5-1

文字数 3,418文字

「ただいま」

「ただいま帰りました」

「今日は早く片付いてね。ただいま」

「ああ疲れた。今日からこの時間が続きそうだよ。ただいま」
「……どういうつもり?」
「アッ、やっぱり部屋にいてくれたんだ!」
「あんたね、だれが幽霊相手に『ただいま』なんて挨拶するのよ。はぁ、これまでの男どもはみんな、恐る恐る帰って来たというのに」
「じゃあ、顔を見たんでもう一度、ただいま、おひいさん」
「『おひいさん』? 何よ、それ?」
「ぼくだけのきみの呼び名さ。ヒデコさんって、最近では日の出の日出子や英語の英の字の英子もあるけど、呼び方や時代背景からいって、ヒデコさんのヒデって優秀の秀の字を書くんでしょう? それで、『ひいでる』という訓読みと、お姫様のような顔立ちと、(小声で)その振る舞いも少し込めて、そう呼ぶことにしたんだ」
 しばし二の句が継げぬ秀子であった。
「……幽霊をして、ぞっとさせる素質があるわね、あんた。数えでも、あんたより七つは若いはずだけど?」
「確かにそうだけど、ほら、生まれ年でいえば、きっと曾祖母以上になるわけだから」
「まさか、あんた、そういう意味で『おひいさん』とつけたんじゃあ」
「い、いや、違うよ! 『ひいばあちゃん』なんて言葉は、いま気づいたくらいで、そんなつもりは全然なくて。あれ、もういない……ん、どうしてだろう? ちゃぶ台の上の昨日買った食パンが真っ黒だ……」

 真夜中――。
「どうして、おひいさんは幽霊になったの?」
「この顔を見て、涙を流すような人だから、教えてあげるわ。つまらない、ありふれた話よ。人じゃない、時代がなしたことなの。今じゃあ、考えられないことでしょうけど」
 彼女の話は次のようなものだった――彼女が生まれたとき、父親はすでに亡くなり、母親しかいなかった。もともと蒲柳の質だった母親は子を産んで以降とみに病身となり、彼女は幼き日より母の看病に明け暮れる毎日だった。ある日、店で買い物をしていると、客だった商家の主人に声をかけられ、色々質問された。次の日、その主人が家に来て、母と相談した結果、彼女は商家の旦那に引き取られることになった。齢十歳の頃である。母は病院の施設に入ることが約束され、秀子は商家で礼儀作法を教わった。だが、引き取られ養われたとはいえ、養女としてもらわれたのではなく、あくまで下女としての立場であった。有体にいえば、母の養生と引き換えに、売り渡されたようなものだった。秀子はそれでかまわなかった、母が少しでも楽になれるなら。母親は三年後に他界したが、秀子の旦那様への感謝の気持ちは変わらなかった。十代の後半になると、いつしか、ごく自然と、彼女は主人の妾になった。旦那様に手を握られたとき、彼女は拒まなかった。彼女は言った『だって、あの方には返しようのない恩を感じていたんですもの』。だが、それより三年ののち、主人は湯殿で奇声を発して、卒倒し、亡くなる。脳卒中だったという。彼女は引き抜かれるように別の屋敷に雇われることになった。今度は最初から囲われの身であった。大層立派な家に住んでいたが、彼女は年老いた主人が何をして生計を立てているか知らなかった。というのも、興奮や疲労が祟ったのだろう、すぐさま老人は床に伏せるようになったからである。彼女はまた別の屋敷に女中として引き取られた。それが、いま八木山が住む敷地にあった華族の屋敷であった。主人は外交官だった。契約時の口約束のもと、極めて用心深く密通はおこなわれたそうだ。二年が経ったある日、主人の妻が秀子の見合い話を持ち込んだとき、寝耳に水の主人がいきり立って拒んだのが、疑いを生む結果となった。この家の台所事情は実質、公家出身の妻あってものだったのだ。不義が露見し、別れられるのを恐れた主人は、秀子に睡眠薬を盛り、密通で利用した離れの茶室に連れて行き、火を放った。それがちょうど今の、八木山の部屋のあった場所だという。
「ね、つまらない話よ。ちょ、ちょっと、あんたなんで寝たまま涙流してるの」
「いや、ごめんなさい。こんな悲しい話はないと思って……」
「……世が世だっただけ。実際最後の外交官なんて異国の地でろくな死に方をしなかったけど、旦那様方に恨みはないわ」
「ぼくなら、ずっときみを大事にする」
「何よ、それ……馬鹿ね」
「ううん、本当だよ」
「……」

 秀子は八木山が呼びかけたからといって、毎夜出て来てくれるわけではなかった。特に前回の話があって以降は、応答なしが続いた。八木山も呼びかけるのは迷惑なのだと、その行為を自重した。ただし、八木山は常にこの部屋のどこかにいる、秀子の存在を意識していたものである。ある日の眠れぬ夜、彼は意を決して、彼女に呼びかけた。
「ねぇ、おひいさん。一体どうして、きみはこの世に残ってるんだろう? わかってほしいのは、感情論抜きで、虚心坦懐に知りたいことなんだ。それとも、こういう話はしちゃいけないのかな」
「この際、断っておくけど、わたしは何一つ束縛されていることなどないわ。霊界のことだって、全部話してもいいけど、死んだときの面白味に欠けるでしょうから言わないだけ。どうもわたしたちの親玉と言っていい人たちも、死んだあんたたちには毎回腰を抜かすくらい驚いてほしいようだから。周囲からすればわかりきったオチなのに、その人だけはマンネリしないんだから。ね、つまり、こんなことだって言えるわけ。あんたはどうやらわたしの立場をおもんぱかって、しゃべるのを控えているつもりかもしれないけど、わたしが返事をしないのは、わたしが返事をしたくないだけだから、今後はわたし本人にだけ気を遣いなさい。で、何だったかしら、ああ、そう、わたしが死んだとき、この前も言ったけど、誰も責めるつもりはなく、成仏を遂げるつもりだった。この世にはもっと不幸な人がいくらでもいるのを知っていたから。死後、どうやらわたしは、こっちで天国と呼ばれているところにたどり着いたらしいわ。そこでは地獄でいう閻魔帳と同じ、人生の来歴が記された帳面に沿って、菩薩様直々による面談で、最終的な行き場所が決定するらしいの。簡単な項目確認がおこなわれ、わたしの行き先も容易に決定したらしいところで、菩薩様が『あら』との声を上げられた――『なんでここ、空白なのかしら?』。そして硯箱から筆を取り出されて、わたしにこう尋ねられたの『ごめんなさいね、秀子さん、こんなことを聞いて。でも、確かめておかねばならないことだから。あなたの初恋はいつ?』。わたしはぶしつけにも首をひねって、聞き返したわ『初恋って?』。菩薩様は慌てたそぶりでこうおっしゃられた『そうよね、突然聞かれてもね。でも、思い出してほしいの。たとえば、最初のお屋敷で、板前さんに惚れた経験とか。ほら、ああいう人って、若い子にはなかなか格好よく見えるものじゃない?』。『それでしたら、最初の旦那様かと』と、わたしが言うと、菩薩様は断固として否定なされた『ううん、それは違う。それはそうは呼ばないの。なにしろ二十歳以上も年が離れているし、手引きしたのも……オホン、その前に恋した経験を思い出せない?』。そのときのわたしには、その『恋』の意味するところがさっぱりわからなかった。すると、菩薩様が助け舟を出してくだされたわ『わかった。じゃあ、わたしがちょっと調べてくるから。ここで待ってて。一分とかからないから』。帰って来られた菩薩様は、ひどく深刻な顔をなさっていたわ『驚いた。あなた、恋を知らないのね。これはいけない。人間を経験したことにはならないわ(悪いけどこの辺りは聞き流してね。わたしもよくわからないから)。秀子さん、あなたには申し訳ないけど、もう一度前世に戻ってもらわねばなりません』。で、わたしは地上に降ろされたわけ、しかもこんな姿で。時代を巻き戻して、再経験させるわけにはいかなかったの。同じ轍を踏まないとも限らないし、恐ろしくややこしい手続きがあるみたいだから」
「エッ、あ、それじゃあ、おひいさんは、初恋を知らないの?」
「ふん、じゃあ、あんたは知ってるというの?」
「あ、あるよ、小学生の頃だけど」
「で、どうなったの? ああ、わかった、ふられたのよね」
「ううん、ふられもしなかったよ。話しかけても目も合わせてもらえなかった」
「ふん、そんな子なんて、はなっから相手にされないほうがよかったのよ。ろくな娘にならないわ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み