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文字数 1,999文字
朝八時――。
事務職員ほか、作業員も事務棟のタイムレコーダーで出勤時間を打刻し、各仕事場のロッカールームに向かわねばならなかった。受付を通り抜ける際、挨拶と声かけはこの会社の社是でもあり、そこにいる誰かしらと必ず挨拶を交わすのが習わしとなっていた。
「おーす」
「おはよー」
「うーす」
「あら、寝ぼすけさん、今日はお早いこと」
「図面のやり直しがあったの、忘れててさ」
「あら頑張って。ほら、ミカンあげる。朝の果物は金よ」
「おいっす、おはよ」
「うん? ああ、おはようさん」
「アッ、係長でしたか。どうも、おはようございます」
「お、髪型変えた? おはよう」
「おはよう。ちょっとよ、耳を出しただけ」
その列に混じって、八木山も出社した。おずおずとだが、近くにいた女性社員に挨拶を投げかけた。
「おはよう」
「おは、ア――、おはようございます……」
背中を向けた女性事務員がそれまでと同様、元気を振りまくように、相手知らずの挨拶に応じようとしたが、振り返ると、開いた口をにわかに閉じて、両靴を揃えるように立ち、視線を落とすようにして、挨拶した。彼が昇進してからというもの、
この『もともと』の理由を単刀直入に言えば、八木山は以前より女性社員から変人――ある種の変態――扱いされていたことに因る。すべては噂が噂を呼んだためであるが、彼がこれまで女性と付き合うどころか、接触すら持ち得なかったことによるもので、彼の女性に対する過剰なまでの気遅れから、かえって女性に警戒心を抱かせるようになってしまったのだ。一部では、『奇癖の持ち主』だとか、口さがない連中からは『性的異常者』とまで、憶測のみで流布されていた。
蛇足ながら、彼はよく、従業員同士が付き合って、ベンチで手作りの弁当を一緒に食べているところなど、恋人同士が仲睦まじくしている場面に出くわすと、立ち止まり、目を細めて、幸せそうに(うらやましいというのではなく、自分もいつか誰かとあんな関係になれたらと、あくまで遠目に)眺めたものだが、それを偶然、はたから見ていた別の女子社員がいて、彼女が言うには、その光景は薄気味悪くて仕方がなかったそうだ、まるで親密な二人の恋模様をあざけっているようで。先入観とは恐ろしいものだが、彼がこう思っていたように見えたと、彼女は(途中自身の思いも代弁させつつ)言うのであった――『クソッ、あんな野郎のどこがいいんだか。女も女だ。年下の男をひっかけ、悦になりやがって。それに、あの厚化粧ったらないぜ。そんなに漆喰塗りがうまいのなら、左官屋にでもなりやがれっていうんだ。フン、どうせすぐに物足りなさを覚えるくせによ。ヘヘ、おれのところにくりゃ、イヤっていうくらい満足させてやるのにな』。そう、一つ付け加えておくなら、彼はその性格からか、三十二になる今も童顔そのもので、決して醜男というのではなかった。
作業棟(工場)に移動し、着替えを済ませる。いつも通り一番早い出勤だった。決して他の部署と比べ、従業員にやる気がないというのではなく、彼が担当する板金加工に関しては、作業音がけたたましいため、どれだけ早く来ようと、既定の始業時間より早く仕事を始めるわけにはいかないのだった。むろん納期が迫っていれば別であり、その場合、周辺に住宅地がないことから、時間的制限はなくなる。あるとすれば、作業員の体力の限界のみである。
八木山は、潤滑油が足りなくなっていないか、集塵袋が満杯になっていないか、その他確認も兼ねて、並んだ機械を見て回った。
板金加工の流れは、おおかた次のようなものである。展開図の作成に始まり、板金の切断及び穴あけ加工、前加工(バリ取り)、曲げ加工を経て、各々を溶接し、最後にメッキや塗装などによる仕上げとなる。各作業は棟ごとに別けられ、八木山はこの中で主として、花形とも言われる『加工』にあたる箇所を担当していた。彼の会社では、様々な機器の筐体を造っていた。小さなものでは、機械仕掛けの一歯車のような精密機器から、巨大なパラボラアンテナまで作製することができた。現在彼の部署では、空調ダクトと総ステンレスのアイランドキッチンを同時に手掛けていた。八木山をはじめ、ここにいる人間は板金を折り紙同然に扱えるものたちであった。
ちらほら作業員が増え始め、彼と挨拶を交わす。さっそく方々で雑談が始まるが、あいにく彼はその輪に入れなかった。しかし、昇進もあり、最近になってこれではいけないと、その輪の端に立ち、お追従の笑みを浮かべながら、話を聞くよう心掛けていた。話題を振られたことはまだ一度もない。
始業のチャイムが鳴ると、彼は本日の作業の手順を説明し、仕事を割り振り、五分後にスピーカーから流れるラジオ体操で一日の作業が開始した。
事務職員ほか、作業員も事務棟のタイムレコーダーで出勤時間を打刻し、各仕事場のロッカールームに向かわねばならなかった。受付を通り抜ける際、挨拶と声かけはこの会社の社是でもあり、そこにいる誰かしらと必ず挨拶を交わすのが習わしとなっていた。
「おーす」
「おはよー」
「うーす」
「あら、寝ぼすけさん、今日はお早いこと」
「図面のやり直しがあったの、忘れててさ」
「あら頑張って。ほら、ミカンあげる。朝の果物は金よ」
「おいっす、おはよ」
「うん? ああ、おはようさん」
「アッ、係長でしたか。どうも、おはようございます」
「お、髪型変えた? おはよう」
「おはよう。ちょっとよ、耳を出しただけ」
その列に混じって、八木山も出社した。おずおずとだが、近くにいた女性社員に挨拶を投げかけた。
「おはよう」
「おは、ア――、おはようございます……」
背中を向けた女性事務員がそれまでと同様、元気を振りまくように、相手知らずの挨拶に応じようとしたが、振り返ると、開いた口をにわかに閉じて、両靴を揃えるように立ち、視線を落とすようにして、挨拶した。彼が昇進してからというもの、
もともと
よそよそしかった女性社員の挨拶に、なお一層の慇懃さが加わったようである。この『もともと』の理由を単刀直入に言えば、八木山は以前より女性社員から変人――ある種の変態――扱いされていたことに因る。すべては噂が噂を呼んだためであるが、彼がこれまで女性と付き合うどころか、接触すら持ち得なかったことによるもので、彼の女性に対する過剰なまでの気遅れから、かえって女性に警戒心を抱かせるようになってしまったのだ。一部では、『奇癖の持ち主』だとか、口さがない連中からは『性的異常者』とまで、憶測のみで流布されていた。
蛇足ながら、彼はよく、従業員同士が付き合って、ベンチで手作りの弁当を一緒に食べているところなど、恋人同士が仲睦まじくしている場面に出くわすと、立ち止まり、目を細めて、幸せそうに(うらやましいというのではなく、自分もいつか誰かとあんな関係になれたらと、あくまで遠目に)眺めたものだが、それを偶然、はたから見ていた別の女子社員がいて、彼女が言うには、その光景は薄気味悪くて仕方がなかったそうだ、まるで親密な二人の恋模様をあざけっているようで。先入観とは恐ろしいものだが、彼がこう思っていたように見えたと、彼女は(途中自身の思いも代弁させつつ)言うのであった――『クソッ、あんな野郎のどこがいいんだか。女も女だ。年下の男をひっかけ、悦になりやがって。それに、あの厚化粧ったらないぜ。そんなに漆喰塗りがうまいのなら、左官屋にでもなりやがれっていうんだ。フン、どうせすぐに物足りなさを覚えるくせによ。ヘヘ、おれのところにくりゃ、イヤっていうくらい満足させてやるのにな』。そう、一つ付け加えておくなら、彼はその性格からか、三十二になる今も童顔そのもので、決して醜男というのではなかった。
作業棟(工場)に移動し、着替えを済ませる。いつも通り一番早い出勤だった。決して他の部署と比べ、従業員にやる気がないというのではなく、彼が担当する板金加工に関しては、作業音がけたたましいため、どれだけ早く来ようと、既定の始業時間より早く仕事を始めるわけにはいかないのだった。むろん納期が迫っていれば別であり、その場合、周辺に住宅地がないことから、時間的制限はなくなる。あるとすれば、作業員の体力の限界のみである。
八木山は、潤滑油が足りなくなっていないか、集塵袋が満杯になっていないか、その他確認も兼ねて、並んだ機械を見て回った。
板金加工の流れは、おおかた次のようなものである。展開図の作成に始まり、板金の切断及び穴あけ加工、前加工(バリ取り)、曲げ加工を経て、各々を溶接し、最後にメッキや塗装などによる仕上げとなる。各作業は棟ごとに別けられ、八木山はこの中で主として、花形とも言われる『加工』にあたる箇所を担当していた。彼の会社では、様々な機器の筐体を造っていた。小さなものでは、機械仕掛けの一歯車のような精密機器から、巨大なパラボラアンテナまで作製することができた。現在彼の部署では、空調ダクトと総ステンレスのアイランドキッチンを同時に手掛けていた。八木山をはじめ、ここにいる人間は板金を折り紙同然に扱えるものたちであった。
ちらほら作業員が増え始め、彼と挨拶を交わす。さっそく方々で雑談が始まるが、あいにく彼はその輪に入れなかった。しかし、昇進もあり、最近になってこれではいけないと、その輪の端に立ち、お追従の笑みを浮かべながら、話を聞くよう心掛けていた。話題を振られたことはまだ一度もない。
始業のチャイムが鳴ると、彼は本日の作業の手順を説明し、仕事を割り振り、五分後にスピーカーから流れるラジオ体操で一日の作業が開始した。