和を以って尊しと為す

文字数 3,747文字

 日を置かず、東漢駒は倉梯の後宮へと赴き、大伴小手子に面会を求めている。細人の竹簡を見せ、判断を仰ぐ為であった。
 勿論、彼は小手子に判断など仰がず、このまま大伴細人との間諜勝負を続けることも出来た。だが、彼はその独断を差し控えた。間違って依頼主の小手子が殺され、これ迄の苦労が水泡に帰すことを、東漢駒は恐れたのである。
 謁見の間、小手子に拝謁するや否や、東漢駒は黙って竹簡を彼女に差し出し、侍女にそれを渡した。侍女の手からそれを受け取った小手子は、予想していたかのように一瞥し、興味無さ気に机の上へとそれをポイと放り投げた。そして、(おもむろ)に口を開く。
「ふむ、それで駒殿は、如何に為されるお心算か?」
「小手子様の仰せのままに……」
 小手子が望むのであれば、彼も細人との対決を継続するしかない。だが、もし彼女が細人を恐れ、厩戸皇子の暗殺を断念するのであれば、東漢駒もそれに逆らわず、小手子の意に従おうと決めていた。
 人に判断を委ねると云うのが、彼自身も不甲斐ないとは思う。だが、それも仕方あるまいと東漢駒は考えていた。大伴細人とは、彼にも正体を掴めない恐ろしい間諜なのだ。その上、彼の部下には、駒にも匹敵する程の、優秀な女間諜もいるのである。
 彼はそう信じていた。
 それは間違いなく東漢駒の勘違い、細人に関する過大評価である。彼が細人の部下と考えたのは、大伴細人、即ち智仙娘本人に他ならない。上宮屋敷の内情を探っている間諜がいると知った智仙娘は、怪しい猟師の訪れを見て、炊屋で働く下女に化けて、彼の動きを監視していたのである。
 小手子が東漢直駒を雇ったらしいと云うことは、智仙娘も噂で聞いていたし、大伴の一族である彼女は、当然、東漢駒の顔も知っていた。この為、猟師の正体が駒であることは智仙娘には直ぐに分かりもし、竹簡を作っておく時間も充分にあったのである。
「されば、此度のことで、細人も東漢駒殿の恐ろしさ、身を持って味わったことであろう……。駒殿には無駄働きをさせてしまい本当に申し訳ないのだが、厩戸暗殺は、これ迄と致そうではないか」
 それを聞いて、東漢駒は、深々と小手子に頭を下げた。
 彼にしてみれば口惜しいことも無いではないが、細人との命の遣り取りをせずに済むと云うことで、若干ほっとした気持ちもある。当然、不平を言う心算は微塵も無かった。
「約束の褒美であるが、妾の手で直接駒殿に渡す訳には参らぬ。駒殿の方で良きように計らって貰おうか」
 厩戸暗殺の褒美は、蘇我馬子の(むすめ)である河上娘の身柄。つまり、彼に「泊瀬部天皇に気付かれないように、黙って彼女を攫って行け」と云うことであった。
 この褒美は成功時の報酬であり、それに厩戸皇子暗殺を断念した今、河上娘が皇子を何人生もうが、小手子にはもう関係のないことで、彼女に河上娘を渡す理由など、最早微塵も無かったのである。だが、小手子は、河上娘と東漢駒に同情していたこともあり、彼に大盤振る舞いをしたのであった。
 こうして東漢駒は、この直後、彼と相愛の相手であった河上娘を人知れず後宮から攫って行き、彼が死ぬまでの間、彼の屋敷で二人は睦まじく暮らすことになる。こう言うと、いかにも彼には幸せな余生が待っていたかの様に聞こえるが、残念ながらそうではない。まぁ、それについては、恐らく後々語られることになるであろう……。

 こうして、暗殺計画断念の指示を得た東漢駒は、倉梯の後宮から退出して行った。この後、彼がどの様な行動を取ったか、小手子には関知する気など少しも在りはしない。

 彼が去って暫く経った後、小手子はふぅと、大きく溜息を吐いた。
「これで良かろう? 智仙よ」
 小手子は、先程東漢駒から竹簡を預かり、彼女にそれを手渡した侍女にそう声を掛けた。侍女はと云うと、それを聞いて、さも満足そうにニッコリと笑みを浮かべている。
 侍女の正体は智仙娘。特別、小手子にその存在を知らせてなどいなかったが、小手子も長年に渡る彼女との付き合いがある。智仙娘が侍女に化けていることなど、小手子は疾うに気付いていた。

 千年後、戦国の世ともなると、確かに忍者の変装は、もっと優れたものに進化していく。しかし、この当時の変装は、基本的には化粧と衣装を替えただけのものであり、知る人に会えば直ぐ分かるレベルのものであった。だが、智仙娘の変装は、戦国の忍者と同等か、それを越える水準にあったのである。
 元々、彼女は男と女のいずれにも見える風貌と体型をしており、極度の痩身であったが為に、身体に布を巻きつけるだけで、男でも女でも、痩せ型にも太った体にも、体型を自由に変化させることが出来た。
 また、大伴一族の者でありながら、幼い時から山野で暮らす生活をしていた為、高貴な者の振る舞いも、庶民の貧しい生活も、彼女は自分の目で見、その身体にしっかりと沁みつけることが出来たのである。
 智仙娘が感情を抑え、目を半眼にすると、それは身分の高い貴族の子息子女の顔であり、目を大きく開き、感情豊かに物事を語れば、それは庶民の百姓女であり、宮の市場で商いをする商人の親父であった。
 智仙娘が本気で変装した場合、それを熟知している小手子であれば兎も角、注意深い渡来人間諜の東漢駒であろうと、彼女を比較的良く知る厩戸皇子であろうと、彼女を特定することなどは不可能と言っても過言ではなかったのである。

「それにしても……、大王の後宮に忍び込み、妾を脅迫までするとは、本当に其方は困った奴じゃ」
「小手子様こそ……」
 侍女に化けた智仙娘は、そこで初めて口を開く。
「妾も命は惜しい。妾はこれで矛収めるが、厩戸皇子がこれ以上、大王のお気持ちを逆撫でするようであれば、大王自らが詔を発せられることになるぞ」
「お言葉、肝に銘じておきましょう」
 侍女の智仙娘はそう云うと、深々と頭を下げ小手子の部屋から退出する。それは「間違いなく退出する」と云う、彼女の無言の申告でもあった。
 退出したと見せて、後宮に(ひそ)む事くらい、智仙娘なら容易(たやす)く出来る故の申告である。その証拠に、部屋の外に出ると、智仙娘は直ぐさま行方を晦まし、倉梯宮の者が追い様のないようにと、消え行く朝霧の中、その姿を隠してしまったのであった。

 厩戸皇子暗殺の取りやめを勝ち取った智仙娘であったが、それでも、まだ、東漢駒の襲撃の警戒を解くことなど、(にわ)かに出来はしなかった。
 この為、彼女は自分の屋敷に戻ることをせず、相変わらず昼は上宮屋敷近くの森に(ひそ)み、夜は床下へと(もぐ)って、東漢駒の新たな刺客が放たれないことを、暫くの間、確かめている。
 そうして、三日経った後、もう大丈夫だろうと智仙娘も気を許し、陽が沈んだ後、漸く上宮屋敷の床下から厩戸皇子に声を掛けたのであった……。

「おい、厩戸」
「久しぶりだな、其方、どこに行って居ったのだ?」
「馬鹿者、命を狙われていたお前をずっと護って居ったのだ!」
 そう言って思いっきり文句を言いたい処ではあったが、あまりに危機感のない彼の返事を聞くと、智仙娘は怒るよりも前に笑いが思わず出てしまう。確かにそれが、厩戸皇子の厩戸皇子たる所以(ゆえん)なのであろう。
 豪族の子息の姿に身を変えた智仙娘は、床板を跳ね上げて厩戸皇子の部屋へと入っていった。
「おい、白い飯はあるのだろうな?」
「ずっと来ないものだから、折角の白い飯が随分と無駄になったぞ」
「棄てたのか?」
 智仙娘は、残念そうに声を上げる。
「そんなことはせぬ。私が食べた」
 それを聞いた智仙娘は、笑みを浮かべながら、冷めた白い飯を厩戸皇子から受け取った。そう言えば、随分と長い間、彼女は白飯を食べていない。
 智仙娘は手掴みで飯を口に含んだ。
 白い飯は、口に含んで噛めば噛むほど甘味が増してくる。その甘さは、これ迄の智仙娘の疲れを一気に取り去っていくものであった。
 だが、その彼女の表情が、一瞬で固く強張る。
「おい、これは何だ!」
 智仙娘は床に散らばっていた竹簡を見つけ、思わず声を荒らげた。それには前に見た憲法の草案が書かれている。
「憲法の草案だ。それがどうした?」
「お前、まだそんなことしていたのか」
「聞いてくれ、細人」
 智仙娘は不機嫌な表情を崩さずに、ぶっきらぼうに返事をする。
「何をだ」
「他人を騙して何かを得ようとしたり、他人を殺して自分の意見を通そうとしているような者は、仏法の有難さが分かろう筈はない。だから大王が、幾ら仏法を普及させようとしても、皆がそれを聞こうとしなければ、結局どうにもなりはしないのだ。そこで私は思った。『篤く三宝を敬え』の前に、倭の民には守らねばならぬことがあると」
「なんだ、それは?」
 智仙娘はなんだかんだ言って、厩戸皇子のペースに乗せられてしまっている。
「和を以って尊しと為す。人と人が争っているようでは、仏法を聞く素地など何時まで経っても出来はしない。倭の民は先ず憎み合うこと、争うことを止めねばならぬ。そうして始めて、仏法国として倭は船出が出来ると云うものだ」
 智仙娘は呆れて溜息を吐いた。
 厩戸皇子とはそう云う奴だ。言っても仕方ないだろう。そう考えると、怒るのも馬鹿々々しいと智仙娘は思う。
 彼女に今できることは、手に持った飯を口一杯に頬張るだけであった。
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