東漢駒討伐会議

文字数 3,332文字

 蜂子皇子は、翌日、上宮屋敷の兵士に連れられ丹後国へと旅立った。縄こそ打たれていないが、それは(さなが)ら護送される囚人の体であった。
 厩戸皇子はそれを見ると、心が痛まずにはいられない。だが、彼を護るには、こうするしか他に手が無かった。一番安全な筈の倉梯宮の後宮ですら彼らは襲われたのだ。倭の地に安全な場所など、もうどこにもあろう筈はない。
 厩戸皇子は、一刻も早くこの騒動が収まり、蜂子皇子が戻って来られるようにと願う。だが、結局、これを最後に蜂子皇子は倭の地に戻ることはなかった。そして、彼が愛した錦代皇女や母小手子に会うことも、彼はもう、二度と無かったのである。

 その日の午後、厩戸皇子は蘇我の屋敷で開かれる会合にと呼び出された。馬子大臣が厩戸皇子なども含め、一族の者を招集し、東漢駒を討伐するかを謀ったのである。尚、今回、そこには厩戸の従者として、小者に扮した智仙娘もついて行った。
 蘇我氏からみれば、東漢氏は配下の様な位置付けの豪族である。東漢駒も蘇我の屋敷に幾度も出入りしていた漢であり、馬子大臣も幾度となく彼を目にし、彼と言葉を交わしたこともあった。だからこそ、河上娘と東漢駒はお互いを見知り、男女として意識し合う仲になったのである。だが、それ故に、馬子大臣は東漢駒を討たなければならなくなってしまった。しかし、そうは言っても多少なりとも目を掛けていた漢、彼も駒を簡単に殺したくなどはなかった。
 だが、泊瀬部天皇に馬鹿げた進言をし、恥を掻いてしまった馬子大臣は、東漢氏と刃を交えたくなくとも、もうこれ以上、天皇の機嫌を損じたくもなかった。そこで彼は、何か妙案はないかと一族の者を集めたのである。
 会議は、蘇我屋敷の奥の間で、一族の者を車座にして、自由に意見を交換をする形で行われた。しかし、趣旨は「大王の命に、如何に対処するか?」と云うものであった筈だが、馬子大臣の意図とは裏腹に、「如何に東漢駒を討つか?」と云うものに、何時しか会議の議題が置き換えられていた……。
「この屋敷に呼び出して、皆で囲んで殺してしまうのが手っ取り早いであろう」
「しかし、東漢駒は間諜の名人と聴く。その様な安易な策に、奴が堕ちるであろうか?」
 厩戸皇子も良く知らない蘇我一族の者たちが、大声で意見を言い合う。
「安易な策とは何事だ!」
「安易だから、安易と言うたのだ!」
 厩戸皇子も呆れていたが、それ以上に智仙娘は、馬鹿々々しくて早々に席を外したい気分であった。彼女が思うに、東漢駒はその様な誘き寄せには、決して乗らないであろうし、仮に乗ったとしても、この単純な面々が全員で襲い掛かっても、討ち取れるとは到底思えはしない。
 寧ろ、東漢氏と開戦することで、彼らの逆襲を恐れなくてはならないのは、蘇我一族の方だと智仙娘は考えている。
 その智仙娘に厩戸皇子は顔を近づけ、他に聞こえぬ様にと耳打ちをしてきた。
「それにしても、この様な時に、面倒な事が重なったものだ」
「ああ。偶然とは思い辛いな……」
「ま、まさか?」
「多分、そうだろうな」
「おい、では、誰がこの様なことを……」
「さあな……」
 実の処、智仙娘には誰がやったのかと云う目星は付いている。勿論、それは予想のレベルであり、厩戸皇子に話す段階にはない。それに、話した所で厩戸皇子は信じないであろうし、ここで彼に、素っ頓狂な声を上げられても困るのだ。
「細人、では其方(そなた)は先に帰れ」
「良いのか?」
「ああ、構わない。こんなものは、いるだけ無駄な会議だ」
 智仙娘は、この厩戸皇子の指示を、彼にしては大英断であると考えている。少なくとも、無駄な会議であると言えるだけでも、始めて会った時から比べれば格段の進歩だ。
 満足そうな笑みを口元に浮かべると、智仙娘は最初からそこには誰もいなかったかのように、音も立てず姿を消した。
 厩戸皇子は彼女にそう言った様に、智仙娘をここに連れて来たことを、全くの無駄であったと考えている。だが、実は智仙娘は、必ずしも全てが無駄であったとは思っていない。
 彼女には、今まで、どの展開、どの人間を当て嵌めても、この一連の騒動に辻褄の合う説明を付けられなかった。それは丁度、どうしても完成できない組木細工の様なものだったのである。
 それを完成させるには、何か別のパーツが必要であると、智仙娘はずっと考えていたのだ。それが今、この会議で新たな木片、即ち新しい人物の名前が挙がって来たのである。
 東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)……。
 彼に問えば、どうしてこのような騒動になったのか? 新羅の間諜とはどこの誰なのか? その答えも、きっと出てくるのではないのではないか……。
 智仙娘はそう考えたのである。

 その東漢駒であるが、彼は高句麗の使者との謁見を行っていた。
 使者の正体は、言わずとも知れた新羅の間諜、迦摩多である。
 彼は謁見の間でその使者と会い、使者の言葉を受けていた。周りには誰もいない様に見えるが、陰には幾人もの暗殺を得意とする間諜が潜んで、この使者の動向を確かめている。
「ふむ、では僧僧隆・雲聡が倭に帰化したいとの事であるのだな?」
「はい、就きましては、東漢氏より大王様に、その由をお伝え頂きたいと思って居ります」
 迦摩多は、ふんぞり返って座る東漢駒の正面で腰を低くして使者の役を務めた。だが、東漢駒はこの偽使者の正体を知っている。それだけに、「つまらない似非話などせずに、さっさと本題を話せ」と思わずにはいられない。だが、勿論、それを顔に出すことなどはない。
「ところで、これは噂話なのですが……」
「やっと始めたか……」
 と、東漢駒はこれも声には出さない。
「何やら、蘇我馬子大臣が身内の女性を奪われたとかで、その者に恨みを持って、兵を挙げる動きを見せて居るらしいそうですぞ。やれやれ、戦にならねば良いのですが……」
「ほう、これは実に恐ろしいのう」
「臆病者の私などであれば、馬子大臣に狙われていると知ったら、今すぐ高句麗に逃げ出してしまうでしょうね」
「私ならば、攻められる前に馬子大臣を逆に狙うであろうな」
 東漢駒は、相手の策に乗ってみた。
「ほう、でも蘇我は豪族にございますぞ、攻め込むのは、そう簡単ではありますまい」
否々(いやいや)、その様なことはせぬ。東国の使いを装い、調を奉ってくると偽るのだ。それで、馬子大臣が皇宮に現れた時に、大王のご前であると騙して武器を奪い、丸腰の馬子大臣を弑するのだ」
「成程、上手いことを考えましたな」
(いや)、戯言だ。忘れてくれ」
 東漢駒はそう言って、如何にも本音を言ったのを胡麻化したかの様に、迦摩多に笑い掛けた。
 勿論、東漢駒は、そうやって蘇我馬子を討とうなどとは微塵も考えていない。だが、そう云う情報を流しておけば、馬子大臣が檜隈に兵を差し向けることを、暫しの間は留めることが出来ると考えたのである。
 泊瀬部天皇が東漢駒を討とう云うのであれば、もっと以前に出来た筈である。それを豪族が馬子大臣しか残っていない今になってするのは、この詔の発せられた理由が、東漢駒の討伐よりも、馬子大臣一人で討伐に向かって欲しい。馬子大臣に返り討ちで死んで欲しい……と云うことだからに違いない。それが証拠に、新羅の間諜を使って、馬子が攻めてくることを、天皇自らがリークしているではないか。
 であれば、馬子暗殺を臭わせれば、戦よりも東漢駒に馬子を暗殺させた方が、馬子が死ぬ確立が高いと天皇は考えてくる筈である。そうであれば、それまでの間は、戦にならないように、天皇自らが馬子大臣に待ったを掛けるに違いない。
 勿論、仮に蘇我の軍が檜隈に攻め入ったとしても、迎撃できる自信はある。しかし、そうだと言っても、檜隈の者を誰も殺させないと云う訳には行かないし、泊瀬部天皇の筋書き通りに動くなど、実に許しがたいことだ。それに、馬子大臣は河上娘の父親、つまり彼の舅。その馬子を殺したら、妻の河上が悲しむのは目に見えているではないか。蘇我相手の戦など、しないに越したことはないのだ。

 東漢駒は、この後、新羅の間諜をそのまま黙って帰した。配下に彼の動きを監視させておくことも考えたのだが、気付かれでもして、それで相手に警戒されることを、東漢駒はより恐れたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み