最悪の結末へ
文字数 3,124文字
10月23日 月曜日 夜
中野
――永井玲奈を仕留め損ねた…。
佐野場は公園の遊具の陰に潜み、辺りの様子をうかがっていた。
――くっそ、猫共め…、あの土壇場で永井玲奈と血契 を結ぶなんて…。
忌々しいシマ猫にひっかかれた傷がヒリヒリと疼 く。
やがて胸の下あたりも痺 れて来た。
いや違う。スマホだ。
胸ポケットから取り出すと、振動音と一緒に不穏な音楽が流れている。
この着信音は…、
上司からの電話だ。
佐野場は目を閉じ天を仰ぐ。
通話ボタンを押す。
「はい。」
□しくじったわね。
冷たく、突き放すような女性の声である。
「…順調、ではありませんがまだ…」
□もう戻ってきていいわよ。あなたの仕事は終わり。
佐野場の弁明を聞かずにその上司は帰還を命じる。
「っ……」
出来れば最後まで見届けたい。せめてOrpheus の連中が自滅してゆく最後をこの目に焼き付けたい、と佐野場は思っている。
だが、
□聞こえたかしら、戻りなさい。
そうだ命令に背くことは出来ない。
「了解しました。」
そう言い終わる前に通話は切れた。
「クソ!!!」
途端、佐野場は苛立ちを吐き捨てた。
*
10月23日 月曜日 夜
東中野 ムゥランとユピテルの隠れ家
「いい?迅を傷つけないで。」
玲奈は二人の少年を真っ直ぐ見て念を押すように言った。
「分かった。」
「承知しました。」
二人とも確かに頷いた。
彼女は迅が、Orpheus は敵だ、という意味の発言したことについて言及し、その真意をムゥランとユピテルに問い詰め、そして決して彼に危害を加えないようにと約束させたのだ。
と、その時…、
「一件ノ予定ニナイ訪問ガアリマス」
隠れ家 のセキュリティシステムが告げる。
「確認する。」
ムゥランが言うと、大型ディスプレイに映像が映る。
玄関をモニターできるらしい。
「ん?江草 さん?」
と素 っ頓狂 な声をあげたのは玲奈だった。
「江草 連 か…。」
大型ディスプレイには季節外れの毛皮のコートを着たポニーテールの女性がいた。
ムゥランとユピテルは連 に会ったことはない。
もちろん名前は知っているが…。
――なぜ江草 連 がOrpheus の隠れ家 に…
とムゥランもユピテルも困惑していると、
「いろいろ事情があって、中に入れて…。」
その声は連 のものではなかった。
「アン?」
今度はユピテルが声を裏返した。
連 の来ているコートはアントッティが絨毯 のように平たく広くなって彼女に巻き付いたものであった。
「アントッティ、来意を聞こう。」
ムゥランは厳しい表情でモニターに向かって問うた。
「言ったでしょ、いろいろあって大変なの。」
対応したのがムゥランだと知ると、アントッティの声に怒気が含まれた。
「君といい、マルチネスといい、どうしてそうも勝手な行動が出来るのか、勝手な信念をもち、勝手に出て行き、勝手に…」
「いいじゃん!入れてあげよう!」
ムゥランがまくしたてるのを制するように玲奈が言うと、
「ま、主 がそう仰 るならば!」
その言葉が助け船であるかのように、ユピテルは明るい調子で連 とアントッティの入室に賛成した。
*
10分後…。
この隠れ家 はそこそこ広い。
建物の外観から想像できないほど、ゆとりあるスペースが確保されている。
その空間いっぱいに響き渡る大音声 で江草 連 が喚き散らして…いや、心から謝罪している。
「…そ、それで私、ヘッドロックとかボディロックとかかけて、何となく肌が触れ合っているうちに、何か良いムードになってくるかな、って思って…本当にごめんなさい!いけると思ったんです――!」
床に額を擦り付けて玲奈の前に伏して泣いている。
「んな訳ないだろ…。」
近くの椅子にかけたユピテルが呆れた声で言う。
「…それ以外にも…、毎日話しかけたり、露出の多い服着てみたり、お茶に誘ったり…、あ、ハウスの台所で飲むだけなんですけど…、いろいろ試したんですけど全然見てもらえなくって、本当にごめんなさい…」
「作戦がすげー地味だよ!」
さすがに玲奈も突っ込んだ。
恋の駆け引きについては一家言 ある。
「しかも途中から何についての謝罪なのかわからん…」
いい加減に謝罪が長いのでムゥランがうんざりしたようにこぼした。
「やめてみんな連 はこれでも精一杯やったの!」
ずっと近くで連 の努力を見て来たアントッティが彼女をフォローする、が…、
「うわあああーーーーん!」
火に油…
「ほら!泣いちゃったじゃない!」
激怒するアントッティ。
「今のお前の言い方でな…」
呆れるムゥラン。
「まあいいわ…。迅の浮気じゃないならさ。」
一区切りついたところで玲奈がほっとしたように言った。
「はい…多分飴井くんは玲奈さん一筋なんだと思いました…思い知りました。本当に、も、もも、申し訳ありませんでしたーーああぁあぁ…」
もはや床に丸まって打ち震えて号泣している。
これは、さすがに気の毒になってくる。
「…江草 さん…もう、水に流そう…。」
連 は泣き止む気配がない。
細かい震えが、振幅を大きくし痙攣 に変わった。
様子がおかしい。
「連 、顔をあげて。私にも責任あるんだし。」
アントッティが言うと、
連 が涙に濡れた顔をあげた
「?!」
「?!」
「?!」
「?!」
4人は凍り付いた。
頬も指も黒く染まっている。
涙が黒い…
濃い闇を水で溶いたような液体が連 の目から、やがて口から溢れて来る。
それは床に流れ落ち、黒い蒸気となって立ち上る。
「これは…」
ユピテルの顔が青ざめる。
「ちょっと連 !しっかりして!!」
アントッティが半狂乱になって連 に縋ろうとするのをユピテルが止める。
「…騒獣 」
ムゥランが絞り出すようにつぶやいた。
黒い霧に体を侵食されていく連 は苦しそうに這いつくばって床に爪をたて震えている。
悲鳴のような呪詛のような叫びが隠れ家 に響き渡った。
*
10分前
高円寺 カモノハシハウス
「戻ってたのか。」
フードの少年が飴井の部屋を覗いた。
「マルチネス…だったよね」
飴井はカーペットにあぐらをかいてうなだれていた。
「佐野場も連 もいないが、何かあったか?」
「俺もさっきから連絡待ってるんだけど、二人とも全然。既読もつかない。」
マルチネスはやるだけのことをやったと思っている。
あとは結果を待つか、見つけるしかない。
飴井は玲奈を追いかけたが見失い、ついでに何をしたらいいかも分からなくなっていた。
「なあ飴井。」
「ずっと気になってたんだけど、君、子供だよね。」
何故か飴井は笑顔で少年に聞いた。
「口の利き方については、すまない。周囲に良い見本がなくてな…。」
薄暗い部屋で少年の表情は、本当に謝っているように見えなくもない。
「そっか、じゃあ許す、っていうか我慢する、って言ってみたらなんか気にならなくなりそう。」
二人とも笑った。
「飴井は、どんな子供だった?」
「俺?え…っとね…。」
樹人 は成人した人間の状態で作られる。故に子供時代の記憶を持たない。というか子供時代がない。
「思い出せないか?」
「うん、考えたこともなかった…。」
樹人 は稀に樹人 である自覚をもたない個体が存在する。その個体は『拠り所となる者 』と呼ばれ、特別な使命を持つことが多く、秘匿性が高いミッション故に、情報の漏洩を防ぐため、本人の記憶を最小限に調整されているのだ。
「もしも…」
「ん?」
俺なら耐えられない、とマルチネスは思った。
過去がない、未来も考えられない、そんな命の在り方、理解できない。
「自分が何者か、知りたくなったら、俺に言え。」
マルチネスが親指を立てた。
「…何者か…?」
親指と少年の眼差しを交互に見比べて、
「君のほうが年上みたいだね!」
と飴井が言って、また二人は笑った。
「え?!」
突然飴井が、たった今大事な事を思い出したようにハッと顔をあげた
「どした?」
マルチネスはその様子に不安を覚えた。
「今、玲奈に呼ばれた気がしたんだ…。迅、たすけて…って」
中野
――永井玲奈を仕留め損ねた…。
佐野場は公園の遊具の陰に潜み、辺りの様子をうかがっていた。
――くっそ、猫共め…、あの土壇場で永井玲奈と
忌々しいシマ猫にひっかかれた傷がヒリヒリと
やがて胸の下あたりも
いや違う。スマホだ。
胸ポケットから取り出すと、振動音と一緒に不穏な音楽が流れている。
この着信音は…、
上司からの電話だ。
佐野場は目を閉じ天を仰ぐ。
通話ボタンを押す。
「はい。」
□しくじったわね。
冷たく、突き放すような女性の声である。
「…順調、ではありませんがまだ…」
□もう戻ってきていいわよ。あなたの仕事は終わり。
佐野場の弁明を聞かずにその上司は帰還を命じる。
「っ……」
出来れば最後まで見届けたい。せめて
だが、
□聞こえたかしら、戻りなさい。
そうだ命令に背くことは出来ない。
「了解しました。」
そう言い終わる前に通話は切れた。
「クソ!!!」
途端、佐野場は苛立ちを吐き捨てた。
*
10月23日 月曜日 夜
東中野 ムゥランとユピテルの
「いい?迅を傷つけないで。」
玲奈は二人の少年を真っ直ぐ見て念を押すように言った。
「分かった。」
「承知しました。」
二人とも確かに頷いた。
彼女は迅が、
と、その時…、
「一件ノ予定ニナイ訪問ガアリマス」
「確認する。」
ムゥランが言うと、大型ディスプレイに映像が映る。
玄関をモニターできるらしい。
「ん?
と
「
大型ディスプレイには季節外れの毛皮のコートを着たポニーテールの女性がいた。
ムゥランとユピテルは
もちろん名前は知っているが…。
――なぜ
とムゥランもユピテルも困惑していると、
「いろいろ事情があって、中に入れて…。」
その声は
「アン?」
今度はユピテルが声を裏返した。
「アントッティ、来意を聞こう。」
ムゥランは厳しい表情でモニターに向かって問うた。
「言ったでしょ、いろいろあって大変なの。」
対応したのがムゥランだと知ると、アントッティの声に怒気が含まれた。
「君といい、マルチネスといい、どうしてそうも勝手な行動が出来るのか、勝手な信念をもち、勝手に出て行き、勝手に…」
「いいじゃん!入れてあげよう!」
ムゥランがまくしたてるのを制するように玲奈が言うと、
「ま、
その言葉が助け船であるかのように、ユピテルは明るい調子で
*
10分後…。
この
建物の外観から想像できないほど、ゆとりあるスペースが確保されている。
その空間いっぱいに響き渡る
「…そ、それで私、ヘッドロックとかボディロックとかかけて、何となく肌が触れ合っているうちに、何か良いムードになってくるかな、って思って…本当にごめんなさい!いけると思ったんです――!」
床に額を擦り付けて玲奈の前に伏して泣いている。
「んな訳ないだろ…。」
近くの椅子にかけたユピテルが呆れた声で言う。
「…それ以外にも…、毎日話しかけたり、露出の多い服着てみたり、お茶に誘ったり…、あ、ハウスの台所で飲むだけなんですけど…、いろいろ試したんですけど全然見てもらえなくって、本当にごめんなさい…」
「作戦がすげー地味だよ!」
さすがに玲奈も突っ込んだ。
恋の駆け引きについては
「しかも途中から何についての謝罪なのかわからん…」
いい加減に謝罪が長いのでムゥランがうんざりしたようにこぼした。
「やめてみんな
ずっと近くで
「うわあああーーーーん!」
火に油…
「ほら!泣いちゃったじゃない!」
激怒するアントッティ。
「今のお前の言い方でな…」
呆れるムゥラン。
「まあいいわ…。迅の浮気じゃないならさ。」
一区切りついたところで玲奈がほっとしたように言った。
「はい…多分飴井くんは玲奈さん一筋なんだと思いました…思い知りました。本当に、も、もも、申し訳ありませんでしたーーああぁあぁ…」
もはや床に丸まって打ち震えて号泣している。
これは、さすがに気の毒になってくる。
「…
細かい震えが、振幅を大きくし
様子がおかしい。
「
アントッティが言うと、
「?!」
「?!」
「?!」
「?!」
4人は凍り付いた。
頬も指も黒く染まっている。
涙が黒い…
濃い闇を水で溶いたような液体が
それは床に流れ落ち、黒い蒸気となって立ち上る。
「これは…」
ユピテルの顔が青ざめる。
「ちょっと
アントッティが半狂乱になって
「…
ムゥランが絞り出すようにつぶやいた。
黒い霧に体を侵食されていく
悲鳴のような呪詛のような叫びが
*
10分前
高円寺 カモノハシハウス
「戻ってたのか。」
フードの少年が飴井の部屋を覗いた。
「マルチネス…だったよね」
飴井はカーペットにあぐらをかいてうなだれていた。
「佐野場も
「俺もさっきから連絡待ってるんだけど、二人とも全然。既読もつかない。」
マルチネスはやるだけのことをやったと思っている。
あとは結果を待つか、見つけるしかない。
飴井は玲奈を追いかけたが見失い、ついでに何をしたらいいかも分からなくなっていた。
「なあ飴井。」
「ずっと気になってたんだけど、君、子供だよね。」
何故か飴井は笑顔で少年に聞いた。
「口の利き方については、すまない。周囲に良い見本がなくてな…。」
薄暗い部屋で少年の表情は、本当に謝っているように見えなくもない。
「そっか、じゃあ許す、っていうか我慢する、って言ってみたらなんか気にならなくなりそう。」
二人とも笑った。
「飴井は、どんな子供だった?」
「俺?え…っとね…。」
「思い出せないか?」
「うん、考えたこともなかった…。」
「もしも…」
「ん?」
俺なら耐えられない、とマルチネスは思った。
過去がない、未来も考えられない、そんな命の在り方、理解できない。
「自分が何者か、知りたくなったら、俺に言え。」
マルチネスが親指を立てた。
「…何者か…?」
親指と少年の眼差しを交互に見比べて、
「君のほうが年上みたいだね!」
と飴井が言って、また二人は笑った。
「え?!」
突然飴井が、たった今大事な事を思い出したようにハッと顔をあげた
「どした?」
マルチネスはその様子に不安を覚えた。
「今、玲奈に呼ばれた気がしたんだ…。迅、たすけて…って」