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文字数 3,566文字

 以前勤めていた仕立ての工房が買収され、突然の解雇を言い渡されて困っていたとき、近所に住む知り合いのおばさんに『運動会の弁当作りを手伝ってくれない?』と頼まれ、いつしかそれ以降も勤めるようになって、飛び抜けて年下だった生子が、おのずと弁当屋の接客を担当するようになった。最初は嫌だった。接客業はこれまで携わったことのない畑違いの仕事で、女学校出身の彼女は、異性とほとんど接してこなかった人生が、いきなり数知れぬ男たちと応対せねばならなくなったのだ。最初は怖さが勝ったが――何しろ腹が減ったとき、人は怒りっぽくなるものだから――、次第に楽しいことにも気づくようになる。遅いと愚痴を垂れる人がいれば、その人をいさめるのも、同じ客だった。彼女は両方の客に頭を下げたが、なんだか嬉しくなった。お釣りを渡そうとして、手を握られたことは数知れず。でもその皮膚の厚い、岩石のような、黒く汚れた手が、不思議と彼女の拒否感を和らげてくれた。『わたしはおつりじゃありません』なんて冗談も言えるようになった。でも、やはり、中には怖い人間がいることはいた……。
 夜の部とシフト替えをする時間になり、退勤の挨拶をして、数人の仲間と店の裏口から出て、別れの挨拶をし、狭い勝手口のドアを支えていた彼女がドアを閉め戻したとき、生子の背中に近づくものがあった。
「こんばんは」
 ドアを閉めた刹那だっただけに、相手が女性と気づく前の一言目にドキリとして、生子はとっさに振り返った。
「! こ、こんばんは。お名前は確か、秀子さん、でしたよね?」
「ええ、そう。奇遇ね。ここを通りがかったら、あなたが出ていらしたんで、声をかけたの。お仕事終わり?」
「ええ、わたしは先に上がらせてもらえる時間になったものですから……それで、秀子さんは、その、八木山さんと晩ご飯の待ち合わせですか?」
「まさか!」秀子は落ち着いた驚き見せ、嫣然と一笑した。「なんで、あんな人と。どうせ今晩も、冷や飯を茶漬けにしてかきこむんじゃないかしら。それが、あの人の定番なの。消化によくないったらないわ。それで夜中に目を覚ますというのよ。料理が作れる恋人でもいればいいのですけど――ねぇ、生子さん?」
 生子はどぎまぎしながら質問の意味を聞き返した。
「エ、あの、何でしょう……」
「だからぁ、そういう、料理ができる人がいればいいと思わない?」
 生子は深読みし過ぎたのを恥じるように、慌てて返事をした。
「え、ええ、そうですね」
「それはそうと、家はお近く?」
「それほど近くはないのですけど、歩いて行ける距離です」
「じゃあ、暗くなったことですし、あなたの帰るほうに歩いて行きながら、話さない?」
「ありがとうございます。実はわたしも、秀子さんにお聞きしたいことがあったので……。あ、それよりも、わたしの家からはどう帰られるおつもりですか? お独りになりますけど。やっぱり、駅のほうに向かって、どこかでお話ししませんか?」
「お気遣いありがとう。わたしね、こっちに来てそれほど日も経ってなくて、歩いて回ってみたかったの。大丈夫よ、わたし、夜道嫌いじゃないし、もし何かあった場合は、絶叫を上げさせて、いえ、上げてみせるから」
「まぁ、秀子さん、お気持ちの強い方なんですね。それほど暗い道じゃありませんけど、特に明るい帰り道をお伝えしますね。秀子さんは、わたしと違って、美しくていらっしゃるから、気をつけられるに越したことはありませんから」
「あら、わたしはともかく、あなただっておきれいだわ」
「そ、そんなこと、言われたこともありません……」
「それは――嘘ね、生子さん。そりゃあ、まだ勝負できる見込みのある人は、あなたのことを『きれいだ』とは言わないでしょう。それはわが身をおとしめることだし、勝算を悪くする要因にもなるのだから。でも、あなたの店のお客さんは、そうじゃない人のほうがはるかに多いはずよ。挨拶代わりに、言われることもあるんじゃなくて?」
「たまには言われますけど、それは、お世辞と受け取っていますから」
「あいにく、ああいう無骨な人たちは、そういう――特に自分が客であるような――場面でお世辞は言わないものよ。その反面、そうじゃない女性に対しては、平気でむごいことも口にする人たちなんだから。素直といえば素直なんでしょうけど。そんな性差別的な発言が、いつか法で罰せられる日が来ることを願うわ。さ、この話はおしまい。歩きましょう」
「アッ、こっちです。……でも、驚きました。秀子さんって、頭もよくていらして、進歩的な思想をお持ちなのですね」
「わたしが進歩的?」彼女は声を上げて高らかに笑った。「オホホ、頼りない男をそばで見てきているからかしら」
 しばらく二人は無言で歩き、前から来る集団とすれ違ったあとで、生子が口を開いた。
「……本当は――」
 男どもの煩わしい視線を交わしていた秀子が聞き返した。
「え、何かしら?」
「本当は、八木山さんと付き合ってあられるんでしょう? わたし、あの方の視線を見ていたら、すぐにわかりました……」
「言ったでしょ。あの人とわたしは、どうあっても、そういう関係にはなれないのよ。そもそも全然、わたしの好みじゃないし」
「それは――嘘ですよね、秀子さん」
 今度は秀子がドキリとする番だった。
「な、なんでよ?」
 立ち止まる秀子を、前に出た生子が振り返って見つめた。
「嫌いなはずがありません。ちゃんと、兄を慕う妹のような目を、いえ、どちらかといえば、弟を大事に思う姉のような目をしていらっしゃいますもの」
「そ、そうかしら」そのときかすかな安堵をおぼえたのを、秀子は不思議に思った。それはきっと、無意識に、別のこと(知られたもの以上に隠すべき感情)をさとられたのではないかと危惧したからであろう。その感情は、彼女自身いまだ判然とせぬものであった。「じゃあ、そんなあなたはどうなの? わたしだって男女の機微に疎いわけじゃないのよ」
 生子は含羞の色を浮かべてうつむいた。
「……何のことでしょうか?」
 追いついた秀子に促されるようにして、二人は再び歩き出した。
「ふ~ん、わたしにしらばっくれるんだ。でも、いいわ。今日は、ご挨拶がてら寄せてもらっただけだから。ところで生子さんは、こんな時間まで働いてるのだから、お身体は健康で間違いないのよね?」
「はい、それだけが取り柄で」生子は自慢げにそう答えたあとで、あらためて秀子が健康を確認した意味に気づくと(加えてやはり偶然の再会ではなかったことも知り)、敬虔な目で秀子を見つめた。「でも、やっぱり秀子さんは、できたご親戚さんですわ。実際には、叔母さん? なんですよね」
「そう、その叔母さん。わたしの母が、え~と、あの人の祖父と結婚したの。で、ちなみに、最近何か、不安に思っていることない?」
 ちょうど考えていたことを見透かされたので、生子は肝を潰したようになった。それが、彼女が素直になりきれず、『しらばっくれた』理由でもあったのだ。
「エッ――。でも、そんなこと……」
「差し出がましいことを言ってごめんなさいね。でも、時折なにか不安事があるような、影のある顔をなさってるから。何度も後ろを振り返ってられるし」
「よく……お見通しですね……。実はその、誰にも相談できないことなんですけど、しつこく言い寄ってこられる、一人の男性がいまして……。今日も本当は、帰り道にこうして付き合ってもらえて、秀子さんにはすごく感謝しているんです。あ、でも、安心してください。今日はいないみたいですから。見つけたら、秀子さんとは別れなくちゃと思って、何度も確認していたんです。かえって、わたしなんかより美しい秀子さんに付きまとうようになっては大変ですから」
「なんて言い寄られたの?」
「ちゃんと交際をお断りしたんですけど、『結婚してくれなければ、死ぬ』と……」
「まさか、それで『愛されてる』なんて思わなかったでしょうね、生子さん」
「秀子さんお察しの通り、そんなことを、そんな言い方で言われたのは生まれて初めてのことだったのですけど、温もりや思いやりといったものが感じられなかったので、すぐにそうじゃないとわかりました」
「えらいわ。それに引っかかってしまう子も世の中にはいるのよ。で、それでも帰り道、たまにつけてくるのね」
「はい……」
「まったく。そういう、ろくでもない男って、女を見抜く目だけは長けてるんだから。そういう男ってね、生子さん、わたしには見向きもしないものなのよ。心があなたのように純真でないのを見抜けるから。それはそうと、ねぇ!」重苦しい雰囲気を一掃するような声で、秀子が呼びかけた。「わたしに一つ妙案があるんだけど。でもねぇ、あなたにもそれなりに頑張ってもらわなくちゃならないことなの」
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