憲法草案

文字数 2,406文字

「おい、入って良いか?」
「おお、入ってこい!」
 厩戸皇子の許しを聞き、智仙娘が彼の部屋に入ってみると、厩戸皇子は文机の前で、何やら書き物を行っている。智仙娘は訝り、厩戸皇子に何をしているのかを尋ねた。
「何だ? またお前、天皇に難題を言いつかったのか?」
 厩戸皇子は、振り返って智仙娘を見ると、機嫌良さ気に笑顔で応える。
(いや)、そうではない。ま、飯を出すので待っていろ!」
 彼はそう言って、残しておいた米の飯の椀を智仙娘に手渡した。彼女もそれを受け取ると、手掴みでがつがつと食い始める。厩戸皇子はそれを見ながら、満足そうに微笑み、智仙娘が食べ終わらぬうちから話を始めた。
「大唐の国には、法と云う物があると私は聞いた。細人よ、私はこの国にも憲法と云うものを作ろうと思うのだ。この国は、まだまだ諸外国と比べ礼節の面で劣っておる。そこで私はこの国が諸外国に負けぬよう、憲法と云う規範を作り、役人と民を導こうと考えておるのだ」
 智仙娘は厩戸皇子が何を言っているのか理解できず、食べる手を止め目を丸くした。それを見た厩戸皇子は、彼の書いていた憲法の草案を手に取り、智仙娘に分かるよう、それを読みだしたのである。
「一に曰く。篤く三宝を敬え。
 二に曰く。詔を承けたら必ず謹んで承けよ。
 三に曰く。群卿百寮は礼を以って根本と為せ。
 四に曰く。贅を絶ち欲を棄て、訴訟を明らかにせよ。
 五に曰く。群卿百寮は早く出仕し、遅く退出せよ……。
 どうだ? 良いであろう?」
 厩戸皇子がそれを読むのを聞き、智仙娘は彼の文机まで行き、その竹簡を奪い取って読み直した。それには今の様なものが幾つも書かれており、その説明書きも添えられている。
 智仙娘は一通り目を通すと、また飯に戻り、(おもむろ)に飯の残りを食べ出した。
 厩戸皇子の目には、この憲法が彼女の意に添うものでは無かったように見えた。そこで彼は、智仙娘の食事が終わるのを待って、その感想を彼女に尋ねることにしたのである。
「どうした? 面白いとは思わぬか?」
「お前は馬鹿か? 国の法ともなれば、外国にも伝わるのだぞ。こんなものを発表しようものなら、百済、新羅は元より、その先の国々にまで倭国の恥を晒すことになる」
「そうかなぁ? 三宝を敬えと言って、倭は先ず仏法国であることを示すのだ」
「まぁそれが一番目と云うのがお前らしいが……。他が悪い。必ず謹んで受けよとか、礼を以って根本とせよとか、訴訟を公明にせよとか、倭では、法にしなければ、それが守られないと云うことではないか! 新羅の者がこれを見たら、倭国のことを嘲笑うぞ」
「しかし、実際、倭国では何も守られていないではないか。役人は賄賂を取って不正を働き、礼を失し、殆ど仕事もしないで帰っていく。これが伝わることが恥ずかしい事では無い。これが行われていることこそ恥ずべきことなのだ」
「分かった、分かった……。だが、これを人に見せるのは止めておけ」
「どうしてだ? 明日にでも私は馬子大臣を介し、大王に奏上しようかと思っておったのに……。大王もこれならば、少しは私のことを見直してくださるかも知れぬではないか」
「お前は何も分かっておらんな。この様な法を定めるのは天皇の仕事だ。倭と云う国の方針を決めるものだからな。皇子のお前が奏上するのは、出しゃばりというものだ。どうしても法を定めたいのであれば、お前が天皇にでもなってからにするのだな。それであれば、誰も文句を言いはすまい」
 智仙娘は思う。
「そうなのだ、この様なものを奏上したら、天皇はいよいよお前に嫉妬し、本気で厩戸討伐の詔を出すやも知れぬのだ。そうなると、お前の命は公然と狙われ、それを逃れたとしても戦だ。戦になれば馬子大臣はお前につくかも知れないが、多くの豪族は天皇方につく。お前に助かる術などない」
「仕方ないな。お前がそう言うなら、私もそれに従おう」
 彼は残念そうにそう言った。しかし、厩戸皇子は、それを余り不快とは感じていなかった。結局、彼が憲法を読ませたかったのは、役人でもなく、民でもなく、ただ智仙娘であったのであろう。彼が何を考え、何をこの国に望んでいるかを、ただ彼女に知って貰いたかったのだ。そして、「公開するな」と智仙娘は言ったが、決して彼の考えを「必要ない」とか「無理だ」とか言って否定した訳ではない。今の厩戸皇子には、それで充分満足だったのである。
 それに、厩戸皇子は思う。
「大王に、この憲法を奏上したとしても、大王は何かしらの言葉尻を捕らえて、否定してくるに違いない。そして、発表するにしても、何かにつけて変更を加えてしまうやも知れない。それが異曲同工であれば良いが、表現が同じでも、趣旨が自分の意図したものと全く異なるものに変えられるようであれば、寧ろ奏上などはせぬ方が良いだろう」
 こうして、厩戸皇子は、憲法の奏上を諦めたのであった。

 厩戸皇子が、そのようなことを考えていた時である。部屋の外から厩戸皇子の家人がやってきて、彼への来訪者があったことを伝えに来た。
「皇子様、屋敷の外に、若き娘の物乞いが現れ、厩戸皇子様の御尊顔を拝したいと申しております」
「分かった……。門まで私が出よう」
 厩戸皇子はそれに快く応えた。だが、智仙娘はそれを強く叱責したのである。
「馬鹿者め! 何故、軽々しく人に会おうとするのだ!」
「仏の教えを求めて来たのだ。百姓であろうと物乞いであろうと、私は教えを説こうと思う」
「お前は本当に……」
 智仙娘が文句を言い切る前に、厩戸皇子は立ち上がり、部屋から出て行こうとする。これには智仙娘も向かっ腹が立って、思いっきりぶん殴ってやろうかと思った。だが、正直それだけでは、とてもではないが、彼女の腹の虫は治まりそうもなかったのだ。
「厩戸も、少し位は怖い目を見た方が良いのだ!」
 智仙娘はそう思い直し、厩戸皇子が門へと出ていくのを、黙って見送ることにしたのである。
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