7-2

文字数 2,592文字

 会社からの帰り道、最初の角を曲がったとき、向こう角に立っていた女性とぶつかりそうになり、八木山は慌ててお詫びした。
「すみません」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい」
 八木山には用もなく女性の顔を見定めるのはぶしつけであるとの認識があったので、軽く頭を下げ、相手の顔を見ずに通り過ぎた。と、三歩ばかり歩いた先で、彼は立ち止って、振り返った。耳に残った声色に聞き覚えがあったからだ。相手は、彼が振り向くのを待つように、その後ろ姿を真っ向から見つめていた。両手がこぶしとなって、腿に強く押し当てられていた。その女性と目が合い、彼は驚いた。
「アッ、浦田さんじゃないですか!」
 どう返事したものか悩ましそうに彼女も応じた。
「あ、はい、浦田です。こんばんは、八木山さん」
 彼は三歩の距離を二歩で戻って、彼女の目の前に立った。
「こんばんは。割烹着姿じゃないから、見間違うところだったよ」
「そ、そんなに見ないでください……」
 また彼の悪い癖が出たようである。
「あ、ごめん。長いスカートが似合ってるなと思って――。今日、何かあるの?」
「いえ、全然、何も」
「そうなんだ。じゃあ、お店からの帰りなんだね。きみもこの道を通るんだ。ぼくも定時に終わるときは、この時間よく通るんだが、気づかなかったよ」
「わたし、才田に部屋を借りてるんで、店からまっすぐの道ではないですけど、本屋とかスーパーとか、商店街に寄ったときは、こちらから帰るんです」
「そ、そうなんだ」返事に詰まったのは、彼女から自宅の場所を教えられたからだった。もっとも、才田は六丁目まであるのだが、彼はそういったことに敏感だったのである。「こんな時間に、そこまで歩いて帰るのは大変だね。冬ともなれば真っ暗だ。できるだけ、大通りを歩いたほうがいいよ。ちなみに、ぼくは牛隈に部屋を借りていて、大通り沿いをしばらく行って、ちょっと入ったところなんだ」
 開示し合う情報は自分のほうが多くあるべきと、意味もなく付け加えた最後の言葉に、彼女が飛び付いた。
「あの、でしたら、大通り沿いを一緒に歩いて帰りませんか?」
「エッ、ああ、うん、そうしよう。こんなぼくでもボディガードにはなるだろうからね、ははは」
 彼の笑い声は一人むなしく路上に響いた。

「わざわざ、家まで送っていただき、ありがとうございました。あそこにある女専用の共同住宅に住んでるんです」
「そうなんだね。じゃあ、ぼくはこれで」しかし、八木山は一歩も歩み出すことなく、再び話しかけた。「……あのさ、ぼくみたいなのが聞くべきことじゃないかもしれないけど、ずっと考え込んでいたよね。何度も振り返っていたし。何か悩み事でもあるんじゃないの? ぼくでどうにもならないことなら、そりゃもうまったく、追っ払ってもらってかまわないけど」
 当初は才田に入った段階で別れを告げる予定で、彼自身、まさかこうして彼女を家の前まで見送ることになろうとは思ってもみなかったのである。彼女の様子が彼にそうさせたのだった。
「追っ払うだなんて――。わたし、その、個人的なお付き合いのない八木山さんに、ご相談して、お心をわずらわせるわけには」
「何も気にする必要はないよ。どうせ、独り身なんだし」
 一応触れておくと、秀子に関しては、以前は夕飯どきに出てきて話しかけてくれることもあったが、今はめっきり夜中でなければ現れなくなってしまっていた。
「わたし、その、実は、変な人に付きまとわれていて。弁当を買いに来てくれるお客さんでもあるんですけど。一方的な好意を持たれていて」
 おっとりした彼の表情がにわかに引き締まった。
「そうなのか。きみの様子からすると、今日はいないんだね」
「はい」
「でも、それだったら、気に病むことなく、途中ででも言ってくれたらよかったのに。きみが悩む必要はない。そういうやからは、男同士、男がけじめをつけねばならないことだから。ぼく自身、きみに対して体裁が悪いくらいだ。ぼくから言いに行こう。きみの親類でもよそおってね。どこに勤めているやつだい?」
「違うんです。いいんです。そこまでなさらないで。ただ、その、八木山さんには、今日みたいに一緒に帰っていただけるとありがたいのですが」生子はそこから早口でまくしたてた、目は合わせられずとも、せめて可能な限り視線を上に向けて。「それで、もし、よろしければ、わたし、あの時間、あの場所で、待っていますので」
 突然の告白じみた発言に気圧され、片足を引き、思わず周囲を振り返った八木山であった。
「そ、そんなことなら、もちろん構わないよ。いや、喜んでと言うべきだな。仮に残業の場合でも、あそこなら仕事を抜け出して報告に行けるし、もっとも今しばらくは残業もないだろうけど。だけど、それくらいで諦めるかな? 『ちぇっ、親類と一緒に帰りやがるなら、いないときを待つか』というふうにならないかな」
「大丈夫だと思います。だって、八木山さんには、親類じゃなく、その、『親しい男友達』になってもらいますから」
「エッ……」一瞬思考が凍りついたが溶けるのも早かった。そして、頬を赤くする熱だけが彼の顔に残った。「ああ、そうか、そうだよね、そのほうが効果が狙えるからね」
「で、ですので、その際には、たまに馴れ馴れしい態度を取るかもしれませんが、どうか許してください」
「ははは、そりゃ願ったり叶ったりだ。でも、浦田さん、気をつけねばならないよ。ぼくだって、ひっきょうどんな男かわかったもんじゃないんだから」
「いえ、そんなことはありません! 八木山さんは、そんな人じゃありません」
「はは、そこまで信じてもらえるんじゃあ、親しい男友達の役に心も徹さなきゃな」
 短い前髪を気にして、かっこつけるまねをして見せる八木山に、まなじりを決した生子が、真っ正面から詰め寄った。
「わたし、そんな意味で言ったんじゃありません!」
 おどけていた八木山は、すっかり面食らってしまった。
「浦田さん?」
「あ、ごめんなさい。わたしから誤解されるような発言をしておいて、怒鳴りつけるなんて。八木山さんは、優しい、立派な方だって、言いたくて……じゃあ、失礼します。少し早いですけど、おやすみなさい」
「あ、うん、おやすみ」
 相手のほうから『おやすみなさい』などと言われたのは久方ぶりだった。彼は呆然と立ち尽くして、走って玄関に向かう生子を見送った。
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