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文字数 2,746文字

「今日来てもらったのはほかでもない。わが社で、とある問題が出来してね。いや、相すまぬ。定例でもないのに、職長たちを集めて何事かと思われているものもいるようだ。伝えるべきものには伝えてあるのだが、ともかくここからは、進行役を篠栗君に任せるとしたい」
 事務棟の二階にある会議室には、社長のほかに十名の主任役が席に着いていた。今朝九時、各部署に打診する形で伝えられ、正午前に招集された会議である。この場には『何用か?』と困惑しているものが、確かに半数ほどいた。遅く来るものほど、室内の張り詰めた空気に驚きを隠せないようだったが、その彼らが集められた理由を別の同輩たちから教わることができなかったのは、この会議室に誰よりも先に、社長が待ち構えていたからであった――その脇に総務の篠栗を付き従えて。会議室の厳粛な雰囲気に、椅子に座しても尻が据わらぬものもいるなか、定時きっかりに会議は始まり、今、上座にいる社長の右斜め前――長机の中央にいる男が、すっくと立ち上がった。
「社長は『問題』と控えめにおっしゃられましたが、出来との言葉が意味するように、これは事件なのです。会社の資金の使い込みが発覚しました。犯罪用語でいうところの、横領というやつです」
 反応は二種類あった。数は半々で、すでに承知のこととはいえ『犯罪』という言葉にビクリと肩をもたげるものと、寝耳に水でにわかに驚きの声をあげるものとである。
「ほ、本当ですか?」
 結果として、席に着くもののほとんどが発言者を置き去りにして、反射的に社長と(その前に座る)経理係とを交互に振り返った。それというのも、この会議の参加者の中で、篠栗が一番の若手だったからである。若手の出世頭である彼を妬むものも、実のところ、この中には多く存在した。口が上手くて社長に可愛がられているだけとの声がある一方、たとえば営業などで、彼と仕事を共にしたことがあるものは、彼の頭の回転の速さを認めないわけにはいかなかった。それまでは、陶犬瓦鶏と見限っていたのである。社長を含めみながみな、学業もそこそこに、幼少のみぎりより職工として額に汗して、今の役職にたどり着いた人たちだけに、自分たちの分野にもちらほら増え始めた大卒組の出世を恐れ、やっかむ意識というのも、振り返った心理の深層にはあったのだろう。しかしながら、経理は誰にも顔向けできずに下を向くばかりで、社長は全員の視線を促すべく、静かに篠栗へと視線を送った。
 再び聴衆の耳目を集めた上で、篠栗が二人になり変わり、投げかけられた質問に答えた。社長が経理を差し置いて、お門違いである総務の彼に発言を続けさせていることから、この場に居る全員が、彼が社長より特命を受けて任に当たっていることを察した。
「手の込んだ冗談――だったらいいのですが、本当です」幾人かのムッとしたような顔を見ると、篠栗は人懐こい笑みを浮かべた。彼は周囲の機嫌を損ねるのが得意なら、取り持つのもまた得意であった。「まぁまぁ、今むかっ腹を立てられた人は、少なくとも嫌疑のかからなかった人なのですからお許しを」
 機嫌を損ねたものの中で一番の年長者が、一座に視線を巡らせ、うつむく人間が半数いることに初めて気づき、ポカンとした顔で、篠栗を見返した。
「それはいったい、どういう……?」
 まだ状況を把握していない、右顧左眄のものたちに向けて、篠栗は説明を加えた。
「さきほど、社長は『伝えるべきものには伝えてある』と言われましたが、実はもう、調べるべき相手は調査済みなのです」
 まるで雷にでも打たれたように、老年の年長者は背筋を伸ばし、うわずった声でまくしたてた。
「調べてある? この中に、この工場の中に盗みを働いたものがいると! 犯人は、犯人は誰だ? いや、それより、本当に空き巣やらの可能性はないのか?」
 さながら刑事が容疑者を、いや無実の容疑者が刑事を糾弾するかのようであった。それを押しとどめるべく、社長が割って入った。
「穂波君、そう立て続けに質問しても、らちが明かないよ。ここは一通り、篠栗君に説明してもらおうじゃないか」
 いつもは社長を立ててやまない穂波が、このときばかりは動転のあまり言葉につかえ、返事することもできなかった。だからこそというわけでもないのだろうが、社長に向けてうやうやしく一礼した篠栗であった。
「ありがとうございます、社長。それでは説明に入らせていただきたいと思いますが、その前に一つだけ――」突如として口元を引き締め、顔つきを硬くした篠栗が一同を見渡した。思いがけず、苦渋を秘めた表情がそこにはあった。「冒頭わたしは、あえて『使い込み』『横領』という断定的な言葉を用いました。残念ではありますが、外部のものが会社の金を盗みとったという可能性は、ないものとお考えください。と言いますのも、まず第一に、この一帯は工場地区ということもあり、作業後の機材や金庫に関する管理や警備は、厳重になされているからであります。この周辺はどこもそうですが、特に生産規模の大きなわが社は、他と比べても堅牢です。第二に、奪われた現金が、少なくないにしても、それほど多額でもない点があり、第三に、それが一度に盗まれたのではなく、期間を空けて繰り返し盗まれているからであります。ところで、わが社は、よそ者に対しては強い警戒心を持つ一方、内部のものに対しては非常に甘く、これまで目を光らせるといった意識を持ち合わせていませんでした。大学で経営学を学んだわたしから言わせてもらえれば、これは起こるべくして起きたことのように思います。実のところ、われわれが常に警戒心を抱き、行動を監視せねばならないのは、内部の人間、すなわち身内だからです。会社がある一定の規模を越えた場合、誰に見とがめられても恥じることのない、ある意味他人行儀な、独立不羈の仕事ぶりこそ、何より必要とされるのです。わたしが今回、臨時に社長よりこの役目を仰せつかって、仕事に取りかかり、すぐに奇異に思われたのが、話を聞いた方どなたも自分がいつなんどき、どんな仕事をしていたか――どこにいたかさえ、定かには覚えておられないことです。これは仕事に不誠実とは言わないまでも、職務に対して緊張感のない証しと言わざるを得ません。話を聞いた人のうちで手帳を持って、その日の予定を書き込んでいたのは、先日作業棟の板金加工課主任に抜擢されたばかりの八木山君だけでした。そう、幹部のみなさんとは今日が初顔合わせで、いま机の端で顔を真っ赤にしている彼です。ちなみに彼はわたしと同期でもあります。どうも自己紹介もできていないようなので――。さて、話が横道に逸れましたが、仕切り直して『事件』のあらましをお話ししたいと思います」
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