泊瀬部皇子

文字数 3,276文字

 厩戸皇子は蘇我軍の陣中深く、流れ矢すら飛んで来ない場所で彼を待っていた。そして 約束通り、日暮れになるかならぬかの内に、迹首赤檮は厩戸皇子の元に現れている。
 ここまでは彼の思う儘に事は運んでいた。何も手筈は狂っていない。
 赤檮が忠実に約束を守ったのには理由があった。赤檮にとっても厩戸皇子との約束を守ることはとても重要なことだったのである。
 彼は守屋に矢を射かけたら、守屋からの反撃が来る前に逃げ出し、そのまま蘇我軍を離れ逐電する心算でいる。そのとき、それを誰かに咎められたら、「厩戸皇子に逃げろと命じられたのだ」と言い訳しようと思っていた。そう言えば、厩戸皇子に確認されたとしても、彼は矢を射た場所からの事と勘違いし、「確かに赤檮にそう命じた」と答えてくれるに違いない。赤檮はそう考えていたのだ。
 勿論、その様なことも厩戸皇子の想定に入っている。赤檮は形式だけ矢を射ると云うことで構わないのだ。彼がそう云うポーズさえ取ってくれれば、守屋の方は智仙娘が必ず撃ってくれる……。厩戸皇子は固くそう信じていた。
 赤檮は厩戸皇子に礼に適った挨拶など省略し、彼に最小の言葉を掛けた。
「皇子、良いですか?」
「ああ。最前線までの案内を頼む」
「黙って後についてきてください」
 こうして厩戸皇子は、赤檮の後方を歩くように、蘇我軍の陣内を通り前線の方へと向かっていった。
 蘇我軍営内では当然のことながら、地面に座って矢傷の手当てをする者、武具を整えて次の命令に備える者がいる。中には飯を食っている者や酒らしきものを飲んでいる者までいた。
「赤檮、彼らは何をしているのか?」
 厩戸皇子が指差した先には男同士が取っ組み合いをしていた。
「なに、飯の取り分か、金の貸し借りが原因で喧嘩でもしているのでしょう。気にすることなどありませんよ」
「そんなことで味方同士が傷付け合ってどうするのだ……」
「争いなんて全てその様なものですよ。私たちだって、少し前まで一緒に宴などをしていた同じ倭の兵と戦をしているではありませんか」
 赤檮は深い考えなど何も無く、ただ思ったことを口にしただけなのだが、聞いた厩戸皇子の方は返す言葉を失っていた。 
「この戦は何のためだろう。自分は何の為に戦っているのだろう?」
 厩戸皇子は考える。だが、今はそれを思うときではない。今は赤檮のあとを黙って歩いていくしかない。
 最前線にあと少し、歩いて開けた場所にさえ出れば、智仙娘が登っているであろう竹林が、薄明るい夕日を背に見えてくる筈だった。其処で彼女の合図を確認したら、赤檮に命じて矢を射て貰えばよい。後は仏のご加護を祈るばかりだ。厩戸皇子がそう思ったとき、彼を呼び止める声が後方から聞こえてきた。
「皇子、何を為されておられる?」
 その声は厩戸皇子の庇護者とも云うべきこの戦の主催者蘇我馬子宿禰。厩戸皇子が赤檮に連れられて、物部守屋の砦の方へと歩いて行くのを見掛けたのだろう。彼を追ってここまでやって来たのに違いない。
「馬子大臣……」
 厩戸皇子にとって、蘇我馬子は庇護者であると同時に仏法の師でもあった。彼に最初に仏法と云うものを教えたのは馬子であったのだ。後に高麗の僧慧慈に仏法を習うこととなるのだが、仏法の教えは先ず馬子の教えだったのである。

 ところで、この蘇我馬子であるが、彼は人が言う程の野心家ではなかった。
 彼は次期天皇候補の第一人者であった穴穂部皇子と宅部皇子を殺させ、今また倭朝廷内のライバル物部守屋を討伐しようとしている。だが、馬子は権力を我がものにしようとする野心など全くなく、ただ自分の立場を臆病なまでに守ろうとしていた男であった。
 馬子が討った穴穂部皇子は、甥の厩戸皇子から見ても真っ当な男とは思えなかった。
 彼は厩戸皇子のもう一人の庇護者、炊屋姫尊を無理矢理に乱暴しようとしたのだと云う。それも彼女の夫であった渟中倉太珠敷(敏達)天皇の殯宮(葬儀の為の仮の宮)で、炊屋姫尊が亡き夫の思い出に浸っているとき、強引に殯宮に入ろうとしたとのことで、それを兵士に許可しなかった三輪逆を逆恨みし、守屋に命じ子供二人ともども殺させている。
 次期天皇となる為に、穴穂部皇子が炊屋姫尊との肉体関係を望んだり、三輪逆を誅殺したとの噂だが、本当のところは厩戸皇子にも分からない。だが彼が発したという、「死んだ王に仕えるのであれば、生きている自分に仕えろ」と云う言葉は、先の天皇を明らかに蔑ろにするものであり、天皇となろうとの野心を明確に表明したものだと厩戸皇子は考えている。
 厩戸皇子が考えるに、この穴穂部皇子を次期天皇に推そうとする物部守屋こそ、明らかに権力を掌握しようとする野心家であり、穴穂部皇子が天皇となり守屋が最高権力者になった場合、これまで根付いてきた仏法の芽が廃仏派の守屋に全て毟り取られ、崇仏派の馬子を始めとする蘇我一族は一人残らず根絶やしにされてしまうに違いないと思われた。
 橘豊日(用明)天皇崩御直後、彼を天皇とさせない為、馬子が炊屋姫尊を奉じて穴穂部皇子討伐を命じた……。これが正しいことなのか、これも厩戸皇子に言い切ることは出来ない。だが、蘇我一族を護ると云うことだけを考えた場合、彼の判断は間違っていなかったと厩戸皇子は思っている。
 蘇我馬子とは、自己保身の心が強いだけで、仏法を篤く進行し、天皇家を盛り立てようとする、小柄で人の良い有能な家僕。それが厩戸皇子の馬子への人物評であった。

「このような場所に出られては危のうございます。さ、さ、この馬子と共に奥へと戻りましょうぞ」
 乳母が幼児を扱う様に、馬子は厩戸皇子に陣形の奥に戻ることを促した。
「ならぬぞ馬子。私は仏に祈願し、仏よりこの迹首赤檮と共に守屋を討つことを命じられたのだ」
「皇子は軍事に手を煩わす必要はございません」
 すると、それを聞いた守屋の影にいた男が口を挟んできた。
「蘇我馬子殿、それでは厩戸が討伐軍にいる意味など無いではないですか」
 声の主は泊瀬部皇子、前にも述べた通り、天国排開広庭天皇の子で穴穂部皇子の同母弟、炊屋姫尊の異母弟に当たる。尚、穴穂部皇子の同母弟だからと言って守屋派という訳でもない。そういう血縁だけを言ってしまえば、厩戸皇子の母である穴穂部皇女も穴穂部皇子の同母姉に当たっているのだが、厩戸皇子も守屋派ではなかった。
「泊瀬部皇子様、皇子様はお黙り下さい」
 こう言われては泊瀬部皇子も苦笑するしかない。馬子が厩戸皇子を実の子以上に猫可愛がりする様子には、彼ももう呆れるしかなかったのだ。
「しかし、馬子殿、厩戸は行くと言っておりますぞ」
「いいや、ならぬ、ならぬ。誰か、厩戸皇子を陣の奥まで連れて行って、誰ぞの家にでも閉じ込めておけ。そして、其処から一歩も出ぬ様に見張っておれ!」
 泊瀬部皇子は、何か喚いて抵抗する厩戸皇子が、馬子と二三人の兵に依って抱えられながら軍の奥へと連れていかれるのを薄ら笑いを浮かべながら見送った。
 彼は表情にこそ出さないが、実は厩戸皇子のことが好きではない。まだ子供の癖に、いかにも賢そうな言動が酷く鼻につく。顔立ちも自分より整っており、炊屋姫尊や他の皇女たちが厩戸皇子を妙に可愛がるのも腹立たしい。今も、「いっそのこと、最前線に出て流れ矢にでも当たってしまえ」と実の処は思っていた。
 だが、彼はその様な素振りを露骨に見せたりはしない。
 彼の兄、穴穂部皇子は未だ権力を得てもいないのに、横暴な言動を抑えることが出来なかった。彼は「自分は兄の様にはならぬ」と考えている。彼は権力を握るまでは、他の皇子や群臣から睨まれない様に、謙虚で野心を持たない男を演じることに徹しようと決めていた。特に今は大事な時期なのだ。次期天皇となる為には蘇我馬子の後押しが絶対に必要なのである。彼の機嫌を損ねてはならない。だから、彼のお大事の厩戸皇子を嫌っているなどと決して思われてはならないのだ。
 彼は自分の心の内を読まれない様に、例の薄ら笑いを浮かべながら、陣の奥の方へとゆっくりと歩いて行った。
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