映画を観に
文字数 2,383文字
10月4日 水曜日
映画を観に行こう、ということになった。
玲奈は映画や海外ドラマが好きだが、サブスクリプションやレンタルDVDを利用し、自宅でのんびり鑑賞する習慣しかなかった。
映画館は、小学生の頃に親に連れられて行った時以来である。
故に、映画館を利用したことはほぼなかったので、水曜日に全国のほとんどの映画館が入場料を割り引くサービスがあることも、今日初めて知った。
飴井はしばしば映画館に来ていたらしい。
もっとも映画鑑賞の目的とはやや異なり、寝泊まりしていたライブハウスを追い出されてからは、レイトショーやミッドナイトショーのチケットを買い、朝まで休んでいたという。
よく効いた冷暖房とリクライニングシートと、程よい光と音でよく眠れるらしい。基本は全客入れ替え制だが、案外ゆるいところも多く、警備員を呼ばれたことはないという。
そうなると寝ているとはいえ、同じ映画を何回も観ることになるから、役者の演技やセリフや音楽や演出をそこそこ語れるくらい作品を掘り下げてしまうこともあったらしい。
「映画館ってそういう使い方していいの?」
当然の疑問を玲奈が飴井に軽くぶつけると、
「玲奈ってさ、けっこうお嬢様だった?」
と、思いがけない質問が返ってきた。
飴井と話しているといつもそうだった。
話の脈絡を全く無視した展開がやってくる。それも概ね質問という形で。
会話のキャッチボールになっていないのに、不思議と嫌悪感が湧かなかった。
むしろ嬉しかった。
見透かされ、見抜かれ、でも強い興味と感心をもってくれている。
そう思えた。
「お嬢様じゃないよ?」
「でもピアノとかバレエとか習ってたでしょ?」
「わ!どっちも習ってた!何で?!」
そこで場内は暗くなった。
*
映画館を出てカフェに入った。
モテているだけで恋愛経験の乏しい玲奈は、映画を観終わった後にお互いの感想を話し合ったりして心理的な距離を縮めてゆくデートの定番というものを初めて体験していた。
これはとても理に適っている、と彼女は思った。
同じ作品を観ることで価値観の擦り合わせが出来る。何処が違っていて、何処が似通っているのか如実に分かる。
――成る程!だからこそ付き合い始めは映画デートか…。
などと妙に得心がいったのだった。
「ホワイトチョコレートモカとホットコーヒーでよろしいですか?」
ウェイトレスが注文を繰り返した。
飴井によれば、上映技術の規格というものが何種類かあり、一番分かりやすい違いが『音』で、それぞれの音響技術によって表現力や迫力が全然違うらしい。
今回観る映画は是非ドルビーアトモスという規格で観たい!という彼の熱烈な要望により、その音響技術で上映される映画館を探し、錦糸町まで出掛けて来た。
作品の内容は、ある青年がプロのジャズプレイヤーを目指すサクセスストーリーだった。
玲奈はジャズどころか、音楽をあまり聴かない。
幼少期、ピアノやバレエのレッスンで練習した曲を少し覚えているのと、CMやドラマなどで耳にする曲を、耳にする部分だけ知っているだけ、といった感じで、音楽にはそこまで思い入れはなかったが…
凄く面白かった。
そして飴井の言う通り、音が濃密でリアルだった。
声も、演奏された音楽も、観衆の声援も拍手も、本物のコンサート会場みたいな臨場感があった。
ふと玲奈の頭に疑問、というか好奇心が湧いた。
逆に今まで一回も尋ねたことがないほうが不思議に思われるのかもしれない。
「迅てさ、どんな音楽やってるの?やっぱジャズギター?」
彼が楽器を持っていたことから、ミュージシャンか、あるいはその方面の人だろう、くらいにしか考えていなかった。なので彼が一体どんな音楽をやっているのか聞いてみたのだが、
「チョコレートとさ、チョコ味って違うじゃんか。」
と飴井はまた脈絡のない返答をして話をあらぬ方向へ飛躍させるのか、と思ったら、今回は的確な答えが返ってきた。
彼は玲奈のドリンクのカップを指しながら続けた。
――音楽も同じなんだ。ジャズやってますとか、ロックやってますとか、クラシックやってます、っていう答え方をする人はまずいない。
それってね、"どんな料理ですか?"って質問に対して"塩です"とか"砂糖です"って言ってるのと同じなんだ。それ調味料でしょって…。
そもそもね、個々の音楽性ってのはただ真っ白で熱いだけのミルクで、そこにチョコだったりハチミツだったり、香辛料だったりが混ざってるにすぎないんだ。
と、飴井が立て板に水とばかりに話すので玲奈は不安になった。
…こういう質問は音楽をやってる人にしてはいけなかったのだろうか。
「ごめん私、怒らせちゃったのかな…?」
玲奈はおずおずと聞く。
「え、まさか、怒ってないよ。」
「…それならいいんだけど。」
「や、こっちもごめん、勢いよく喋りすぎたよね…。」
夕刻。入店した時は空いていたが、混み始めてきた。
2人はしばし沈黙。
少し気まずくなったり、話を変えたかったり、感情の起伏を悟られたときなど、自然に2人は黙る。
そうしていれば次の曲が始まるとでもいうように。
「近くないけどさ。」
「え?」
そのイントロを弾き始めたのは飴井だった。
「そんな近くないけど一本で行けるんだ。」
実際もう気まずい空気は消えつつあった。
「なに?」
これがこの数日間で自然に作られた2人のルールなのだ。
「ちょっと気になってるバー。」
沈黙が”その話は終わり”の合図。
「どこ?」
玲奈はスマホをバッグに戻す。
「東中野 」
飴井も飲みかけのコーヒーを飲み干す。
「行ってみよっか。」
玲奈は立ち上がる。
「うん、あ、それとね。」
飴井も立ち上がり出口に向かい歩きながら左手を差し出す。
玲奈も歩き出しその手をとる。
「俺、ジャズもちょっとやるけど、ギターは弾かない。」
そして玲奈は恋した男が何者かを知った。
「俺、ベーシスト。」
映画を観に行こう、ということになった。
玲奈は映画や海外ドラマが好きだが、サブスクリプションやレンタルDVDを利用し、自宅でのんびり鑑賞する習慣しかなかった。
映画館は、小学生の頃に親に連れられて行った時以来である。
故に、映画館を利用したことはほぼなかったので、水曜日に全国のほとんどの映画館が入場料を割り引くサービスがあることも、今日初めて知った。
飴井はしばしば映画館に来ていたらしい。
もっとも映画鑑賞の目的とはやや異なり、寝泊まりしていたライブハウスを追い出されてからは、レイトショーやミッドナイトショーのチケットを買い、朝まで休んでいたという。
よく効いた冷暖房とリクライニングシートと、程よい光と音でよく眠れるらしい。基本は全客入れ替え制だが、案外ゆるいところも多く、警備員を呼ばれたことはないという。
そうなると寝ているとはいえ、同じ映画を何回も観ることになるから、役者の演技やセリフや音楽や演出をそこそこ語れるくらい作品を掘り下げてしまうこともあったらしい。
「映画館ってそういう使い方していいの?」
当然の疑問を玲奈が飴井に軽くぶつけると、
「玲奈ってさ、けっこうお嬢様だった?」
と、思いがけない質問が返ってきた。
飴井と話しているといつもそうだった。
話の脈絡を全く無視した展開がやってくる。それも概ね質問という形で。
会話のキャッチボールになっていないのに、不思議と嫌悪感が湧かなかった。
むしろ嬉しかった。
見透かされ、見抜かれ、でも強い興味と感心をもってくれている。
そう思えた。
「お嬢様じゃないよ?」
「でもピアノとかバレエとか習ってたでしょ?」
「わ!どっちも習ってた!何で?!」
そこで場内は暗くなった。
*
映画館を出てカフェに入った。
モテているだけで恋愛経験の乏しい玲奈は、映画を観終わった後にお互いの感想を話し合ったりして心理的な距離を縮めてゆくデートの定番というものを初めて体験していた。
これはとても理に適っている、と彼女は思った。
同じ作品を観ることで価値観の擦り合わせが出来る。何処が違っていて、何処が似通っているのか如実に分かる。
――成る程!だからこそ付き合い始めは映画デートか…。
などと妙に得心がいったのだった。
「ホワイトチョコレートモカとホットコーヒーでよろしいですか?」
ウェイトレスが注文を繰り返した。
飴井によれば、上映技術の規格というものが何種類かあり、一番分かりやすい違いが『音』で、それぞれの音響技術によって表現力や迫力が全然違うらしい。
今回観る映画は是非ドルビーアトモスという規格で観たい!という彼の熱烈な要望により、その音響技術で上映される映画館を探し、錦糸町まで出掛けて来た。
作品の内容は、ある青年がプロのジャズプレイヤーを目指すサクセスストーリーだった。
玲奈はジャズどころか、音楽をあまり聴かない。
幼少期、ピアノやバレエのレッスンで練習した曲を少し覚えているのと、CMやドラマなどで耳にする曲を、耳にする部分だけ知っているだけ、といった感じで、音楽にはそこまで思い入れはなかったが…
凄く面白かった。
そして飴井の言う通り、音が濃密でリアルだった。
声も、演奏された音楽も、観衆の声援も拍手も、本物のコンサート会場みたいな臨場感があった。
ふと玲奈の頭に疑問、というか好奇心が湧いた。
逆に今まで一回も尋ねたことがないほうが不思議に思われるのかもしれない。
「迅てさ、どんな音楽やってるの?やっぱジャズギター?」
彼が楽器を持っていたことから、ミュージシャンか、あるいはその方面の人だろう、くらいにしか考えていなかった。なので彼が一体どんな音楽をやっているのか聞いてみたのだが、
「チョコレートとさ、チョコ味って違うじゃんか。」
と飴井はまた脈絡のない返答をして話をあらぬ方向へ飛躍させるのか、と思ったら、今回は的確な答えが返ってきた。
彼は玲奈のドリンクのカップを指しながら続けた。
――音楽も同じなんだ。ジャズやってますとか、ロックやってますとか、クラシックやってます、っていう答え方をする人はまずいない。
それってね、"どんな料理ですか?"って質問に対して"塩です"とか"砂糖です"って言ってるのと同じなんだ。それ調味料でしょって…。
そもそもね、個々の音楽性ってのはただ真っ白で熱いだけのミルクで、そこにチョコだったりハチミツだったり、香辛料だったりが混ざってるにすぎないんだ。
と、飴井が立て板に水とばかりに話すので玲奈は不安になった。
…こういう質問は音楽をやってる人にしてはいけなかったのだろうか。
「ごめん私、怒らせちゃったのかな…?」
玲奈はおずおずと聞く。
「え、まさか、怒ってないよ。」
「…それならいいんだけど。」
「や、こっちもごめん、勢いよく喋りすぎたよね…。」
夕刻。入店した時は空いていたが、混み始めてきた。
2人はしばし沈黙。
少し気まずくなったり、話を変えたかったり、感情の起伏を悟られたときなど、自然に2人は黙る。
そうしていれば次の曲が始まるとでもいうように。
「近くないけどさ。」
「え?」
そのイントロを弾き始めたのは飴井だった。
「そんな近くないけど一本で行けるんだ。」
実際もう気まずい空気は消えつつあった。
「なに?」
これがこの数日間で自然に作られた2人のルールなのだ。
「ちょっと気になってるバー。」
沈黙が”その話は終わり”の合図。
「どこ?」
玲奈はスマホをバッグに戻す。
「
飴井も飲みかけのコーヒーを飲み干す。
「行ってみよっか。」
玲奈は立ち上がる。
「うん、あ、それとね。」
飴井も立ち上がり出口に向かい歩きながら左手を差し出す。
玲奈も歩き出しその手をとる。
「俺、ジャズもちょっとやるけど、ギターは弾かない。」
そして玲奈は恋した男が何者かを知った。
「俺、ベーシスト。」