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文字数 2,195文字

 終業のチャイムが鳴った。八木山はいつも一番の若手と組んで仕事をすることにしている。早速片付けに入り、そそくさと職場をあとにしようとする新人の船尾を、彼は呼び止めた。
「ちょっといいかい。さっきさ、せん断加工を全部おれに任せただろう。あれさ、これから、きみの手でやってみないか?」
「えっ、これからっすか……」
「もしかして先約でも」
「ええ、まぁ……」
「そうか。しかし、きみも早く仕事を覚えたいだろうと思ってね。今日くらい暇なときも珍しいからさ。会社内での用事かい?」
「ええ、まぁ。それに急に言われても」
「……そうか、わかった」
「すみません。では、相手を待たせちゃうんで」
 船尾が出ていくと、同僚たちが聞えよがしにあざけり出した。
「あいつさ、今夜、若手のやつらと飲み会やるんだとよ。そのうちおそらく、街に繰り出して、女を誘ってしけこもうってはらだぜ」
「ふ~ん、どおりで仕事も気がそぞろってわけだ」
「そりゃ別に、いつもこったろ」
「へっ、そりゃそうだ」
「むさくるしいおれたち相手と呑んだって、つまらんわけさ」
「おまえは酒呑むと、熱した鉄よろしく、真っ赤になって口うるさく語り出すからな。シャーリングやタレパンなんか、一般人が何の興味もない話題をな」
「アハハ、しかし、このままじゃあ、あいつもあと半年もてばいいほうだろうな」内輪で騒ぎ過ぎたと見て、そのうち一人が離れたところに立つ八木山を見て、気遣うように声をかけた。「今の時代、若いやつは腐るほどいますからね、主任」
 八木山は儚い笑みでそれに答えた。
 作業場に鍵をかけるのは彼の役目である。機材の電源を落として回っているとき、スラックスに作業用ブルゾン姿の穂波が現れた。開いたドア越しに八木山を見つけると、彼は競歩を思わせる身体を反り気味にした小走りで駆け寄ってきた。長年この仕事を勤め上げてきただけあって、老いの中にも胆力を感じる老人であった。年齢も役職も異なるこの人物とは会話を交わすことさえ珍しく、彼がこの場所にやって来ることも滅多にないことだった。
「アッ、おつかれさまです」その様子にただならぬものを感じた八木山は、相手が目の前に来ると同時に問いかけた。「どうかされました?」
 穂波は挨拶を交わすゆとりもなく、辺りに目を光らせながら口数少なく問いかけた。
「ここは今、きみだけかね?」
「ええ、鍵を閉める前の点検を――」
 最後まで聞かずに返事をさえぎると、穂波は一層身体を寄せてきた。追って、濃い白檀の香りが匂い立った。
「で、聞いたかね?」
 八木山は目をパチクリさせて聞き返した。
「いえ、何のことでしょう?」
「ふむ。知るはずがないか。さっき警察より報告があったばかりなのだからね。……実はね、八木山君……」しゃべりたげな様子から一転、穂波は口をもごつかせて言い淀んだ。「きみは彼とは同期だったわけだし、いずれ知ることになるのだから言うとね。……今朝、篠栗君が亡くなったそうだ――自殺したらしい」
 のちに振り返ってみても、八木山はそのとき、どういう対応をしたのか、まったく覚えていなかった。
 穂波の話だとこういうことであった。約一ヶ月前に自身の横領が発覚した会議のあと、篠栗は刑事罰を問わない諭旨解雇処分となり、その後、見捨てるように縁を切った不倫相手より脅迫を受け、不倫があからさまになり、裕福な嫁の実家が経営する会社に身を寄せる計画も破談となった。妻との離婚が成立すると、何十年とローンが残る新居の二階の書斎で自殺にいたったという。遺書には、誰も恨まず、短くも悔いのない人生を謳歌したことが記されてあった。のちに加わる情報として、離婚を契機に態度を豹変させた不倫相手が家を訪れ、再び彼に言い寄り、負債の一切をなげうって、一緒に新天地で暮らそうと持ちかけたが、蹴り出すように追い返したという。横領の額が大したものでないことは先に述べたとおりである。篠栗はつまずきから坂を転げ落ちるように転落し、勢い人生から飛び出してしまったのであった。
 穂波が激しく呼びかけることで、八木山は茫然自失から目覚めた。どうやら手に握らせようとしているのは、彼が落とした鍵束らしい。
「どうしたね、それほどまでに驚いて。ほれ、気をしっかり持ちなさい。そうか、きみはまだ若いんで、人の死というものに関わってこなかったんだな。さ、これを持って――。わしゃあ、きみに感謝しとるよ。あんなやからを、わが社から追い出してくれて。どうもわしは、あの小憎たらしい、あやつの笑みが最初から好きになれんかった。わしは長年、採用の面接官を務めておるが、あれほど高をくくった態度をとったのは彼が初めてじゃったな。そのときからわしは気づいておったよ、この男には裏があるってね。思い出したが、その次に現れたきみは、終始ガタガタ震えておったっけ。わしは変に好印象を抱いたものじゃったよ。同期とはいえ、きみもやつには、飲み会の席で、女子社員らを前にからかわれておったというではないか。まったくろくでもないやつじゃった」
 そのときマイクで、穂波を受付に呼ぶ旨の社内放送が流れた。
「ふむ、警察が来たらしい。とにかく、きみにこのことを伝えたくて飛んできた次第だ。それではの」
 その後も、八木山はずっとその場に立ち尽くしていた。『わしゃあ、きみに感謝しとるよ』――その言葉だけがいつまでも頭も中で響いていた。
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