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文字数 3,041文字

 『篠栗が死んだ……』その重たい印象を頭に抱えたまま、八木山はつんのめるような前がかりの歩行姿勢で家路についた。不思議とそういう状態にあっても、人は習慣にのっとって無意識に曲がるべき角を曲がり、必要な場合はきちんと交通機関の乗り換えまでもこなして、家にたどり着くものである。
 工場街にある会社へは、ほとんどの従業員が公共交通機関を利用しての(重役たちに限り自家用車での)通勤をおこなうなか、彼は珍しくも徒歩通勤だった。それができたのも、ほんの一月半前、会社から程近い居酒屋で同僚たちと呑んだ帰り――当時は駅に向かう道すがら――、真夜中に近い時間でありながら、とあるアパートの門柱を撤去している現場に出くわしたことがきっかけであった。工事を終えたらしい、白いヘルメットをかぶり表情が見えない痩せ細った老人と、大家らしきどてらを羽織った中年男が、通りの向かい側から開け放たれた玄関まわりを眺めながら、何やらしゃべっていた。その前を、酔いと疲れ――そのときは仕事の疲れ以上に飲み会の気疲れもあった――から足取り重く通りがかった八木山は、つられて建物を右手に見、聞くともなく左耳で会話を仄聞すると、つと足を止めて二人の会話に割り込んだのだった――『えっ、ここ、空き部屋があるんですか?』。小声で話し合っていた二人は、はたと会話を中断した。この場合の担当となる大家が、前に出て、うろんな目つきで彼をじろじろ眺め回した。声をかけた相手が幾分酔ってはいるが、目つきもしっかりしており、酩酊していないと見るや、大家はふんぞり返った背中を丸め、胸で組んだ腕をほどいて、臍下丹田の辺りで手を擦り合わせると、いきなり猫撫で声を発した――『はい、空いてございますよ。わたしが大家なんでして』。大家はへりくだった接客がモットーらしく、八木山のほうもその後は相手に促される形で、自然と上手な物言いで話しかけていた――『ふ~ん、だが、どうして門柱を撤去してるんだい? どうせ、このアパートも取り壊すつもりだから、工事しやすいように入口を広げてるんじゃないのかい?』『とんでもない! 明治時代より使い続けてある石積みの門柱がついに壊れかけたもので、住人が怪我をする前に、撤去した次第なんです。今でこそ古めかしいアパートが建っておりますが、ここは元はといえば、旧華族のお屋敷があった立派な敷地だったんですよ。それこそ瀟洒な門構えで数寄屋造りの立派なお屋敷だったのですが、ほらよくあるように、売り家と唐様で書く三代目でして。その最後の証跡だった石柱も今はあのような次第で。どうです、よくトラックの荷台をご覧になってください。もうボロボロでしょう?』『いや、ああなってはもう元の状態などわかりようがないですが、もちろんそういうことなんでしょう。ん、あれは紙幣? なぁんだ、おふだか。でも、どうしてこんなものが?』『はて? どこかのものが飛んできたんでしょうなぁ。あとで取り払っておきましょう』『はは、取り払う必要なんてあるものですか。車を走らせれば、自然と飛んで行きますよ』『ムッ、そうですな。おっしゃるとおりで……』。表情を険しくしたのは、話が横道に逸れたためだろうと受けとめ、八木山は核心をつく質問をした――『で、たとえばの話、このアパートに住むとなれば家賃はいかほどなんですか? 場所柄、結構するのでしょう?』。大家はニヤリと笑みを浮かべると、他聞をはばかるように、油染みた毛糸の帽子を八木山の顔に近づけた。彼がうなったのは、鼻ではなく、耳を疑ったからである。たちまち酔いから覚め、平静を取り戻したことで、言葉遣いも普段の調子に戻った――『ウソでしょう、ここが! 二駅離れて、計四十分は歩く、今住んでいるアパートと変わらない……』。彼は今一度、目の前に建つアパートを見上げた。確かに老朽化が目立つ、古色蒼然たる二階建ての棟割長屋であったが、決して住めないようなところではなかった。間取りだって、おそらく今より広めである。言葉を失う相手に、おもねるのを止めた大家が話しかけた――『もしかして、あなた、工場街に勤めていらっしゃる?』『ええ……』『だったらここは最高の立地でしょうなぁ』『ええ、そうですね。アッ、もしや、別料金で帳尻を合わせてるんじゃないでしょうね、水道代が高いとか?』『いいえ、他と一緒ですよ』『だったら、どうして? 場所的には極めていい物件じゃないですか?』『ちょうど住人が引っ越したところなんです。他の住人と家賃で格差をつけるわけにもいかんでしょう? 大変運がようございますよ』『ふ~ん、だがしかし、どうして出ていったんだろう?』。率直な疑問が八木山の口からこぼれると、大家はこれまでそんな癖などなかったのに、やたら唇を舐め回しながら答えた――『トイレは共同、風呂がないのが気に入らなかったようで……』『へぇ、もったいない。この辺りには、いくらでも銭湯があるのにね』『まったく。――で、どうなさいます?』『ああ、うん、じゃあ、お願いしようかな』『ありがとうございます。それでは、手付を打ちますので、あなたのお名前と勤め先を教えてください。今、紙をとってまいります』。前を留めていないどてらをたなびかせて駆け出す大家を、ふとわれに返ったように八木山が呼び止めた――『あ、そうだ。最後に一つだけ……

あるんじゃないだろうね?』。道路の真ん中で立ち止まった大家が、身体を正面に向けたまま肩越しに首だけを回して、ゆっくりと振り返った――『と、申されますと?』。抜け目なさそうな上目遣いを見せて、八木山は迫った――『ほら、たとえば、いわくがあるとかさぁ』『べ、別に、いわくなんて、そんな……』。突として、八木山がはやし立てるような笑い声を上げた――『アハハ、そんなに浮足立たなくても。冗談ですよ。そんなのぼくは気にしないし、あったって構わないんだがね。あぁ、でも本当によかった。ここからなら、歩いて出勤できるし、だとすると交通費だってかからない。忙しいときには仮眠を取りに帰れるし、本当にいい場所と巡り会えたものだ!』。
 こうして、早速次の日には布団だけを先に移して、今の住居に落ち着いたわけである。この一ヶ月半というもの、夜は長く眠れるし、大通りが近いだけあって、おいしい小料理屋も近所に数軒見つけ、心身ともに健康になったような、これまでにない充実した日々を送っていた。入社して以来、初めての引っ越しだったので、八木山にとって見るものがすべて真新しい新天地というのはすがすがしい限りで、心持ちも変化し、自己分析ではあるが性格まで変わったような気がした。仕事場が近いというのは現実的にも良いこと尽くめで、これまでと比べても何一つ不自由に思えることはなかった――が、最近になって一つ二つ奇妙に思えることが出始めた。一つは、たまたま住人が引っ越して空きが出たばかりとのことであったが、他に住んでいる人間がいると思えないくらい静かなこと。誰かが住んでいるような音はするが、足音が部屋に入ると、物音一つしなくなるのである。あとで知ったことだが、大家はこのアパートには住んでいなかった。二つ目は、近所の人が、彼がこの建物の玄関から出てくるたび、なぜか毎回驚くことである。彼の挨拶にも伏し目がちに頭を下げるだけで、いそいそとその場を立ち去るのだった。しかし、一人暮らしの彼は、そんなことをいちいち気には留めなかった。
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