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文字数 3,428文字

 幽霊が髪をかき上げると、一瞬だけ焼きただれた顔が元通りになった。そのとき視線は、これまでとは逆の一方通行になった。その間然するところのない美しさに、彼は感嘆の声を上げた。
「――ああ、なんて、おきれいだったんだ。銀幕の女優のようだ」
 自分の顔の評価でわからぬ言葉があったら、確かめたいというのが女心であろう。女幽霊はけげんそうに、彼を睨みつけた。
「『銀幕の女優』?」
「ああ、銀幕の女優というのはですね――」
 そこでわれを取り戻すと、女幽霊は勃然として色をなして、激しい剣幕で彼を怒鳴りつけた。
「ふん、そんなことはどうだっていい! 約束通り、あんたにはここから出て行ってもらうから」
「エエッ、それは困ります」
 どちらかといえば、大きくうろたえたのは幽霊のほうであった。
「あ、あんた、この幽霊を相手に、今した約束をもう破るというの。どうなるかわかってるんでしょうね」
 彼は彼なりの誠意を尽くして説明した。
「ち、違います! さっきの約束は、あくまで呪うというもので、呪われるなら致し方ないですが、出て行かねばならないのは困ります。だってまだ一ヶ月半ですし、通勤に便利で、住みやすいと思っているので」
 しばらく押し黙った幽霊であった。
「……あんた、よく、この状況でそれが言えたわね」
「ごめんなさい……」
 今度はため息をついた幽霊であった。
「謝られるってなんなの? そう、そういうこと、つまりあんたは呪い殺されたいわけねっ」
 『どうせ、男なんて、嘘か言い逃れしかしない生き物よ』――そんなさげすんだ眼差しで、幽霊は男を見下ろした。しかし、すぐにその目は見開らかれ、穴が開くほど見つめることになる。
「あなたとの約束だし、そうなることは覚悟しています。もちろん呪われたとて、ぼくはあなたを恨みません。あなたが先に約束を果たしてくれたのですから。でも、もしよろしければ、どういった経緯で、あなたがそうなったのか、教えてはいただけませんか? あなたの要求するところによると、あなたはここに住んでいた人に、化けて出るほどの恨みを持っておられるわけですね?」
 幽霊はあざけるような含み笑いをした、まるで子供が大人の話に割り込んで口出しするのを見るかのように。彼女は尻目にかける流し目を八木山にくれた。
「ふぅん、なぁに、あんたが仇を取ってくれるというの?」
 顔を赤くした、年相応には成熟しきれぬ幼い紳士が答えた。
「か、可能なら、それもやぶさかではありません」
「フッ、でもねぇ、それももう、今より百年近くも前の話なのよ。当然その人だってもうこの世にはいない。どう仇を取るつもり? さぁわかったわね。あんたが出て行く気がないなら、少しずつ呪って、仕事ができなくしてやるから」
 目線こそいまだ合わせられないが、その啖呵に受けて立つように彼も答えた。
「か、かまいませんが、もし仕事ができなくなったら、もっとここに居座ることになりますよ。ぼく、その、自慢するわけではないですけど、金の使い道を知らなくて、貯金だけは結構あるほうですから」
「なんですってぇ! ともかく、出て行かないなら、死んだほうがましと思えるような呪いをかけてやるわ。今みたいに、いちいち宣告したりしないから、よく覚えておくことね」
 この言葉を捨てゼリフにして、彼女は出てきた壁の中に引き下がろうとした。気味の悪さでいえば、彼女も彼に負けずとも劣らなかった。男の見てくれが悪いというのではなく(元来彼女は見た目で男を判断しはしなかった。色男に目移りしたことも生涯一度もなかった)、生きてから死んだあとも含め、八木山という男が出会ったことのない種類の人間だったからである。そもそも、売り言葉に買い言葉とはいえ、こんなにも長く生身の人間と話すのは得策ではなかった――『まったく、幽霊が熱くなってどうするのよ』。出て来たときの威勢のよさはどこへやら、墓場の幽霊さながら肩を落として、壁の中に引き下がろうとした――そのとき、八木山が独りごちた。
「……これも巡り合わせかな。今日のような日に、あなたに会うなんて……」
 これはあくまでも独り言で、彼は彼女がまだ部屋に居残っているとは知らなかったのである。
 そのまま壁に消えて、存在を失くすこともできたが、彼女は壁の直前で立ち止った。しばらくその場に居続けたあと、部屋の真ん中まで戻って彼に呼びかけた。
「……それって、どういう意味? 別にあんたなんかに興味があるわけじゃないわ。今宵、わたしに恐怖を抱かない理由があるんだったら、それを知りたいだけ」
 彼女が消えたと思っていただけに、彼は驚いた様子で振り仰ぐと、目を見張って彼女を見つめた。
「ぼくの話を、あなたが聞いてくれるんですか?」
「違うわ! あんたにしゃべるよう命令しているだけよ」
「命令――」自嘲気味ではあったが、彼は初めて笑った。「だったら、答えなくちゃいけませんね。ぼくはね、幽霊さん、今日いえ、もう昨日のことですが、人を殺したんです。会社の同期で、唯一の友達といえる存在を」
 それから彼は、一ヶ月前の会議で自分が篠栗を糾弾し、彼が会社を辞めたあとの経緯を説明し、結果昨日の朝、自殺にいたったことを、悲憤を帯びた口調で幽霊に打ち明けた。
 黙って聞き終えたあとで、女幽霊は口を開いた。同情というより、突き放すように言ったに過ぎなかった。相変わらず、月明かり差し込むだけの真っ暗な部屋で、幽霊は部屋の中央に立ち、彼は部屋の隅で体育座りしたままだった。
「馬鹿ね。あんたが、その男を殺したんじゃないわ」
「わかっています。でも、あいつが首にロープを巻いても、足下の台を蹴ったのは、ぼくなんです。ぼくがいなければ、あいつは死なずに済んだのですから」
「一つ教えてあげる。ロープを首に結んで生活してれば、誰でもそのうち死ぬわ。転ばない人間なんていないんだから。あんたはそれを気づかせようとしただけよ。あんたはきっかけを作ったつもりかもしれないけど」
「事実、自殺のきっかけはぼくだったんです。ぼくさえ黙っていれば、あの程度の目腐れ金を着服した犯人なんて、誰もわかりっこなかった。そして今後はきっと彼も、着服なんかに手を出さなかったに違いない。あいつは、危機管理に欠ける今の会社のありようが許せなかっただけなんです。本当に盗もうと思えば、彼の立場であれば、もっと多額の金を一度に盗み取ることだってできたのだから。それだって、あのときの泥縄式では彼を捕まえられはしなかったでしょう。そのことを思い知らせようと、あいつはわが身を犠牲にして汚れ役を買って出ただけなんですから。それにもかかわらず、あのときぼくは、まるで鬼の首でも取ったように……。実はね、幽霊さん、ぼくはあのとき、彼の説明の端々に、もう一つの声を聞いた気がしたんです。『おい、八木山、どうだ、おまえにわかるか?』って。『おまえにばらされるなら、おれは悔いはないぜ』って。あの一万円札を渡したときも、振り返ればそういう思いを秘めていたんじゃないかって思うんです。もちろん、その一万円札がぼくのものであったことや、その証拠もあるなんて思いもしなかったでしょうけど」
「今ここで、その篠栗という男がどんな気持ちで三途の川を渡ったか聞きに行って、あんたに教えることは簡単だけど、でもしない。死に際に書かれた遺書があるなら、それがすべてを物語っているはずだから。ところで、あなたって、見た目通りおこちゃまね」
「ア……あなたは確かに人生経験が豊富そうですね」
「マ、あんた、わたしをいくつだと思ってるの?」
「そう言うあなたこそ、ぼくをいくつだと思っているんです?」
 二人揃ってギョッとしたことに、彼女(の享年)は彼より七つも年下であった。
「ところで、どうしてあんた、さっきからわたしのほうに目を向けようとしないわけ? その前まではじろじろ見ていたくせに」
 自分の部屋に『女性』がいる気恥ずかしさには触れず、彼はこう言った。
「幽霊さんって、去り際を見られたくないかなと思って」
「やっぱ馬鹿ね、あんた……ヒデ」
「えっ?」
「秀よ。わたしの名前は秀子と言うの。別に呼ばれたいからじゃないわ。あんたが呼びにくそうだから言ったまでよ。覚えておくがいいわ、という意味でね。ともかく、約束を忘れないことね。出て行かねば、すぐにも呪い殺すから」
「そう、ですよね……あ、いない……さよなら、いえ、おやすみなさい、ひでこさん」
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