宴のあと
文字数 1,510文字
9月29日 金曜日
玲奈は次から次と自分の席に酌をしにくる同僚や後輩や上司と陽気に言葉を交わしていた。
社内に知らない顔はほとんどいない。普段オフィスに顔を出さない重役や役員であっても、必ずどこかで一回は会話をしたことがあり、玲奈はそれを正確に覚えていた。
居酒屋のワンフロアを借り切っての盛大な宴であった。
毎月一回の全体朝礼でもこれだけの顔ぶれが揃うことは珍しい。
この驚異的な出席率に、彼女自身もおどろいたくらいだ。
そう、今日は永井玲奈本人の送別会であった。
誰もが引き止めてくれた。
みんな別れを惜しんでくれた。
社長に至っては、考え直して欲しい、秘書室に来てくれ、愛人ならどうかね、などと懇願されたがそれでも玲奈の気持ちは変わらなかった。
夏、玲奈にそれを決意させるある事件が起きた。
失恋したのだ。
フラれたのだ。
押せば簡単に落ちるような男だったのに…。
戦う前から勝ち戦だったのに…。
しかも…、
しかもだ。
自分より、容姿も性格も若さも、何もかもが明らかに劣る、ただ仕事ができるだけのあんな女に獲られたのだ。
玲奈の自尊心は著しく傷ついた。
その上、全社内に向けて”自分と相手の男は既に付き合っている”という偽情報を自ら拡散してしまった後にフラれたのだ。
社内から玲奈に向けられる、気の毒な者を見るような、哀れみの視線の束はなかなかにキツかった…。
別にこの仕事が好き、という訳でもなかったし、玲奈にとって『働く』とは、必要だけど結局ただの面倒事でしかなかった。
獲物リストの最後の、そして最高の有力候補を仕留め損ねた。
こんな場所でこれ以上男を漁っても歳をとっていくばかりだ。
永井玲奈の退職の決意はこうして固まったのだ。
二次会に誘われたが遠慮した。
一刻も早くここから離れたい。
ここには自分を振った男も、それを奪った女もいるのだ。
玲奈が帰ると知って最初のうちは皆
――ええ!?主賓がいないんじゃ盛り上がんないよぉ!
とか言ってたが、やがてすぐに行ける者達で行くことになっていた。
玲奈は何だかそれさえも気に入らなかった。
――私の心は多分今、相当に荒んでいる…。
というだけの自覚が玲奈にはあった。
心だけではない。
肌はガサガサで髪もパサパサで見た目も女子力も相当低下している。
こんな状態で人前にいたくなかった。
*
オフィスの皆と解散して一人で駅まで歩いた。
もしかして不機嫌が顔に出ていたのだろうか…。
同じく二次会を蹴って玲奈についてくる輩がいてもいいのに、そうする者はいなかった。
それがまた余計に気に食わない…。
風にもう夏の余韻はなく、少し肌寒くさえ感じる。
オフィスのみんなといたくない…。
でも1人になりたくない…。
駅に向かっているようで、実は当て所もなく歩いていた。
――あれ?
玲奈は自分が見覚えのある通りを歩いていることに気が付いた。
――ここ、あの時のトコじゃんか!
にわかに心が弾んだ。
以前、同僚の知人のアイドルの子が、質の悪い客に絡まれているのを名演技で助けたことがあった。
まさにあの大団円を繰り広げた場所だ。
――ってことはこの先の交差点に…。
玲奈は思い当たる方向に目をやると、それはあった。
あのときみんなで入った焼き肉屋の看板が見えた。
何故か、無性にまた行きたくなった。
送別会で少しは飲み食いしたが、そういう問題ではない。
焼肉が食べたいのだ。というより
焼肉がしたいのだ。
今、急に一人焼肉がしたくなったのだ。
そう決まってしまうと足取りは軽かった。むしろ駆け出したかった。
が、そこへ
「あれ、今日は一人なんですね。」
と男に声を掛けられた。
いつもナンパは無視することにしていたが、あまりに唐突だったので、つい振り返ってしまった。
髪の明るい、背の高い男だった。
玲奈は次から次と自分の席に酌をしにくる同僚や後輩や上司と陽気に言葉を交わしていた。
社内に知らない顔はほとんどいない。普段オフィスに顔を出さない重役や役員であっても、必ずどこかで一回は会話をしたことがあり、玲奈はそれを正確に覚えていた。
居酒屋のワンフロアを借り切っての盛大な宴であった。
毎月一回の全体朝礼でもこれだけの顔ぶれが揃うことは珍しい。
この驚異的な出席率に、彼女自身もおどろいたくらいだ。
そう、今日は永井玲奈本人の送別会であった。
誰もが引き止めてくれた。
みんな別れを惜しんでくれた。
社長に至っては、考え直して欲しい、秘書室に来てくれ、愛人ならどうかね、などと懇願されたがそれでも玲奈の気持ちは変わらなかった。
夏、玲奈にそれを決意させるある事件が起きた。
失恋したのだ。
フラれたのだ。
押せば簡単に落ちるような男だったのに…。
戦う前から勝ち戦だったのに…。
しかも…、
しかもだ。
自分より、容姿も性格も若さも、何もかもが明らかに劣る、ただ仕事ができるだけのあんな女に獲られたのだ。
玲奈の自尊心は著しく傷ついた。
その上、全社内に向けて”自分と相手の男は既に付き合っている”という偽情報を自ら拡散してしまった後にフラれたのだ。
社内から玲奈に向けられる、気の毒な者を見るような、哀れみの視線の束はなかなかにキツかった…。
別にこの仕事が好き、という訳でもなかったし、玲奈にとって『働く』とは、必要だけど結局ただの面倒事でしかなかった。
獲物リストの最後の、そして最高の有力候補を仕留め損ねた。
こんな場所でこれ以上男を漁っても歳をとっていくばかりだ。
永井玲奈の退職の決意はこうして固まったのだ。
二次会に誘われたが遠慮した。
一刻も早くここから離れたい。
ここには自分を振った男も、それを奪った女もいるのだ。
玲奈が帰ると知って最初のうちは皆
――ええ!?主賓がいないんじゃ盛り上がんないよぉ!
とか言ってたが、やがてすぐに行ける者達で行くことになっていた。
玲奈は何だかそれさえも気に入らなかった。
――私の心は多分今、相当に荒んでいる…。
というだけの自覚が玲奈にはあった。
心だけではない。
肌はガサガサで髪もパサパサで見た目も女子力も相当低下している。
こんな状態で人前にいたくなかった。
*
オフィスの皆と解散して一人で駅まで歩いた。
もしかして不機嫌が顔に出ていたのだろうか…。
同じく二次会を蹴って玲奈についてくる輩がいてもいいのに、そうする者はいなかった。
それがまた余計に気に食わない…。
風にもう夏の余韻はなく、少し肌寒くさえ感じる。
オフィスのみんなといたくない…。
でも1人になりたくない…。
駅に向かっているようで、実は当て所もなく歩いていた。
――あれ?
玲奈は自分が見覚えのある通りを歩いていることに気が付いた。
――ここ、あの時のトコじゃんか!
にわかに心が弾んだ。
以前、同僚の知人のアイドルの子が、質の悪い客に絡まれているのを名演技で助けたことがあった。
まさにあの大団円を繰り広げた場所だ。
――ってことはこの先の交差点に…。
玲奈は思い当たる方向に目をやると、それはあった。
あのときみんなで入った焼き肉屋の看板が見えた。
何故か、無性にまた行きたくなった。
送別会で少しは飲み食いしたが、そういう問題ではない。
焼肉が食べたいのだ。というより
焼肉がしたいのだ。
今、急に一人焼肉がしたくなったのだ。
そう決まってしまうと足取りは軽かった。むしろ駆け出したかった。
が、そこへ
「あれ、今日は一人なんですね。」
と男に声を掛けられた。
いつもナンパは無視することにしていたが、あまりに唐突だったので、つい振り返ってしまった。
髪の明るい、背の高い男だった。