第18話 矢部定謙失脚

文字数 5,204文字

 暮れも押し迫るころ、金四郎が久しぶりに、川村家へやって来た。

あまりの激務に痩せたというが、見た目は、そんなに変わっていない。

金四郎は、腰を降ろすなり話しはじめた。

「まったくもって、あのお方にはついてゆけぬ。

幕府と町民との板挟みになっている部下の苦労も知らねぇで、

倹約令を強行して風俗取締をせよとなど圧力をおかけになる」

「そういえば、去年の今ごろは、

文渓堂が、書物の売り出しを中止させられたり、

巷で、人気の作家の本が没収されたりと、

何かと、江戸中の版元や貸本屋が騒がしかったなあ」
 
 修就が他人事のように言った。

「年間、どれだけの量の書物が世に出されると思う? 

すべてを摘発するなど無理な話じゃ」
 
 金四郎がそう愚痴をこぼした後、これ見よがしに、大きなため息をついた。

「歌舞伎も、取締の対象になっているのですか? 」
 
 お茶を運んで来たお滝が話に加わった。

「そのようじゃのう。昨日。水野様から、

歌舞伎三座の所替えや歌舞伎役者の身持ち風俗に関する風聞書を検証して、

意見書を出せと命じられた」
 
 金四郎が答えた。

「寛政の改革に似て来た気がする」
 
 修就がぼそっと言った。

「どうやら、水野様は、改革を名目にして、

町人から、娯楽までも奪うおつもりのようですね」
 
 お滝は勢い良く、立ち上がったかと思うと、

次の瞬間、障子をぴしゃりと閉めて部屋を出た。

「お滝さんは、歌舞伎のこととなると、

どうしてあんなに、熱くなるんだい? 」
 
 金四郎が驚いた顔で訊ねた。

「お滝はああ見えて、成田屋贔屓でねえ。

倹約令のせいで、芝居が見られなくなるかと考えると、

不安で仕方がないのだろうよ」
 
 修就は冷静に答えると、お茶をすすった。

「移転先を捜す手間を考えただけで、頭が痛くなる。

歌舞伎は、風俗悪化の根源だと考える者も少なくない。

それに、役者や小屋の関係者にだって生活がある。

役者の奢多については、厳罰すれば良い話じゃ」
 
 金四郎はすでに、心決めているようにも見えた。

「おぬしは、愚痴をこぼすためだけに来たのか? 」
 
 修就が訊ねた。

「実は、折り入って、相談があって参った次第」
 
 金四郎は背を正すと告げた。

「仕事の相談ならば、悪いがおことわりじゃ」
 
 修就がきっぱりと言った。

 互いの仕事には口を挟まない。それが、2人の間のルールだったはずだ。

「相談したいことというのは、おぬしもよく知る矢部殿のことじゃ」
 
 金四郎が、切羽詰まった様子で言った。

矢部という言葉が出た瞬間、修就は嫌な予感がした。

「水野様から、矢部殿の身辺を調査するように命ぜられたのじゃが、

正直言って、気が進まぬ。矢部殿とは、これまで共に改革に反対して来た。

いわば、同志のような間柄じゃ。同志の身辺を調査するということは、

つまり、味方を売るのと同然ではないか? 」

「まさか、おぬし。お2人を天秤にかけておるまいな? 」
 
 修就が身を乗り出すと訊ねた。

 もし、修就が、金四郎であれば迷うことなく水野の命に従う。

「そんなつもりはない。どうしたら良いだろうか? 

知恵を貸してくれぬか? 」
 
 金四郎が深々と頭を下げた。

「もし、固辞したとすれば、おぬしの身が危うくなる。

水野様は、一見、温厚そうに見えるが、

おのれに刃向かう者は容赦なく、潰しにかかるこわい面もおありじゃ。

もしや、これを契機に、おぬしら2人を

仲間割れさせようとお考えなのではないか? 」

 修就が慎重に告げた。

「やはり、おぬしもそう思うか? 」
 
 金四郎が顔を近づけると訊ねた。

 その時、修就はふと、かかりつけの医師の田村玄谷が、

老母のコノの診察をしに川村家を訪れた際、話していたことを思い出した。

 矢部の老母も、田村玄谷に診てもらっていたことから、

自然と話題に上ったのだ。

 田村玄谷の話では、矢部は、10月3日に老母の看病をするため、

「断」を届出てひと月休んだという。

コノは、仕事を休んでまで実母の看病をした矢部を親孝行だと褒めた上で、

修就に対しては、もし、自分が重病になり看病が必要になることがあっても、

仕事を休んだりせず、下男や下女に看病を任せなさいと言った。

 それでも、修就は、娘が病になった際は、

「断」を届出て看病した実父の修富の話を聞いていたため、

自分も、家族の誰かが重病になった時には、

「断」を届出て看病すると決めていたとコノに告げると、

コノは、当時とは異なり、今は、家族以外の者に

看取りを委ねるだけの貯えは十分あるからときっぱりと固辞した。

「どうかしたのか? 」
 
 修就が黙り込んだため、金四郎が心配そうに訊ねた。

「矢部様は、おぬしが、矢部様の身辺調査を

命ぜられたことを知ることはなかろう。

矢部様は、母御の看病をするため断を届出られた。

母御が心配で、それどころではないはずじゃ」
 
 修就は、コノから聞いた話に自分の意見を付け加えた。

「どうするべきか教えてほしい」
 
「とにもかくにも、先手必勝じゃ」
 
「先手必勝とな? 」
 
 金四郎が目を見開いた。

 修就は、金四郎に作戦を事細かく話した。

 重要なことは、おぬしに対する矢部様の怨み辛みを集中させないことだ。

まずは、目付の鳥居様に近づいて、

この問題に関わるように仕向けるんだ。

 このところ、矢部様がおぬしと組んで、

改革を真っ向から反対し民心を得ていることを鳥居様は快く思ってはおらぬ。

そこを突くんだ。

「なるほど。分かったぞ。鳥居様を悪役に仕立てるわけだな? 

わしも謀られたと見せかければ、事なきを得るというわけか? 

そのためには、何をすれば良いのじゃ? 」
 
 金四郎が興奮気味に訊ねた。

 修就はさらに、饒舌に作戦を語った。

 矢部様のことだから、たたけばいくらでもほこりが出て来るはず。

調査で浮上したことを問題視して関係者を居宅に集めて吟味する。

その時、鳥居様を立ち会わせる。

さすれば、矢部様は、おぬしではなく鳥居様にまず目を向けるはず。

町奉行は老中の配下。目付がわざわざ、配下でもない

町奉行の吟味に立ち会うのはどう考えても不自然だ。

何かあると誰しも考えるだろう。

「早速、矢部殿の身辺を洗いざらい調べて吟味致すとしよう。

鳥居様を言い含めるのは、お安い御用じゃ」
 
 金四郎は、来た時とうって変わって、上機嫌で川村家をあとにした。

 修就の読み通り、ちょっとたたいただけで、

矢部定謙の弱みはこわいくらいたくさん出て来た。

 矢部定謙に対して反感を持つ人間は思いの他多くいて、色々な話が聞けたらしい。

 中には、矢部が若いころ、古参が、

矢部に嫌がらせをするために弁当の残りでお粥を作ることを命じた際、

腹を立てた矢部は、お粥に灯明の油を入れて古参に出して大騒ぎになった。

この騒動が、上役の耳に入り、矢部は辞表を出すが、

かえって、その潔さが立派であるとして許され、

古参の方が、処罰されたという逸話もあった。

 金四郎は、北町奉行の権限を利用して、

買上米不正事件の関係者を居宅に呼び出して吟味した。

 その時、鳥居が同席したことが波紋を呼んだ。

 矢部については、不正があったことを知りながら見逃し、

不正事実に絡んだ斬殺事件が御奉行の役宅で起きたにも関わらず

これもまた、見逃したことは、職務怠慢であり、

非がありながら、無実を吹聴したことは、解任を免れない罪だとされた。

 老母の死後も、喪に服すとして、

公務を休み復帰後も登城することなく役宅で業務を行っていた矢部定謙は、

職を辞した後は桑名藩預かりとなった。

 矢部が辞職したことにより、金四郎は、矢面に立たされることになる。

矢部の後任として、南町奉行に着任したのは、鳥居耀蔵だった。

矢部の辞職を前にして、「株仲間解散令」のお達しがあったため、

金四郎は、奉行交替劇を見守るどころではなかったらしい。

これまで、江戸の商人たちは、幕府公認の同業組合を作っていた。

組合を作ることにより、組合員以外の商人の
同業営業を禁ずる独占販売が保証された。

 これは、幕府が、組合を公認する見返りとして

運上金と冥加金を組合に上納させるからくりがあった。

 老中の田沼意次が権勢を振るっていた時代には、

運上金や冥加金の増徴計画まであり

幕府の財政の貴重な収入源の1つでもあった。

しかし、老中の水野忠邦は、株仲間の存在こそが

物価が高騰した原因だと指摘した。

共に戦って来た同志を失ったことにより、

金四郎の中で張りつめていた糸が切れたらしい。

 これまで、異を唱えながらも、最後は、水野に従って来た金四郎が、

ここに来て、修就も驚く反撃に出たのだ。

 金四郎は、「株仲間の解散令」を

市中に申し渡さないといった風に抵抗する姿勢を続けた。

 株仲間の解散により、

白米・塩・味噌・醤油・酒・灯油が値下げして、町民の生活は守れたが、

これまで、株仲間が中心だった江戸の流通が混乱を極めて一時的に滞った。

 一か八か、金四郎は、江戸市中の商人たちを奉行所の白洲に集めた。

 そして、お奉行から呼び出され不安な面持ちの一同に対して、

士農商工の身分の話を手はじめに、衣食に関する奢侈を禁ずる趣旨。

それから、何かある度に、奉行所へ訴え出ることに対する戒め。

大名と町人の格式の違いを主張して

身分相応質素に努め贅沢を慎むべきであり、

もし、法に逆らうことがあれば、厳罰に処すると説いた。

 金四郎は、白洲の一件で町民の支持を受けることになった。

 金四郎の名声をより世間に轟かせたのは、

芝居小屋の廃止に反対して、浅草猿若町への移転に

留めた金四郎の働きに感謝した歌舞伎の関係者たちによる

金四郎の活躍を基に描かれた芝居の上演だ。

 その芝居は、金四郎に似た正義感の強い主人公が、

悪役に仕立てられた水野や鳥居をせいばいする「痛快劇」となっていた。
 
以前から、英国、ロシア、フランス、米国などの蒸気船が

全国各地で目撃されていたが、鎖国を行っている日本には、

世界情勢がほとんど伝わっていなかった。

幕府は、肥前国長崎に設けた阿蘭陀商館に

日本との交易を許可する見返りとして、

「阿蘭陀風説書」を提出させるなどして、

世界情勢についての情報を得ていた。

水野忠邦は、オランダ商館を通して欧州や欧米諸国の情報を集めさせた。

諸外国が日本に開国を要求する目的は、

補給と交易の為の港を手に入れて、

日本と交易することにより利益を得ることだということが分かった。

特に、米国は東洋諸国進出を目論みそのためには、

日本をはじめ、東洋の東側の島々を

拠点とする必要があると見ているように感じた。

鎖国とはいえ、西洋の軍事力に目を向けて

西洋式砲術を早くから学んで来た者たちが幕閣には数多くいた。

国内には砲術の流派が8派ある。

修就は、砲術家の荻野安重が創設した

「荻野流砲術」の免許皆伝者だ。

自分だけでなく、長男の順次郎、2男で惣領息子の庄五郎を

修就の砲術の先輩の篠山十兵衛の元で学ばせた。

修就の砲術の腕を見込んだ水野は、

修就が、拝領地内に砲術の練習場を設けることを許可した。

天保12年、5月9日。武州徳丸原において、

「天保の改革」の構成員の1人で

砲術家の高島秋帆を指揮者とする

西洋砲術の演習が行われたことを機に、

徳丸原は、「幕府の砲術訓練場所」となっていた。

同年、8月25日には、吹上園において、

幕臣による砲術の上覧が行われ国内の8流派の砲術家が腕を競い合った。

修就は、海防の重要性を強調した上で

北国方面の海岸防備の取組みが、

長岡藩は不十分である事を指摘し、

「新潟上知」の必要性を訴える意見書を水野に提出した。

そのころ、新潟町で起きた唐物抜荷事件が落着して

召し捕られた者たちに処罰が下った。

 この事件の首謀者とされる肥前国長崎の粂吉は、

江戸十里四方と肥前、越後からの追放となり、

2度にわたり関与したとされる三条屋忠助は、

「江戸十里四方追放」となった。

新潟町の豪商、「津軽屋」の若旦那、高橋次郎左衛門や

「当銀座屋」の若旦那、善平は、

後見を受けていたことが認められて無罪放免となった。

2度目の摘発のきっかけを作った「小川屋」の主、金右衛門は、

「利益没収」と「過料」で済んだ。

刑は軽いが、新潟町全体で処分を受けた者は44名。

他地域を含めると107名になる。

吟味中に、抜荷の唐物を運んだとされる船頭8名が牢死して、

新潟町の3名が捕まることをおそれて逃亡した。

唐物抜荷事件が落着したことで水野は、

修就の提出した意見書を見るなり、

川村修就という御庭番の才能を再評価した。

天保13年。「天保の改革」開始から3年の月日が流れた。

このころになると、鳴り物入りではじまった改革にも、

ほころびが見えるようになった。

桑名藩預かりとなった矢部定謙が罷免、改易に追い込んだ

老中の水野忠邦たちに対する抗議のため、自ら絶食した末に病死した。

矢部が命がけで反対した「株仲間解散令」は、

結果的には、江戸を中心とする経済に混乱をもたらして、

人々を苦しめることになったため矢部の正当性が認められた。


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