第27話 新潟奉行所改革

文字数 3,114文字

 修就は、新潟に来てからは、新潟と江戸両方の気温を記録している。

寒暖機は、90度を甚暑、34度を甚寒とする水銀入りの物を使用している。

修就に負けず劣らず、順次郎も初めて、

見るもの聞くものすべてを書き留めて、

家族に話し聞かせたり、書物にまとめて

後で読み返したりして楽しんでいた。

順次郎は、病を患って以来、ずっと、関節痛に悩まされており、

外を歩きまわることをなるべく、控えていたが、

修就の話を聞く内に、封印していたはずの

知的好奇心を抑えきれなくなったらしい。

「順次郎様。もっと、ゆっくり歩いてくだされ。

転んでケガでもされたら、私が、殿にしかられます」
 
 順次郎の世話役として、順次郎の外出に同伴しているツヤは、

新潟に引っ越して来て以来、

すっかり、元気になった順次郎にふりまわされっぱなしであった。

「ツヤ。そなたは、後から、ゆっくり参るが良い」
 
 順次郎は、ツヤの心配をよそに、

どんどん、前へ突き進んで行く。

「順次郎様。お待ちくだされ」
 
 しかも、初老の供侍でさえも、あとを追うのに息切れする速さだ。

「あとから追いつきます故、お先にどうぞ」
 
 結局、最後には、ツヤもおれて、

ゆっくり、追いかけることにしたらしい。

「新潟に越して来た途端、順次郎は、

人が変わったみたいに元気になって、方々を歩き廻っていますよ。

これでは、ツヤを連れて来た意味がございませんね」
 
 滝が、ツヤを江戸の医師の田村玄谷の元に

返すのはどうかと言いはじめたため、

修就は、順次郎の体調が良くなったのは、

一時的なものかもしれないと言い抑えた。

 新潟に来てから、ツヤは、世話役というよりむしろ、

妾に近い存在になってきており、

ツヤは本妻のみきよりも長い時間、順次郎の傍にいるため、

家来や奉公人たちは、みきではなくツヤを介して、

順次郎と連絡を取るようになった。

一方、修就は、着任以降、行政人としての手腕を発揮していた。

ある日は、新潟湊には田畑がなく取箇はないことを知り、

長岡藩領の西川筋粟生津村より下流一帯と、

三根山藩領を上知し、出雲崎、水原両代官支配地も加えて、

20余万石の土地を新潟奉行支配地として、

佐渡奉行と兼帯にすることを取り決めた。

新潟着任以来、長岡藩新潟奉行所役宅下屋敷と

作事場が仮の居宅兼新潟奉行所となった。

修就は、ここを「仮御役所」を名づけて、

町役人にも「仮御役所」と呼ぶよう命じた。

江戸を離れる矢先に起きた、修就の才能を認め

引き上げてくれた恩人でもある水野忠邦の失脚は修就にとって、

教訓であり、大きな原動力ともなっていた。

修就は、水野のことだから、また、何かの形で返り咲くと信じていた。

新潟奉行所の建設は、修就の打ち出した施策の象徴ともなりえる。

修就は、長岡藩から引継を受けるとすぐ、

新潟奉行所の建設に適した土地の調査を開始して、

10月下旬には、案内役を務めた年寄の又左衛門に候補地を伝えた。

「これが、新潟奉行所建設候補地をまとめた帳面じゃ。

これを基に、新潟奉行所の普請に着手せよ」

 同年、11月14日。修就は、

広間役の平田与左衛門、定役の杉田弥平次。

水谷一郎、並役の北嶋半左衛門、

栗原鉄蔵の5名を御申請掛に任命し、

新潟奉行所晋請に着手した。

「これは何ですか? 」
 
 広間役の平田が、新潟奉行所建設候補地の帳面の下に

重ねられていた帳面に気づいた。

「ああ、それは御陣屋場所候補地じゃ。

勘兵衛には伝えてあるが、

この間、毘沙門嶋と馬原嶋の検分を行った折に、

御陣屋場所の見立ても併せて行ったのじゃ。

目を通しておくように」
 
 修就が答えると、一同、平伏し「御意」と返事した。

後日、奉行所の普請が発表されると、

新潟町民から多数の申し出が殺到した。

収拾がつかなくなったため、調査をした上で候補者をしぼった。

奉行所の土地は、2157坪あり、

敷地には、奉行所と奉行居屋敷の他、

白洲・武道練習所、馬術と砲術の練習場。

学問所など数種の施設が建つ予定だ。

江戸で選任された組頭以下の役宅については、

旧長岡藩同心長屋十軒の内6軒を広間役に、

残り4軒は、定役二十名の内4名の役宅として、

組頭2名、定役16名、並役30名の役宅は、

寺院の門前地や新潟町入口に位置する

三軒茶屋前に新改築することに決まった。

足軽長屋については、定員20名分を建てるところ

奉行所内が手狭なので15軒とした。

特に、足軽は独身者が多数占めていたこともあり、

長屋完成まで、奉行所内の作事小屋を「仮宿舎」として、

1部屋に3名ずつ住むことになった。

お滝は、修就から、

奉行所と奉行屋敷の候補地を聞くと早速、

子どもたちを連れて下見に出掛けた。

「町から離れた場所ですので、静かで過ごしやすそうですね」
 
 お滝は、町の喧騒から離れた静かな地をいたく気に入った様子だ。

「わしもそう考えて決めたのじゃ。

幸い、広大な土地が見つかったので良かった。

これからは、役人の子弟が学ぶ学問所を作り、

上知後の新潟を担う有能な役人を育成すると共に

砲術の練習場を設けて、

家来共に異国船の攻撃に備えて砲術を訓練させるつもりじゃ」
 
 修就の頭の中では、明確な未来図がすでに完成していた。

新潟において施策を行う一方で、江戸の様子も気がかりだった。

 11月初旬に、江戸の屋敷を守る庄五郎から送られて来た書状には、

水野忠邦失脚のその後の展開が記されていた。

水野の側近とされる幕臣の大半が、

水野の失脚により一掃されたにもかかわらず、

水野の右腕といわれていた鳥居甲斐守は依然、南町奉行に留任し、

同じく、水野政策推進者の榊原主計頭忠義も、

勘定奉行に就任するなど、

水野の側近の中でも明暗が分かれる事態が起きた。

これは、一時的に、改革の責任者である

水野を表舞台から遠ざけることで、

改革に向けられた民衆の怒りや疑惑を排除しようとする

幕府の謀なのではないかと深読みする幕臣もいるらしい。

修就も、他人事では済まされない状況に置かれている。

現在進行中の施策が失敗すれば、

水野と同じ状況が待っているからだ。

同年、9月13日に罷免された水野忠邦の後任に

牧野備前守忠雄が就任した事を複雑な思いで受け止めた。

10月に、洲崎番所をはじめとする各番所の検分を行った結果、

正徳3年から続く仲制度に、矛盾な点を見つけた修就は、

これまで、長岡藩の勘定方から派遣された

仲目付が統括していた「仲番所」を「仲会所」と名称を改め、

新潟奉行所の管轄に変更した。

それに伴い、船改めの届の書式を定め、

広間役・定役・並役の中から、仲金取立掛を任命して、

「仲会所に勤務する仲方役人たちを

仲金取立掛に統括させることにした。

 長岡藩領時代の仲方手代が船荷を改めていたものを

仲金取立掛が手代を連れて船改めを行うことに変更した。

また、同じ船主が所有する船であっても、

船から船へ積荷を移す場合は、役銀を取り立てることになった。

奉行所の役人を置いたのは、唐物抜荷の取締を強化する目的があった。

修就は、2度にわたる唐物抜荷が摘発された

長岡藩領時代の悪しき慣習を払拭するには

膨張していた仲会所の人事整理をしなければならないと考えた。

そこで、大胆な人員削減を行い、

仲元方頭取の唯七郎、仲元方の梅次郎をはじめ、

仲元方見習3名と手代13名。それから、手代見習1名を解雇した。

修就が新潟に赴任してから、長岡藩領時代に比べて、

仲金の微収は目に見える伸びを見せており、

引化元年には、1万359両余と2倍以上の増収となった。

引化4年3月分の仲金が、2100両余に上り

仲はじまって以来の金額を達成した。

新潟奉行所の領地で微収される税は、

仲の他に土地にかかる地子、年貢、網役のような役銀などがある。

それら物成金は、会津経由で江戸の御金蔵へ納められた。


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