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文字数 2,266文字

 事務棟内の会議室へ通ずる道――。
 八木山は階段を上がる男の腕を追い抜きざまに掴んで、その男を会議室とは逆の通路へと連れ込んだ。
「な、なんだ! おい、八木山、何をする?」
「篠栗」
「だから、なんだってんだ! いくら女に見向きされなくとも、おれはごめんこうむるぞ」
「どうして横領なんかした?」
「……ば、ばかやろぅ。何を言うんだよ、いきなり……」
 八木山は先週の飲み会で、篠栗が八木山に渡した紙幣が、自分が会社の金庫に入れたものであったことを明かした。
「……そうか、おまえに気づかれたのなら、致し方ない」
「会社の金を盗んで、飲み会に使うとは、どういう料簡だ?」
「別に何に使ってもよかったのさ。知れた額だ。妻へのプレゼントを買うには、どうせ足りない。おれはただ、この会社のくそみたいに甘い会計管理が我慢ならなかったのさ。盗んでくれと言わんばかりのな。もっとも言い逃れはしない。今から開かれる会議で、このことはおれから打ち明けよう」
「『妻へのプレゼントには足りない』だと? きみなら、意味もなくこんな危ない橋を渡らずに、一回こっきり数百万の金だって盗めたはずじゃないか。もっとも、その場合には、ぼくにもどうしようもなかったがね」八木山は作業着から銀行封筒を差し出した。「ここに、五十万ある。これで事足りるんだろう? 棚の下に落ちていたと言って、ごまかすんだな。ねずみが齧っていくのを見て、追って行ったら、巣の中で見つかったでもいい。もちろん返せよ、月払いでいいから」
「お、おまえ……なんで?」
「バカだな、おれたち同期だろ。それと、もう一つ。不倫はやめろ。奥さんがかわいそうだと思わないのか?」
「なんで、おまえがそのことを知る! あれは違う。いや、違わないんだが、おれから誘ったわけでは――」
「静かに! ほら、社長が寂しそうにきみを探して、廊下を見渡してたじゃないか。『もしや』と思って言ったまでだが、やはり本当だったとはな。いいか、不倫相手には、きみのための横領がばれて会社を首になり、義父の会社に就職することになったとでも言え」
「お、おまえ……八木山だよな?」
「何をバカなことを。さぁ、社長がお待ちだ、早く行かないか」
「……感謝に堪えない。このお礼はいつか必ずする」
「日本語が片言の女性はごめんこうむるがね」
「ああ、そういや、受付に新人のいい子がいてな。前回のバーベキューでは、おまえのことを――」
「いいんだ。いいんだよ、篠栗。そんなことしなくても、ぼくはぼくで見つけるから」
「お、おまえ……八木山だよな?」
「それももういいよ」

 午後一時半――。
「こんにちは、浦田さん。今日の日替わり弁当は――焼きサバか。じゃあ、それを!」
「こんにちは、八木山さん。よかったです、最後の一つなんですよ。今日はお昼にコロッケを揚げ過ぎたんで、お付けさせていただきますね」
「ありがとう。……あ、あのさ、浦田さん。これはいつもオマケしてもらっているお礼。美術館のチケットなんだ。二枚あるから、誰かと行くといいよ」
「じゃあ――」生子は林檎のように真っ赤になりながらうつむいた。「一緒に行っていただけませんか?」
「う、うん。おれでいいなら、喜んで」
 負けず劣らず、武骨なトマトさながら真っ赤になりながら彼も答えた。

 弁当屋の帰り道――。
 電気屋の店先にあるテレビでは次のようなことが報道されていた――『今朝早く、五ヶ月半前に起こした傷害致死の容疑で指名手配となり、逐電中の小竹幹也が緊急逮捕されました。早朝の警察への『本人がいる』との通報と、共同住宅内の目撃情報が一致したため、同容疑者が仕事に出る前に逮捕にいたったとのことです。なお警察は感謝状を贈りたいとして、最初に情報提供してくれた人物を探していますが、いまだ見つからず、名乗り出てくれるのを待っているとのことです』。八木山は立ち止まることなく、その前を素通りした。

 仕事終わりのチャイム――。
「それじゃあ、おつかれした」
「待ってくれ、船尾君。きみにはベンダー加工を教えておきたい。ちょうど今日は、打ってつけの廃材があるんでね」
「エッ、でも、今日おれ、用事があるんすけど」
「それほど時間は取らせない。かかっても一時間程度なんだが」
「だけど、先の約束なんで……」
「そうか。じゃあ、興味本位で聞くんじゃなく、上司として教えてほしいんだが、何の用だろう?」
「仕事、いえ会社仲間と交流を、いわば、その、呑む約束っすけど……」
「きみは確か寮住まいだったよな。仕事以上に大事な用があるとは思えないんだが」
「す、すみませんでした。断ってきます。電話、かけてきていいでしょうか?」
「一時間と言ったろう。『遅れる』と言えばいい。ベンダーの魅力でも語ってくるといいさ」
 電話へと行きかけるも立ち止まり、船尾がためらいがちに声をかけた。
「あ、あの、八木山主任、何かあったんでしょうか? 昨日と少し様子が違うようなので」
「そうかな? 別に何もありゃしないんだが。そうそう、今週末、みんなで呑みに行こう。先約、取ったからな」

 午前二時――。
 八木山はトイレで目を覚まし、大あくびをして部屋に戻ってきた。戸口に立ったとき、ふと風が流れるような冷気を感じ、布団のそばに立った彼は、閉じた押し入れを見、鍵のかかった窓を見、蛇口の閉まった台所を見、部屋を一周ぐるりと見渡した。当然、誰の姿もなく、彼は安堵ともため息ともつかぬ鼻息を漏らして、布団におさまった。寝入ると同時に、その口元から寝言がささやかれた。
「おやすみなさい――おひいさん」

(了)
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