第25話 新天地

文字数 3,955文字

 修就が、新潟赴任の準備に追われている最中の同年、9月13日。

老中の水野忠邦が、8月13日に出した

「江戸城最寄一円」「大坂城最寄一円」の上知令が

頓挫した責任を取らされる形で罷免された。

この上知の目的は、高免の土地を上知すること

幕府財政の基盤を強化すること、飛地を整理することだったが、

諸大名や旗本から猛反発が起こり、

老中の土井大炊守までもが反対にまわった。

その日の夜。水野の屋敷が、打ち壊しに遭った。

水野の罷免に続いて、改革の立案者として、

水野派の中心的人物だった勘定吟味役の羽倉外記も、

小普請入りし70俵を召し上げられ、勘定吟味役を解任された。

水野失脚の翌日。新潟奉行所の支配組頭の関源之進や

平戸新太郎を明15日に登城させるよう修就へ通達があった。

登城した支配組頭両名は、将軍に「御目見蒙上意」御暇拝領物として、

金1枚と時服2つ下賜された。

水野は、罷免前の8月月28日までは

登城して執務を行っていたが、罷免後は登城しなかった。

老中罷免の裏舞台では、腹心だったはずの鳥居耀蔵が、

老中の土井大炊利位に寝返り、

機密文書を渡すなど工作を謀ったとする飼い鳥の1人に

手をかまれるという劇的なドンデン返しがあった。

修就は、鳥居の裏切りを知り憤った。

ある秋晴れの朝。修就は、お滝、順次郎、おたま、茂之丞を連れて

おたまの実家である荒井家へ出掛けた。

おたまにとって、川村家に嫁いでから初めての里帰りだ。

修就はいつもなら、順次郎に

付き添うはずのみきが用事があるからと言い、

朝早くから、どこかへ出掛けて行ったことが気になった。

新潟赴任を目前にして、順次郎の世話役を務めることになったツヤが、

川村家に出入りするようになった。

ツヤは、人見知りしない性格なようで、

川村家の女衆ともすぐに打ち解けた。

このごろ、お滝は、みきがツヤに嫉妬しているせいで、

夫婦仲がうまく行っていないのではないかと余計な心配をしていた。

 修就は何も起きていないうちから、

口を出すのはやめた方が良いと、

お滝に余計なお節介をしないようくぎをさした。

「新潟へ旅立つ前に、やっておきたいことでもあったのでしょうよ」
 
 順次郎は、お滝の心配をよそに気にしていないようだった。

 翌17日。修就は、清厳寺に参拝して

新潟赴任の報告と安全を祈願した。

朝は雲っていたが、荒井夫婦が餞別を持参して

あいさつに訪れたころには、すっかり、晴れていた。

客間の障子を開けて庭を眺めながら、お茶を飲んでいたところへ、

御庭番家筋の古坂勇次郎や親戚の新六がやって来たため、

一段と、にぎやかになった。

「順次郎殿も近ごろは、体調がよろしいようでようございました」
 
 荒井の妻がにこやかに告げた。

「新しく、我が家に迎え入れた世話役のツヤのおかげかもしれません。

順次郎さんも以前と比べて、だいぶ、明るくなりましたしね」
 
 お滝はすっかり、ツヤを気に入った様子だ。

 当初は、新潟赴任後に住込みを頼むはずが、

お滝の独断により、日にちを早めて強引に、

ツヤを川村家に迎えて順次郎の身の回りの世話をさせている。

ツヤの登場で、本妻であるみきの影が薄くなったことは言うまでもない。

それから数日後のある夜。

大目付の遠山金四郎景元の妻のけいが、川村家を訪れた。

けいは、香典返しと共に、お餞別の品を持参して来た。

6月26日に、金四郎の妹が病死していた。

「その節は、お心づくしのお品を頂戴致しましてありがとうございました」
 
 けいがお礼を述べた。

「こちらこそ、けっこうなお餞別を頂戴致しましてかたじけない。

金四郎殿には、くれぐれも、よろしくお伝えください」
 
 修就が穏やかに言った。

川村家には、榊原主計頭忠義や遠山金四郎景元両家から

餞別が届けられたのを機に、

荒井家や溝口内膳正などからも続々と餞別が届けられた。

また、長岡藩や近隣の諸藩からも餞別が届けられ、

川村家の座敷の1つは、餞別の品々で埋め尽くされていた。

近隣の諸藩の中でも、新発田藩については、

江戸出立の9日前、新発田藩江戸藩邸から餞別として、

修就へ、八丈縞3反と交肴1折。家来両名へ、200疋ずつ贈られた。

餞別を頂戴する間、修就の方も、閏9月28日の出立を控えて、

25日から、幕府の要人や親戚へ、暇乞いのあいさつ廻りをはじめた。

あっという間に、江戸出立の日を迎えた。

修就は、妻のお滝、娘のテイ、5男の茂之丞、順次郎夫妻、順次郎の

世話人として新たに雇い入れたツヤ、家来たちを連れて新潟へ旅立った。

江戸の留守宅には、老母のコノと新婚の庄五郎夫妻が残った。

お滝の実父にあたる宮重の御隠居や荒井夫婦。

そして、御膳奉行の中野金四郎の養子になった

3男の菖之助が見送りに駆けつけた。

「留守宅は、わしがしっかり見守る。安心せい」
 
 宮重の御隠居が、当日ギリギリまで庄五郎と

おたまに留守宅のことについて念を押しているお滝を見兼ねて告げた。

「でもねぇ。義母上もお年ですし、

もし、何かあったらと考えると心配で」
 
 お滝は、嫁として腰を痛めて以来、

急に衰えが見えはじめた義母上のコノのことを気にしていた。

一方、コノの方は、お滝に代わり新妻のおたまを

川村家の嫁として立派に教育すると俄然、張り切っていた。

「まったくもう、年寄り扱いしないでおくれよ。

私はまだ、嫁のあんたに心配されるほどもうろくしてないよ」
 
 コノがムキになって、反論したのがおかしくて一同、笑った。

「わしらも、近所におる故、心配せんと、

おまえさんは、新潟での生活に1日も早く馴れて、修就殿を支えよ」
 
 宮重の御隠居が、お滝に優しい言葉をかけると、

お滝は、父の優しさがしみじみと伝わったらしく涙を見せた。

「時々、文を頂戴ね」
 
 おたまが、テイの手を取り手紙の交換を

約束している姿を見たお滝が泣き笑いした。

「おたまとテイは、実の姉妹のようですねぇ」
 
 お滝がそうつぶやいた時、

その隣にいたみきが、下を向いたのを修就は見逃さなかった。

 一方、順次郎は、みきを気遣う様子はなく、

ツヤと何やら話しをしている。

修就は、家族間の新たな悩みの種を見つけたのだった。

板橋の宿には、親戚、友人、同僚、

出入り町人など大勢が見送りに駆けつけた。

 この日、見送りに来たのは、

川村本家の新六父子、修就の実姉、お対の嫁ぎ先である

御庭番家筋の村垣与三郎、母方の親戚にあたる

野辺益之助、修就の実姉の唯の夫でもある明楽大隅守、

修就の実姉の唯の嫁ぎ先、禁裏附家筋にあたる

明楽八五郎、庄五郎の妻のおたまの実父である荒井甚之丞が送った使者。

さらに、御庭番家筋の面々。倉地次郎と太郎、倉地久太郎父子。

古坂勇次郎、古坂健八郎。倉地鋭三郎、馬場善蔵。

その他、大河助七、松浦隼助、土肥十四郎。

黒野庄太郎、平野元内明番、高橋与五郎。

斎藤東太郎、鳥居市十郎、倉地子三郎などから盛んな見送りを受けた。

 「新潟出立侍従」には、広間役の平田与左衛門。

定役の小柴喜左衛門、並役の川村晋次郎が務めることになった。

天保14年、10日2日。修就一行は、大宮宿に最初の宿を取ってから、

熊谷宿・新町宿・渋川宿と泊まり重ねて、北杢の関所を通過した。

中山峠・下動峠を越えると、

上州の山路は次第に険阻を増して、

雪の嶺を眺めながらの旅路となった。

時々、しぐれや浅い雪に遭ったが、

越後に足を踏み入れてから不思議と荒天には遭わなかった。
 
修就一行は、快調な旅路を重ねた。

三国峠を越え、浅貝宿、三俣宿に泊まり、

10月6日には六日町本に至り魚野川を下った。

 通常、関東から越後へ入る旅人は、

佐渡奉行、村松藩主をはじめとする大半が、

六日町からの船便を利用している。

船の大きさは、60石積、乗組員7名にて長岡までの船賃は、3貫564文。

荷物を載せた馬は荷宰領の足軽が付き添って陸行する。

船は、栃原、堀之内、小千谷に着岸して休憩した後、長岡河岸に着岸した。

出立前の長岡藩の対応により、上知された長岡藩主が、

修就一行を迎える感情はいかに複雑なものかと警戒していたが、

修就の心配をよそに、長岡の市中に至った一行を、

町奉行の槇三左衛門、安田杢両名。

郡奉行の木村戸右衛門、代官役の堤善兵衛。

柳町茂左衛門の両名など町の辻々が出迎えた。

長岡に着いたその日。修就一行は、

長岡町本陣の草間幸左衛門宅に泊まった。

早速、長岡藩の使者が訪れて、

修就へ旅中無滞珍重と摘綿3把。家来へ200疋ずつ贈られた。

また、同じ日。その使者とは別に、もう1人使者が訪れて、

京都所司代として在勤中の藩主より、

かねてから指示のあった縞紬3反と鮭2尺が修就へ送られた。

本陣門前には、長岡藩の足軽が、3つの道具を立てて警固しており、

あまりの厳戒態勢に怖れをなしてか

いつもは賑やかな茂之丞までもが、

音を立てないように気を配り大人しく過ごしていた。

長岡町の検断はもちろん、新潟町の検断、年寄、

年寄格、仲元方、町代、町代格。

仲手代の町役人がひっきりなしに、あいさつに訪れた。

同年、10月8日。長岡を発った修就一行は、

長岡藩主が提供した屋根を持ち

幔幕を張り障子を立てた船に乗り三条へ向かった。

三条は、村上藩の内藤紀伊守の領地で陣屋がある。

修就一行を乗せた船は、大川津、地蔵堂を経て三条へ到着し1泊した。

翌9日。一行を乗せた船は、

供船2艘、小舟1艘を伴って川を下った。

大野においては、新潟町方の出迎え船2艘の他、

長岡藩が提供した一行の船を曳く為の6挺艪船四艘。

さらには、新発田藩が提供した案内船が、

修就一行の到着を待っていた。

長岡藩については、修就一行を乗せた船が

新潟町に到着した際も一行を乗せた船を曳くため、

新潟詰足軽2名ずつ乗った4艘の船を出して、

長岡藩の中老格、町奉行、郡奉行、代官役などが市中に出て、

新潟町に上陸した修就一行を出迎えて

寺町通にある仮奉行所へ誘導した。

 
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