目配せをすると土井が肯いた。

それから、御用取次は、修就へ眼で会釈した。

修就は、両手を膝前へ合わせ入側に入り

然るべき座へ出て擦膝で進むと、両手をついて平伏した。

「勘定吟味役、川村清兵衛修就」
 
 土井が修就を披露した。

「それへ」
 
 家慶が、修就に前へ出るように促した。

この時、修就はただ、身を起こし進もうとするが出来ないと、

からだを左右に、少し動かして見せた。

「初代新潟奉行申し付くる」
 
 家慶が告げた。修就は平伏したまま沈黙する。

「結構、仰付けられ有難く存じ奉ります」
 
 土井が告げた。

「言い談じてよう勤めい」
 
 家慶が告げた後、土井は、「かしこまりました」と代弁した。

 その後、家慶は、ただ、二言、三言だけ発し御座の間を後にした。

新潟奉行の足高は、千石、役料千俵、席順は、

「佐渡奉行」の次席と決定された。

修就が、中之間に出勤すると、見慣れた後ろ姿があった。

修就は、水野を奥の間に案内した。

ここ数年の間、水野とは何度も、対面して来たが、

水野の方から訪ねて来るのは、初めてのことだ。

水野の修就に対する期待がひしひしと伝わった。

「おぬしの倅。名は、庄五郎といったか? 

なかなか、利発そうな倅じゃ。庄五郎殿は、未婚だと聞いたが、

拙者が、良い相手を捜してやろう」
 
 水野はいつになく、饒舌だった。

「実は、奥御右筆組頭の荒井甚之丞殿の娘との縁談話がございまして‥‥ 」
 
 修就は、身内の件について

自分を引き上げてくれた水野に話すことに関して、少し気が引けた。

もしも、失態をしでかした場合、

私生活の件で職務をおろそかにしているのではないかと、

余計な詮索をされることが、何より嫌だったからだ。

「さようか。ならば、なるべく、早い方が良いな。

しばらく、留守を任せるのじゃ。妻帯である方が安心じゃ」
 
 水野が微笑んだ。初めて見る笑顔だ。

「内々のことまで、お気遣い頂きかたじけない。

ところで、お話というのは? 」
 
 修就が話を切り出した。

「新潟奉行着任にあたり、おぬしに大きな課題を与えることと致す。

1つは北海防御の件じゃ。おぬしには、

北海防御のための台場構築を調査してもらいたい。

2つ目は上知後の新潟の改革じゃ。まずは、新潟奉行所役人の人数と待遇は、

下田や浦賀奉行所を手本として計画を立て、調査書と計画書の提出致せ」
 
 水野は、いつもの厳しい老中の顔に戻った。

「承知仕った」
 
 修就は平伏した。思えば、水野には、何かと世話になった。

 緊張せずに、話を出来るようになったのはごく最近だ。

自分のどこを気に入ったのか知らない。偉いお方であるのに、

下役の自分にも気さくに接してくれる。

修就を「勘定吟味役」に抜擢したのは水野だった。

 水野に命ぜられて、江戸湾の「御備場御用係」として

江戸近海を調査したことは記憶に新しい。

居屋敷に、砲術の練習場を設ける許しを得ることが出来たのも、

水野が、幕閣に口添えしてくれたおかげだ。

退勤後、考え事をしながら歩いている内に、

気がつくと、屋敷の近所まで来ていた。

江戸城を出た時は、まだ明るかったのに、

いつの間にか、どっぷり日が暮れて、辺りがうす暗くなっていた。

屋敷の近くまで来た時、一瞬、頭上がかげった。

ふと、見上げると、1羽のヒバリが、屋敷の方へ急降下したのが見えた。

修就が門をくぐった時、裏手の戸が開く音が聞こえた。

長い間、雨に濡れて所々、朽ちた戸は開ける度に悲鳴に似た音を出す。

この時間、裏手から出入りする者はごく限られている。

修就は、長男の順次郎だと直感した。

順次郎は、天保8年、11月18日。

若年性リウマチを患っていることが分かり廃嫡になったばかりか、

病弱を理由に御番入りならず、

旗本の倅にも関わらず御家人のような暮らしをしている。

また、幼いころから、からだの弱かった順次郎は、

外で他の子供たちと一緒に遊ぶことが出来ず、

いつも屋敷の中で寂しそうにしていた。

亡くなった修就の父、順次郎にとっては祖父にあたる修富が、

そんな孫を不憫に思ってかある日突然、

鳥屋から、ヒバリを買って来て順次郎に飼育を任せた。

順次郎は今でも、手先の器用な修富が生前にこしらえた

竹で編んだ丸い鳥籠を大切に使っている。

今、飼っているのは、愛鳥家の知人から譲り受けた

「ヒメコウテンシ」という種類のヒバリだ。

「また、放し飼いにしておったのか? 」
 
 修就は、庭に佇んでいた順次郎に声を掛けた。

「賢い奴なのですよ。あちこち飛び回って、

気が済んだら、ちゃんと、籠に戻って来ます」
 

 順次郎が、曖昧な笑みを浮かべた。

 ヒバリの中には、鳥籠から飛び立った後、

自ら鳥籠に戻ることや名を呼ぶとさえずり返すなど芸のできるヒバリもいる。

 そうかと言って、芸を教え込むにはそれなりに、

根気がいるし、飼い主とヒバリの間に強い絆がなければ、

ヒバリは、芸を身に着けることはない。

「おぬしも、外へ出掛けておったのか? 」
 
 修就は、順次郎の顔をのぞき込んだ。

 戻って来るのか心配で、鳥籠から飛び立ったヒバリを追跡していたに違いない。

「近所を散歩してきました。父上は今、お帰りでございますか? 」
 
 順次郎は、言い訳をしてごまかした。

「とにかく、中へ入ろう。母上が、御馳走を準備して待っておるぞ」
 
 修就は、表戸を開けると順次郎の背中を軽く前へ押し出した。

順次郎は前のめりの状態で、玄関へ足を踏み入れた。

「お帰りなさい。あら、ご一緒でしたか? 」
 
 妻のお滝が、前掛けで手を拭きながら玄関先まで歩いて来た。

「ただいま帰りました」
 
 順次郎が、うつむき加減であいさつした。

「おそくなってすまない」
 
 修就は上目遣いで、お滝を見た。

 朝、出掛ける時は早く帰宅すると伝えてあったが、

夕餉の時刻をとっくに、過ぎてしまった。

「子供らが、殿のお帰りを今か今かと待っておりましたよ」
 
 お滝がにこやかに告げた。

「皆が揃うのは久方ぶりじゃ。菖之助はもう来ておるのか? 」
 
 修就は、履物を急いで脱ぐと足早に居間へ向かった。

子供たちの楽しそうな話し声が居間の外から漏れ聞こえた。

「ただいま、帰ったぞ」
 
 修就が勢い良く障子を開けると、

御膳を前におあずけをくらっていた子供たちが一斉に、歓声を上げた。

 修就の後から居間へ入った長男の順次郎を筆頭に、

修就には、次男、3男、4男、5男。そして娘が2人いる。

 修就は、文化14年に、御台様御用達の宮重伝三郎の娘のお滝と結婚後、

5男2女の子宝に恵まれた。

 長女のお琴は、御書院番の松井斧太郎に嫁ぎ実家を離れている。

現在、川村家にいるのは、老母のコノ。

妻のお滝。長男の順次郎とその妻のみき。

次男で、惣領息子の庄五郎。4男の金四郎である。

 5男の茂之丞。そして次女のテイ。3男の菖之助は、

御膳奉行の中野金四郎の養子に迎えられて別居していたが、

実父の昇進祝いの席とあって、中野家から遊びに来ていた。

 子供たちが勢揃いすると、いつもより一段と、にぎやかになる。

修就は、久しぶりに、楽しい家族団欒を過ごした。

「父上。ご一緒させて頂いても、よろしゅうございますか? 」
 
 庄五郎が、夕餉の後に縁側に出て晩酌を始めた修就の横に来て坐った。

 父子2人、縁側に並び坐り、月を眺めながら、スルメを肴に冷酒を呑む。

長男の順次郎は、薬を服用しているため断酒をしており、

成人した息子と酒を酌み交わす夢は果たせなかったため、

庄五郎が、酒を呑める年齢が待ち遠しかった。

 同じ屋根の下に住んでいながら、お互い忙しく、まともに話すのは5日ぶりだ。

5日会っていないだけなのに、少し見ない間に、

我が子が成長した気がしてならないのは、親バカなのかと、修就はふと考えた。

「父上と酒を呑むのは、当分、おあずけですね」
 
 庄五郎の横顔がどこか、さみし気に思えた。

修就はあえて、庄五郎のさみしさに、気づかないフリをした。

「おぬしも、年頃の男じゃ。好いたおなごの1人や2人おっても決しておかしくはない。

どうなのじゃ? 好いたおなごはおらぬのか?」
 
 修就は穏やかに訊ねた。

 大筒下役の北山惣右衛門の仲介で、

奥御右筆組頭の荒井甚之丞の娘のおたまとの縁談話が持ち上がり、

お滝から庄五郎に、

相思相愛の相手がいるのかどうかを確かめるようお願いされていた。

 お滝はこのところ、せっかく、縁談話を進めても、

庄五郎に、相思相愛の相手がいたら、

相手に失礼になるのではないかと気を揉んでいる。

「さては、母上の差し金でございますね? 」
 
 庄五郎が顔を赤らめると、盃を置いた。

「ばれては仕方がない」
 
 修就が決り悪そうに言った。

「好いたおなごなんぞおりません」
 
 庄五郎がきっぱりと告げた。

「さようか」
 
 修就は内心、ほっとした。

 庄五郎に女の影なしとわかれば、お滝も安心することだろう。

長男の順次郎の時は許嫁がいたにも関わらず、

なかなか、身を固めようとせず気を揉まされた。

「出来ることなら、もっと、実のある話がしたかった」
 
 庄五郎がつぶやいた。

「何か、心配なことはないか? 」
 
 修就が優しい声で訊ねた。

「一言、よろしゅうございますか? 」
 
 庄五郎が、緊張した面持ちで告げた。

「何なりと申すが良い」
 
 修就は、何を言われるのかと身構えた。

「おそれながら、右も左も分からぬ新しい地で暮らすよりも、

生まれ育った地で暮らす方が、

兄上も何かと、安心なのではないでしょうか? 」
 
 庄五郎が告げた。

「新潟町は、自然がたくさんあって、

そこで暮らす人たちも、人情味あふれていて住みやすい。

自然に囲まれたのどかな田舎で暮らせば、

順次郎の体調も、安定するはずじゃ。」
 
 修就は、病のために色々なことを諦めなければならなかった順次郎が、

年を重ねる毎にだんだん、卑屈になって来ている気がしてならなかった。

 新天地で、他人の目を気にすることなく、伸び伸びと暮らせば、

少しは明るさを取り戻し、生きやすくなるのではないかと期待している。

「父上のお考えを知って安堵いたしました。

家のことはお任せくだされ」
 
 庄五郎はそう言うと立ち去った。

 川村家の祖先は、丹波国の鬼ケ獄城主。

曾祖父の修常が、紀州徳川吉宗に仕えていた時、

主君である吉宗が、第8代将軍に就任することになった。

 修常が、吉宗に伴い江戸に出て、

諏訪部又衛門支配下の御口之者を経た後、

天守台御庭番となって以後、

川村家は代々、小十人格天守台下御庭番の家柄として幕府に仕えている。

 祖父の英政は、西丸大奥向御修復御用掛となり、

伯父の條理は、漆奉行・御膳所・御台所頭を勤めた。

享和4年、3月28日。條理が死去したため、実父の修富が、條理の跡を継ぐ。

 修富は生前、和多田八三郎という者に

紀州時代の家系の調査を依頼したことがあった。

川村家の遠縁にあたる若山在住の黒田左兵衛なる人物から手紙が届いた。

 それ以来、修富は黒田と文通を続けた。

修富は、修就に、己も亡き祖父も生まれ育ったのは江戸だが、

本籍は紀州であり、江戸は、

生国に過ぎないということを覚えていてほしいと念を押した。

 修富は、本国紀州にこだわった。

江戸に生まれ育ち本籍である紀州には、

全く馴染みのない修就は、修富が、

本国紀州にこだわった意味が最後までわからなかった。

 それでも血は争えない。修富が本国紀州に思いを馳せ家系を調べて、

ついには、それまで全く、面識のなかった遠縁の者とまで

文通をはじめたその探究心と根性は、嫡子の修就にも受け継がれた。

 初めて赴任する土地に関して、

徹底的に調査し分析するのが、修就の流儀だ。

新潟奉行を仰せ付けられた翌日から、早速、新潟赴任の準備に取り掛かった。

家用人の江川保右衛門に命じて、長岡藩江戸藩邸留守居と接触を図り、

「新潟表絵図之事」「同所番所向ケ所之事」

「同所地役人住居向地図之事」「同所蔵屋敷内建物絵図之事」

などを問い合わせることにした。

「江川。地役人住居向地図を至急、

提出するように、長岡藩に働きかけてくれるか? 」

「御意」
 
 老中の水野忠邦が出した課題の1つ、

新設する新潟奉行所の構想を練るためにも、地役人の住居が、

新潟奉行所役人の住居に相応しいのかどうか知る必要があった。

 修就が、新潟奉行を仰せ付けられた数日後。

庄五郎は丸2日間、朝早くから夜おそくまで、

徳丸原において行われた大筒の稽古に参加した。

帰宅した後も、興奮冷め止まなかったらしく、

夜更けに、修就が、新潟に関する史料の整理に

一区切りつけ厠に立った際、庄五郎の寝所にまだ、灯りがついていた。

「庄五郎。そろそろ、床に入りなさい」
 
 修就が障子越しに、小声で一声かけると、ようやく、灯りが消えた。

その夜は、修就も厠から戻ると、寝所へ入り床についた。

 翌朝。銃声の音で目が覚めた。修就は手早く、身支度を整えると、

敷地内に設けた角場(鉄砲の練習場)へ行った。

戸を開けると、庄五郎が、的に向かって鉄砲を構えていた。

「おはよう。根を詰めると、仕事に差し支えるぞ」
 
 修就が、庄五郎の横に立つと言った。

「父上。おはようございます。

1日1回、鉄砲に触れていないと勘が鈍る気がしてならないのです。

銃をかまえていると、今が、鎖国であることを忘れます。

新潟奉行所の役人たちは、砲術の心得がございましょうか? 」
 
 庄五郎が、首にかけた手拭で首筋にしたたる汗をふいた。

「恐らくはなかろう。日本海有数の湊だというが、

異国船が攻めて来た時の防備が不十分じゃ。

台場を設けていないと知って、開いた口が塞がらなかった。

日本近海にしばしば、異国船が出没している情報を長岡藩が、

見逃すはずはないのじゃが、砲術に詳しい者がおらんのじゃ。

わしが、赴任したあかつきには、まず、台場を設けて、

役人共に砲術を指南致す。そのために、わしは、

水野様に願い出て江戸湾の海防を視察したのじゃ」
 
 修就は、新潟奉行として成すべきことを模索していた。

 まだまだ、史料が足りない。史料を1つ読んでいる途中、

また、新たな疑問が生じて来る。

朝の出勤前と夕餉の後から就寝前までの限られた時間の中で

準備を進めなければならないため寝不足が続いた。


 
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