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文字数 3,451文字

 寮の多くの男たちが誘い合って、飲み屋へと繰り出した時間、六畳一間の一室で、ぼそぼそとした独り言がこだましていた。
「てめぇはおれの女だ。毎回うれしそうに注文を聞いて、世間話も交わしたじゃねぇか。おれの作業着姿が、火花の飛び散るせいでひでぇなりなのを恥ずかしがると、『きれいな事務服よりよっぽどかっこいいです』なんて言ってくれてよ。研削加工にまで興味を持ってくれたじゃねぇか。男がいないってのは、答えちゃくれなかったが、表情見ればすぐにわかった。あれ以降、人払いも兼ねて、四時に弁当買いに行ってたんだぜ。おかげで、上司には怒鳴られ、弁当も夜にはすっかり冷えきっちまってたがな。ただあんたの温もりをたよりに食ってたんだぜ、泣けるだろ?」
「『ごめんなさい。お付き合いできません』ってのは、まだおれのことを知らないから、もっと知り合えたら――って意味なんだよな。おれにもっと愛の証しを見せろって言ってるわけだ。ああ、喜んで見せてやるぜ。だからてめぇもそんときには堪忍して、素直に応じるんだな。義務を果たしたんだ、報いるべきだろ? だがよ、おれ――、何より大事なのは、そうおれに言ったと相手に信じ込ませることだ。前の女もそうだった。『おまえのためにやったのに』と、わが胸にドスを突きつけたら、黙って涙流しながら、服のファスナーを下ろして、おれに身をゆだねてくれたっけ」
「ケ、それによ、あんな同じ工場街の男に、女を取られてたまるかってんだ。女にとっちゃあ、大事な誕生日によ。おまえは誰より先におれと、その誕生日を過ごすのさ。真夜中になれば、女子寮ほどわけなく忍びこめるところはねぇさ。どんだけ惚れていようと、操が立てられなきゃ、別れるしかねぇだろ。それとも、おれのドスの餌食になるかだ。なぁ、浦田生子」
 今日、午後から出社した仕事場でひそかに研いだドスを眺め回しているとき、ドアにノックが鳴った。彼は返事をせず、黙ってドアを見続けた。寮員の飲みに行く誘いか、大家の彼の行状に対する愚痴か、はたまた強面の男の家賃催促か、彼はそういった場合、よく居留守を使っていた。彼は出入りするたび、必ずドアに鍵をかけており、さいわい明かり窓のない内戸で、外に出て窓越しにカーテンから漏れる明かりでも確認しない限り、中に人がいるかどうかを知られることはなかった。
 そのとき、ドアの向こうから、男子寮にあって、驚くべき声を聞いた。
「ねぇ、開けてくれない、小竹さん。中にいるんでしょう?」
 小竹は、大慌てでドスを窓の下の長持にしまい、荒々しく部屋を渡って、鍵をひねり、戸を開いた。
 相手を見て、彼がすぐに思い当たったのは『商売女?』『部屋を間違えたのか?』という憶測だったが、見せかけでない洗練された貴婦人のようなたたずまいに、すぐさま考えはあらためられた。そもそも寮に商売女を入れることは厳禁である。
「だ、誰だ、あんた? なんで、おれの名前を知っている?」
「あんた、自分のこと知らないの。その筋じゃあ、有名人よ」
 男だけの建物にあって、なおのこと粗野な男に詰め寄られながら、女は従容とした態度を崩さず、指先を口元に当てて、クスクスと笑った。小竹はまずそのことに衝撃を受けるとともに、彼女の言う意味がわからず、しばらくあっけにとられた。正気を取り戻すやいなや、口角泡を飛ばしてまくしたてた。
「そ、そりゃ、どういう意味だ。てめぇ、逃げるなよ。逃げたって、この建物を出るまでには追い付くからな」
「逃げはしないわよ。ほら、中に入って、ドアも閉めるわ」
 距離を取るため下がったのは、小竹のほうだった。
「……なにもんだ、てめぇ」
「見てのとおり、婦警さんじゃないから安心なさいな」
「な、なんでおれが警察なんかに怯えなきゃならねぇ?」
「あんた、ここに来る半年ほど前、何かしなかった?」
 喉仏が音を立てて上下した。
「……なんで、それを……」
「言ったでしょ。あんた、有名人だって。で、何したか言ってごらんなさいな」
「へ、大したことはしてねぇさ。おれのスケにちょっかいかけてくるスケの雇い主を、半殺しにしてやったまでよ」
「あんたのスケ? その子にはあなたより親しかった男性がいたようだけど」
「知るかよ。現にその後も、おれの女だったじゃねぇか」
「じゃあ、それはいいわ。ところで、さっき『半殺し』って言った? あいにく、そのときの怪我が元で、死んだわよ、その雇い主」
「ふ~ん、まぁ、どうでもいいがな。それよか、おれが知りたいのは、あんたが何者かってことだ」
 女は憐れむように溜息をついた。
「あんた知らないのね。人を殺すって、結構な罪になるのよ、こっち以上に向こうでは」
「はぁ、どこの国の話をしてるんだ? おれは、てめぇがなにもんだって聞いてんだよ? なんでそこまでおれのことを知ってやがる!」
「そりゃ、あんたのこと、調べたもの。あたしに、千里眼があるとでも思った?」
「すかした顔して言うんじゃねぇよ。なんで、おれのことを調べる?」
「浦田生子の姉だから――って言ったら?」
 続けざまに言った彼女の言葉に対して、小竹は二十秒近くも黙り込み、その間じっと彼女を見つめ続けてから口を開いた。
「……全然似てねぇじゃねぇかよ……」
「そりゃそうよ。腹違いだもの。しかも父親似のわたしと比べて、あの子は母親似なの」
「あんた、名前は?」
「秀子よ」
「大したタマだな、秀子さんよ。つまりこういうことなんだな。妹から手を引け。さもないと、そのことおおっぴらにして、警察に訴える――ってわけだ」
「別に駆け引きするつもりはなかったのよ。あなたの過去がそうさせただけ」
 小竹はふてぶてしく笑った。そこには今更、柳腰の美人を前にやに下がる笑みも含まれていた。
「かまわんぜ、やれよ。すぐさま逮捕されるわけじゃなし。おれは、あくまでも大切な恋人を守るためにやったと言い張るだろうな。あの女だって、きっとそう口裏合わせてくれるはずさ」
「そうでしょうね、あなたは彼女の何気ない一言を、そう訂正させたのですから。そのうち、自分が殺したと言い張るかもしれないわ」
「じゃあ、もうこの件で、おれを退ける術はなくなったわけだ。ところで、今度はおれから条件を出すが、こういうのはどうだろう。生子の代わりにあんたがおれのスケになるってのは? 言っとくが、留保はなしで、承諾するなら、今すぐここで抱かれるってことだ。折しも今、アパートの住人は出払っていて、声ならいくらでも出せるぜ」
「それはつまり、あんたに惚れることのないわたしは人身御供ってことね」
「懐かしい言葉を吐くんだな。ああ、そうさ。だが、安心しな。

。……んっ、どうした、その顔?」
 顔面蒼白となった秀子が、この場で初めて慄然となった。か細い声を震わせながら、彼女は言った。
「い、いまのセリフ、最後の旦那様とまったく同じだった……。わたしの生まれ変わりが仮に生子さんだとすれば、あなたも今ここに生まれ変わっていたのね――わたしを殺した人」
 視線が向けられたとき、小竹は総毛立つほどの恐ろしさを感じた。
「お、おい、何を言ってるんだ?」
「いいわ、抱かれてあげる。抱かれてあげるって言ったのよ」
「ま、待て。帯に手をかけるな。こんなときに平気で脱ごうとするなんて。てめぇ、案の定ヤクザの情婦かなんかだな。そうやって、自ら手を下さず、おれを殺させる気だな。おまえやっぱりただものじゃないな」
「『ただものじゃない』? フフフ、あんた、本当に女を見る目だけはあるのね」
 小竹にとっては話が散らばるだけで、一向に先が見えなかった。
「おかしい……。てめぇ、やはり、生子の姉とかじゃねぇな」
 滑稽だとでも言うように、秀子はカラカラ笑った。
「どうして? わたしとあの子は、双子のように瓜二つじゃない?」
 むろん小竹は、最前秀子が、容姿が似ていないことを認めた発言をしたのを覚えていた。
「う、嘘だ! じゃあ、言ってみろ。明日が何の日か、言ってみろよ」
 その切羽詰まって放たれた質問が、思いがけず、秀子をハッと驚かせた。憑き物自身でありながら、さながら憑き物が落ちたみたいに、きょとんとなり、目をパチクリさせた秀子であった。
「エッ、明日が何の日? 明日は……明日じゃない? 木曜日?」
「ハッ、ほら! それも知らねぇで、よく生子の姉と――」
 そのときである。背後で高らかな声が響くとともに、わずかに開いていたドアが思い切り引き開かれた。
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