5-2

文字数 3,450文字

「おひいさんは、いつかは天上に帰らねばならない身の上なんだよね。どうやったら帰れるのかな?」
「知らないわ。知りもしないから、百年近くもこんな場所に居続けているのよ。ある意味、どちらが地獄なんでしょうね」
「……つらい?」
「それが案外苦じゃないの。百年くらい経ったって言ったけど、実際は地上に降りて、まだ一週間くらいしか経ってないような気分よ。だから、わたしがそう簡単に居なくなるなんて思わないことね」
「そうなんだ……ふふ」
「はぁ? なにそれ、いま笑ったでしょ?」
「ち、違うよ。霊の世界もこの世と変わらず大変なんだなって思っただけ」
「わたしはともかく、あんたが大変なのくらい知ってるわ。道楽一つなく、帰って、寝て、仕事に出かけるだけの毎日だものね」
「アッ……見てたんだね」
「……フン。わたしが天上に帰れるのは、この世の恨みがすっかり晴らせたときよ、きっとね」
「もし、おひいさんが天上に帰ったとき、どうなるんだろう?」
「『どうなる』って、何が?」
「ぼくは、その、これまでここに住んだ人たちとは違って、おひいさんと深く関わり過ぎた気がするんだけど。あっ、いやその、『深く関わる』といっても、変な意味じゃ――」
「あ、そんなこと。だったら大丈夫。記憶がなくなるだけだから」
「エッ――、記憶が無くなる……」
「そ、わたしがあんたと出会った日の朝日が昇る瞬間に、あんたの記憶がさかのぼるだけ」
「……それじゃあぼくは、篠栗が亡くなった日の朝にもどるってこと?」
「ううん、そうじゃない。やっぱり、あんた覚えてないのね」
「え、どういうこと?」
「その篠栗とかいう男を会議で糾弾した日の夜よ。わたしとあんたが面と向かって顔を合わせたのは。その、布団から飛び起きた驚き顔からすると、全然記憶にないようね。でもね、あんたはあの日も夜中にトイレに立って、部屋に戻って来たとき、確かにわたしと真っ正面に顔を合わせたのよ。あんたは酔ったような据わった目で、一分近くもわたしを見続けたあと、そのままおもむろに寝床に滑り込んで、五秒後にはいびきをかき始めたのよ。死んで初めてよ、あれほどの屈辱を感じたのはね」
「それは、その、ごめんなさい……」
「ふん、いいわ。あのときこそ、『おまえじゃ、格が違う』なんて言われた気がして、むかっ腹を立てたけど、あのときのあんたは、それほどに自分を追い詰めていたことがわかったから」
「だから、その次現れたとき、めちゃくちゃ怖かったんだ……」
「ば、バカね、あれは普通よ、普通」

「あんたに言っておくことがある。わたしは、あんたを殺せやしないから安心なさい。嘘をつくのは霊の心得に反するだろうから、言っておくわ」
「そんなこと思っても見なかったよ。でも、だけど、もし、きみがぼくとともに成仏できて、天上の世界でも一緒に暮らせるなら、ぼくは――」
「はぁ、なに? ぶつぶつ言って。後半、全然聞こえないんだけど」
「ううん、なんでもない……」
「だったら、これもついでに言わなくちゃならないのかしら。わたしにも、殺せる人間がいるにはいるのよ。でも、それはわたしを殺した人間と同じ種類の人間だけ。前にどうすれば成仏できるかって話をしたけど、それを果たせば間違いなく、わたしは天に召されるんじゃないかしら」

「まだ寝てないみたいね。一つ確認したいんだけどいいかしら? あんたって、男が好みなの。わたしの時代にもたまにいたけど」
「ブッ、ゲホゲホ、じょ、冗談じゃないよ!」
「あら、初めて怒ったわね」
「アッ、ごめん。だって、突然そんなことを言うものだから……」
「あら、わたしだって根拠がなくて言ったわけじゃないのよ。暇だったんで、あんたがいないあいだ、家探ししてみたんだけど、なんにもないんだもの、この部屋。女の気を引こうとするようなものが何一つ。タンスの引き出しを引き出した奥に、封筒に入れた裸の女の写真を見つけたときは、安堵したものよ。あのときはまるで、あんたの母親になったような気分だったわ」
「あ、あれ……み、見たの……」
「封筒から抜き出して、表を向けたときは、ポトリと落として、しばらく動けなかったけど――ふふ、冗談よ。これまでこの部屋に住んだ男のどぎついやつを見ていたから、拍子抜けしたくらい。それで、もしかしたらと思って、一応聞いてみたわけ」
「……ぼく、女性と付き合ったことないから……」
「あら、それは失礼。じゃあ、アレはもっぱらアッチで済ませてるのね」
「アレ? アッチ? ひょっとして、それって!……ぼ、ぼくはそういうのにお金を使ったことはないよ……」
「エッ――、じゃあ、まさか、あんた、玄人相手の経験もないの?」
「ないもなにも、おひいさんの時代とは違って、今はそういうことが法律で禁止されているんだよ。もっとも、ついこのあいだ、その法律が施行されたばかりだけど……」
「……驚いたわ。でも、そうね、あんたはそういうところへは行かないでよかったのかもね。勝手を知らない野暮天は吉原でも嫌われたっていうし」
「ぼくも一つ確認していいかな? おひいさん、お歯黒とかしていなかったよね?」
「あんな時代遅れ、するもんですか! それにあれは既婚者だけがするものよ」
「なるほど。ともかく、そういう時代の人なんだね」

「あんたの部下のすべすべ肌に、ほくろが目立つ人って役立たずね」
「ど、どうして、船尾のことを? まさか、おひいさん、職場を見に来てくれたの。ここから移動できるなんて、思いもしなかったよ」
「言ったでしょ、わたしにはなんの制約もないの」
「でもね、おひいさん、船尾は若いから、どうしても未熟だし、あいつなりには頑張っていると思うんだ」
「最後に仕事場に来て、最初に仕事場を出て行く――棟梁さながらね。どこをどう頑張ってるんだか?」
「そうだね……。だけど、今は他のことに気が向いているだけで、やる気がないわけじゃないと思うんだ。現に、これまで休んだことは一度もないし」
「休むと、遊ぶお金も減るからよ。そんなことだから、あなたが毎回尻拭いするはめになって、帰りが遅くなってるんじゃない」
「……うん。あ、でも、今度からはきみが見ているかもしれないと思うと、全然苦じゃなくなるな」
「馬鹿ね……(ってことは、これまでは苦だったってことじゃない)」

「おひいさん、今、台所にいない? 天板に乗って腰かけてたり」
「な、なんでわかるの。あんたには見えないはずよ!」
「うん、最近なんだか、おひいさんの気配を感じられるようになってきた気がするんだ」
「電気をつけて! いいから、早く! じゃあ、ほら、こっちを見て」
「エッ、うん、見たよ」
「どう見える?」
「どうって、久々に見たし、お顔も直してくれているから――き、きれいだよ」
「そんなんじゃなく、変わって見えない? たとえば、よく見えるとか?」
「そういえば――うん、ホントだ、よく見えるや! 透ける感じがなくなっているみたいだ」
「馬鹿ね、何を喜んでいるの! それは危険なことなのよ。もう一つ、確認したいわ。こっちに来て」
「エッ、いいの? うん……」
「わたしの差し出した手に触れてみて。そうじゃないわ、手を置くんじゃなくて、交差させるの。どう? 何か感じる?」
「い、違和感があるよ! きみに触れる感触がある。ああ、ぼくはきみにさわれるんだ!」
「だから、これは喜ぶべきことじゃないの! あんたが霊に近づきすぎてるってことなのよ。わたしがあんたの肉体の生気を吸い込んでいる証しなんだから」
「……それじゃあ、おひいさんはぼくの代わりに生まれ変われるの?」
「馬鹿ね、わたしは器を持たない霊なんだから、あんたの生気を吸いこめるのも一時的で、すぐに発散して、元通りになってしまうわ。でも、あなたは戻ることはない」
「でも、それならどうして、おひいさん以外のこの世に恨みを持つ幽霊は、そういうことをしないんだろう?」
「意思が――お互いの意思が――疎通できたときだけだからよ。なによ、その、今にも涙でうるみそうな目は。勘違いしないでよね。惻隠の情よ、惻隠の情! 他にも、親子とか兄弟とかでも、そういう感覚ってあるでしょう、そういうことを言ったのよ」
「か、かまわないよ! きみと一緒にいられるなら、霊になろうとも」
「バ、カ……」

 それからしばらくして、彼が仕事に出て行ったあと、彼女は彼が前夜隠し持って帰ってきた本を探りだした。異端邪宗の書物で、死者を蘇らせる術が記された本だった。むろん彼女は、そんなものがすべて眉つばなのを知っていた。
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