5-3

文字数 3,632文字

「窓の形のまま月光が差し込んでいる。今日は雲もなく、観月にはうってつけ満月だね」
「……こんな日、あなたは寂しいと思ったことはないの?」
「以前は思ったこともあったかな。でも今はないよ。アッ、けどそれって、おひいさんの恋人面をしているわけじゃないから、安心して。おひいさんの気持ちはわかっているから……」
「ふん、あんたなんかにわたしの気持ちがわかるもんですか」
「あ、ごめんなさい」
「女なら誰でもいいのよね、そばに居れば」
「そ、そういうわけじゃないけどね」
「ふん、わたしに気を遣ったりなんかして。……あなたは、もっと自分に自信を持つべきよ」
「そうかもしれないね」
「ふ~ん、知ってるんだ。自分の見てくれがさほど悪くないことを。とはいえ、美男子や好青年とは言えないけど」
「そ、そうじゃないよ。『自信を持つべき』は、以前篠栗にも言われたことがあるだけ。それも初めて顔を合わせたときに一度だけ」
「女性が、怖いの?」
「『怖い』? はは、怖いのかな、やっぱり」
「……わたしね、アレが商売としてできなくなるなんて思いもしなかった。だって、アレは社会が成り立つ上で必要不可欠なものと思っていたから、一部の女とほぼすべての男にとって。でも、そうなると狂暴な男が増えるものとばかり考えていたけど、かえって女に怯える男ができるなんてね。わたしがあなたに伽することはできないけど――いいからちゃんと話を聞きなさい――この着物を脱いで見せることくらいだったらできるわ。わたしはそっぽを向いててあげる。女を、知りたいんでしょう? 恐れはね、知ることからなくなるものよ」
「おひいさん……ううん、違うよ。ぼくはそういう意味で女性を知りたいんじゃない。そりゃもちろん、そのことも知りたくないわけじゃあ……いや本当は、たまらなく知りたくはあるけど、そういう関係から始めたくないんだ。きみがそんなことをする必要はない。ぼくが望まないんだから」
 伊達に百年近くも永らえているわけではない。ましてや、何も知らぬ男が相手である。住む世界が違う二人は、どうあっても結ばれることはない。終わりを望む秀子は、始まりを望む八木山の返事を聞いて、本来傷みを感じない身体でありながら、胸の疼きを覚えるのだった。

「器用に、ご飯を食べるわね。その右手の薬指の先はどうしたの?」
「あ、気づかれちゃったね」
「最初から気づいてたわよ。で――」
「あ、うん、以前挟んでしまってね、ベンダーの機械に。あ、ベンダーというのは――」
「その説明はいずれ聞くとして、怪我をしたのは若いとき?」
「ううん、そうでもない。実は一昨年のことでね」
「なんで、あなたほどの人がそんなことになったの?」
「今日はやけに追及するんだね」
「あなたが何かを隠そうとしていることは、目線の逸らし方ひとつで、すぐにわかるからよ」
「……ぼくは逆側にいたんだ。ベンダー加工をしていた仲間の一人が、軍手を機械に挟んでしまって、ぼくはすぐさま『停止ボタンを押せ』と叫んだんだが、彼はわめくばかりで動転してしまっていた。仕方なく、逆から手を突っ込んで、軍手を引き剥がしたんだが、運悪く、いや、運が良かったというべきか、薬指の先のみ失うだけで済んだんだ」
「相手は?」
「ん……もぐもぐ……打ち身で済んだよ」
「あんたって、まったくもって、損な性格ね」
「そうは言うけど、これが役に立ったこともあったんだよ」
「へ~、どんな?」
 最後に漬物を食べ、箸を置いて、お茶をすすると、彼は興味のなさそうな相手に向かって一席ぶつように語り出した。八木山の口下手な説明と、秀子の恐ろしいまでの洞察力がもたらすたびたびの質問を考慮に入れ、以下客観的な説明を施す。
 半年ほど前のある日のこと、彼が昼食としてよく利用する弁当屋にて、労働者風の中年男が若い女店員に向かって、買って食べた弁当のことで因縁をふっかけていた。その前に一つ、彼は作業場で一番遅く昼食をとるようにしていたので、そのとき時刻は昼の一時半を過ぎたところだった。店には数人の客がいたものの、みな見て見ぬ振りを決め込んでいた――『だからぁ、から揚げの量がこの前より、断然少なかったんだって』『申し訳ありません。から揚げは毎回均等な大きさとはいかず、若干大きさが異なることがございますので』『そうは言ってもよ、断然小さかったんだぜ』『申し訳ございません。すべて手作業でおこなっておりますので、その時々よって、大きさが変わることがございまして』『ああ、どこにそんなこと書いてあんだ? どこにもそんな張り紙ねぇじゃねぇか。そういや、昼待ったときは、順番だっておかしかったぞ』『お弁当は、できやすい順にお渡しすることになっていますので、そういうこともあるかと思いますが……あの、よろしければ、お代を弁償させていただきたいのですが』『当然だろ、早く出せよ。あ、それとよぉ、今日食べたから揚げ、生っぽかったんだけどなぁ。それはどう責任取ってくれるわけ?』。
 ちょうどそこに、八木山が割って入ったのだった。
「から揚げ弁当をください」
「アッ、は、はいっ」
「にいちゃん、あんたも、少ないのがくるかもしれないから気をつけな」
 店員に対するのとは一変、八木山はぞんざいな態度で受けて立った。
「ここのから揚げ弁当が少なかったことなど一度もない。なにしろ弁当箱からはみ出てるのが売りだからな」
「な、なんだと、おれが嘘ついてるってのか、てめぇ」
「小さかったのに、生っぽかっただと、笑わせるじゃないか。お嬢さん、こいつに代金を弁償する必要はないですよ」
「てめぇ、どこのコウバのやつだ? ああん?」
「あんたの考えは読めている。昼時、弁当買うのに長く待たされたんで、一言いいたくなったんだろう。ここは人気店だしな。だが、そこに書かれてある、『当店は弁当を一から作りますので、少々お時間がかかります』って、張り紙が読めないのか? それに、あんたの会社じゃ、返品するものがなくても代金を弁償してくれるのか?」
「ざけんな、もう許せねぇ。てめぇ、表に出ろ!」
 八木山は意気軒昂と応じた。
「ああ、出よう。お店に迷惑はかけられないからな」
「や、お客さんっ」
 彼は右手のひらを突き出して、女店員を押しとどめた。
「いいんだ。ぼく個人の責任でやってることだから……ん、どうした、出ようじゃないか?」
「あ、あんた、その指は、どうなさったんで?」
 下ろした右手に釘付けになっている男の顔を見て、八木山は立ち所に相手が自分をヤクザの世界から足を洗った人間と勘違いしたのに気づいた。それもどうやら、小指ではなくいきなり薬指を落としたことからして、ヤクザでもただならぬことをやらかした人間と認めたようである。そこで、八木山はその誤解を利用し、かえって真実味を持たせるように平然と言い放った。
「ああ、以前、落とし前をつけるよう命じられてね。さぁ、やるんだろ。表に出ろよ」
 すっかり青ざめた中年男は大きく一歩飛び退くと、両手を背中に回し、その場で平身低頭した。
「い、いや、とんでもねぇ。申し訳ないことをしました。おねえさん、お金は結構です。では、あっしはこれで。いえ、おっしゃられるまでもなく、もうこちらには立ち寄りませんので」
 男はそそくさと店から出て行った。その後ろ姿が見えなくなったとき、二人――八木山と若い女店員――は顔を見合すと同時に、堪え切れず笑い合った。その場に居合わせた客たちは、その姿を凝然と見つめたものだった。それというのも、この若い女店員は彼の指のことを前もって知っていたからであった。八木山は普段、釣り銭が出ないように弁当代を用意して、店に行くよう心掛けているのだが、前に一度、そのことを忘れて、紙幣で勘定をし、釣りをもらうとき、うっかり右手を出してしまったことがあった。そのとき、彼女には指先を失ったいきさつを明かしていたのである。それからは、顔を合わせるたび、彼女とは挨拶を交わす間柄になっていた。
「ふ~ん、驚きだわ。ちなみに、あなたがわざとそう呼んだ『お嬢さん』の名前は知ってるのよね」
「うん、自己紹介されたから……」
 当然、相手の女性も以心伝心、彼の名前をあえて呼ばなかったことに気づいていた秀子である。
「その子、おいくつ?」
「き、聞いたことはないけど、おそらくおひいさんと同じくらいじゃないかな」
「で――、本当はあなた、あのとき何弁当が食べたかったわけ?」
「驚いたな。どうして、別のものが食べたかったって知ってるの。あ、質問したの、おひいさんだったね。から揚げ弁当もわりと食べるほうなんだけど、そのときは気分的に生姜焼き弁当だったんだ。もちろん、から揚げ弁当もおいしかったけどね。ひそかに玉子焼きが追加してあったっけ。それにしても、すごいな、おひいさん。あの子も気づいたけど、おひいさんが気づくことのほうがすごいや」
「その子もあなたが違うものを食べたかったことに気づいたんだ、ふ~ん」
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