4-2

文字数 2,858文字

 さて、そのアパートに帰り着いた八木山は、今宵は風呂屋に行く気が失せ、濡れたタオルで身体を拭くと、茶漬けをかき込み、早々に床に就いた。悩んで解決する事柄ではなく、話し合う相手もいない以上、起きてふさぎこむのを続けるくらいなら、いつでも眠れる状態を保っておいたほうが楽だったからである。それは、篠栗を会議で糾弾したときも同じであった。そしてそのときもそうだったが、彼はすぐに重く沈みこむように深い眠りに落ちた。
 午前二時、彼はトイレに立った。以前は寝ぼけた状態だと、壁にぶつかるなど、方向を間違えもしたが、今は電気をつけずとも、戸を出て、月明かりのもとでトイレに向うことができた。習ったわけではないアパートのしきたりに従って、音を立てないよう気を配りながら、トイレに向かう。一ヶ月半になるが、運よくこれまで一度として、トイレで人と行き当たることはなかった。まだまぶたが半開きのまま、部屋に戻ったとき、不思議と室内が肌寒い気がした。部屋の真ん中、布団のそばに立って、目を凝らして窓を見る。ちゃんと閉まっていた。なんとはなしに部屋を見回した。押し入れがわずかに開いていたが、片手に布団を抱えたまま、見もせず後ろ手に閉めたので、そうなったのだろう。再び布団におさまろうとかがみこんだ刹那であった――背後で声がした。男とも女ともつかぬ声で、彼の脳が反射的に判断したのは、『風切り音だろう』ということだった。しかし、すぐに思考がその判断をあらためた。閉め切った部屋であり、それが音ではなく、声として聞こえてならなかったからだ。耳馴染みした人間の声というのは、他の人と聞き間違うことはあっても、たとえ外国語であろうと、それ自体を間違えることはない。彼はゆっくりと後ろを振り返った。
 けやきタンスを置いた部屋角に、寝間着浴衣とおぼしきものを着た、女性が立っていた。八木山は足を浮かせて反転し、その場にへたり込み、驚きのあまり声を失った。見ると、顎を引いたうつむき加減の女性の顔は半分が赤くただれていた。まごうことなき、幽霊であった。先ほどと同じ、喉を押しつぶした声が、再び聞こえた。顔にかかった漆黒の髪が声とともに浮きあがった。
「恨めしやー、憎き男めぇ、呪い殺してやる」
「う、うお、うお、うわあぁぁぁ!」
 生まれてこの方、一度として発したことのない、あらんかぎりの絶叫を張り上げて、八木山は飛び上がるとともに、再び尻餅をついた。今度こそ腰が抜けた彼は、その状態のまま両手両足を使い、布団をなぎ払いながら、部屋の対角線上まで引き下がった。幽霊は身体を揺らすようにして、ゆっくりと近づいてきた。
「あん畜生めぇ、うらまでおくべきか~」
「うわ、おわ、うわ、おわ」彼の横隔膜は引きつけを起こしていた。しかし、どうしてもその存在から目が離せなかった。と、窓よりかすかな月明かりが差し込む距離まで相手が接近したとき、彼はあることに気づいた。声が――彼の声が、われ知らず口から漏れ出た。「おう、おう、おお……ん、んん……あ、あなた、おきれいですね」
 一瞬だが、幽霊の動きが止まった。しかしすぐさま、今度は首を横に傾け、赤く焼けただれた顔の片側をむき出しにして近づいてきた。
「おのれ、出ていけぇ、この顔の恨み、晴らさでおくものかぁ」
 お化けが出たという恐怖があらためて彼を襲い、部屋角に身を寄せるとともに、腕を掲げて身を守る体勢をとった。が、またどうしても、腕の隙間越しに、皮膚のただれた凄愴たる幽霊の顔から目を離すことができなかった。
「ひ、ひどい……でも、ああ、それでも、あなたはおきれいだ」
 女幽霊は今度こそ立ち止まると、そこからにわかに足取りを速め、散らかった布団を跨ぐことなくすり抜け、襲いかかるべく腕を伸ばして彼に詰め寄った。
「殺してやる、殺してやる、殺してやるぅ」
 ついに完膚なきまで恐怖に飲み込まれた八木山は、震える膝を抱え、殻に閉じこもるように膝頭に顔をうずめた。幽霊が目前――動けば触れる距離に迫っているのは、ただよう空気の異質さから、皮膚全体で感じ取ることができた。だが、ここにいたると幽霊は、言葉は発さず、ただ威圧的に恐怖を植え付けることだけをおこなった。八木山は震えるか細い声で祈るように嘆願した。
「た、たすけて、ください……」
 目も開けられずそれだけ言うと、今度は、これまでの脅しをかけるしゃがれた声とは違う、冷たい女の声が、吐息までもが聞こえる耳もとでささやかれた。
「この顔がきれいだと……たわけたことを……ほら、顔を上げて、よぉく見るがいい」
 何が待ち受けるにせよ、この要求を無視し続けることなどできるはずがなかった。今の恐怖は、待ちうける三倍の恐怖にさえ勝るものだ。だからこそ、人は逃れようのない状況に自分を追いやり、銃殺刑さえ受け入れるのかもしれない。ともかく、命令通り彼は、膝から顔を引き離し、薄目を開け、ゆっくりと顔をもたげた。すると、鼻先数センチのところに女の顔面があり、顔半分が焼けただれた、まつ毛のない目が、髪の毛の隙間から彼を直視していた。
「ひいっ」
 彼はめいっぱい身をのけ反るとともに、身体を横向きにし、壁にへばりつくようにしながら、再び膝に顔をうずめた。そのまま木の葉のように彼は震えていた。
「ふざけおって、さっきはよくも――」
 そのとき、女幽霊の言葉と重なるように、顔をうつぶせにした八木山が、こもった声で主張した。
「だけど、あなたがそうなる前、おきれいだったことは本当だ」
「お、おのれ、まだそのようなたわけたことを言うか!」
 その声は、まさに人間の若い女の声そのものだった。
「ぼくは、誰にも、あなたにも嘘はつきたくないだけだ」彼は許しを乞うように、上目遣いの目を幽霊へと向けた。「だって、あなたも、嘘は望まないでしょう?」
「もし嘘などついたらおのれの舌など……なぜ、おまえ、泣いている?」
 そう、彼女の顔をあらためてその目で捕えたとき、彼の頬にはとめどない涙が伝い始めたのだった。八木山は照れ隠しをするように恥じらいだ笑みを見せて、急いで両手で涙を拭った。
「はは、この涙は、あなたが怖いからじゃないですよ。もっとも怖くないわけじゃないですけどね。今ぼくは、あなたがなぜ、そのような恨みを持った霊魂になったのか、悲しい定めを背負うようになったのか、そのことに想いを馳せたのです。あなたをそのような運命にしたものが憎い。あなたがぼくを呪うことで、その気が晴れるというなら、どうぞお呪いください。ですがその前に、一瞬だけでかまいません。この目に焼き付けさせてはくれませんか、あなたの本当のお顔を。あなたは幽霊だ。きっとその顔も怪我を負う前の状態に戻せるのではないですか。ほんの一瞬でかまいません。どうか見せてはもらえませんか?」
 しばしのあいだ、女幽霊は苦虫を噛み潰したような表情で八木山を睨みつけた。熟慮の末、嗜虐的に口元を緩めた女幽霊は、挑発的に応じた。
「約束は、守ってもらうわ……」
「ありがとう」
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