二人目の刺客

文字数 2,926文字

 厩戸皇子は、夕闇に包まれつつある屋敷の門まで出て行き、そこで待っていた物乞いの女の方へと近付いて行った。すると突然、その女は隠し持っていた剣を抜き放ち、その剣を右の肩に担いで彼の方に走り寄り、厩戸皇子を斬り倒さんと襲い掛かってきたのである。
 これには、厩戸皇子も腰を抜かして尻餅を搗いた。そして、女は充分に厩戸皇子に近づくと、彼の身体を真っ二つにせんと、持っていた剣を大きく大上段に振りかぶる……。
 だが、彼女は剣を振り下ろすことは出来なかった。女間諜は剣を頭上に構えたまま、ピタリと動きを止めたのである。

 この刺客も、檜隈に住む渡来人で、嶋女と云う名の娘であった。東漢駒の手下であることは間違いないが、彼女も通常は職人の女として、日々の糧を得ている者であり、熟練の間諜と呼ぶには、余りにも拙い腕の持ち主だったのである。

 嶋女は、何が起こったのか訳も分からず、その場で刀を振り下ろさんと、必死に藻掻き続ける。しかし、何故か身体を自由に動かすことが出来なかった。
 実は、数歩後ろに下がることで、刀を振り下ろすことも、自由に身体を動かすことも彼女は出来るのである。だが、熟練していない彼女は、只管前に動こうとするばかりで、蜘蛛の糸に自ら身を絡げてしまう羽虫のように、この術に見事に(はま)ってしまったのであった。
 勿論、その術を施したのは智仙娘である。彼女は、嶋女にも厩戸皇子にも気付かれないよう、女間諜の背後に回り、天蚕糸(てぐす)の結ばれた釣り針を、幾つも嶋女の袖へと投げ掛けていたのだ。そして夜の闇に紛れ、その糸を引っ張って敵刺客の動きを封じていたのである。
 厩戸皇子は、智仙娘が釣り糸を使って人形を自在に操る技を持っているのを、以前何かの折りに見せて貰ったことがある。そして、丁未の乱の終り、捕鳥部萬の犬が不可思議な行動を見せたのは、釣り糸を使った彼女の術だと云うことも彼は知っていた。
 だが、こうして、それを目の当たりにしてみると、女乞食を装った妖怪か山姥が、彼を襲おうとしたのであるが、その寸前に、仏の加護により創られた聖なる壁に依って遮られた……と、その様にしか、厩戸皇子には見えなかったのである。
 しかし、少なくとも、それが慈悲深い仏の技に依るものであろう筈はなかった。何故なら、仏であれば、この様な真似など絶対にしよう筈はなかったからである。

 智仙娘は、嶋女が自由にならない様に、天蚕糸の張りに気を遣いながら、一気に糸を巻き取って敵との距離を詰めていった。そして、そのまま体当たりする様に、彼女の背中に刃を突き立て、痛みに身体を(よじ)って後ろへと振り返った嶋女の腹に、今度は止めとばかりに深々と小刀を貫き通したのである。
 女間諜は、独楽を廻すように体を捩りながら、血飛沫を撒き散らしてその場に崩れていった。すると、腰を抜かして座り込んでしまっていた厩戸皇子の頭上には、文字通り血の雨が滝の様に降り注がれていったのである。彼は恐怖の余り、言葉どころか、直ぐには悲鳴を上げることすら出来はしなかった。
 そんな厩戸皇子に、智仙娘は哀れむ様な視線をひとつ投げかけ、何も言わず、静かにその場を立ち去って行ったのであった。

 この後、情けない悲鳴を聞きつけた家人が、何事が起こったのかと外に飛び出して来たのであるが、見ると、腰を抜かし尻餅を搗いたまま、全く立ち上がれない厩戸皇子と、物乞い風の女が刀を手にし、その眼前に(うつぶ)せに倒れている云う、実に奇妙な光景が彼らの眼に映し出されていたのであった。
「皇子様、いかがなされました?」
 数名の家人がそう言って、一斉に厩戸皇子の元へと駆け寄ってきた。
「私にもはっきりとは分からない。恐らく、大伴細人に助けられたのだと思う」
 厩戸皇子は茫然の呈で、何とか家人にそう状況を伝える。すると、厩戸皇子に駆け寄ったのとは別の家人が、刀を持った物乞い女の方を調べ、大声を上げた。
「おい。この女、死んでいるぞ。背中と臍の上に刀で突かれた傷がある!」
 厩戸皇子はその理由を告げる。
「その者が、突然、私に襲い掛かってきたのだ……」
 そうは言われても、上宮の家人には何がどうなっているか、未だ理解が出来てこない。
「兎に角、皇子をこのままにする訳にもいかんだろう」
 彼らは口々にそう言い合い、お互いの顔を見合わせるだけで、彼らにしても、それ以上は何も言えはしなかった。
「皇子様、取りあえず、お屋敷の中へと戻りましょう」
 二人の家人はそう言うと、厩戸皇子に肩を貸して助け起こし、そのまま厩戸皇子の身体を両脇で支え、彼を屋敷へと担ぎ込んで行ったのである。
 結局、上宮の家人は、この事件の現場を目にしたにも関わらず、主人が命を狙われているなど、どうにも納得できず、通りすがりの物取りに襲われたものと思い込んだ。それは、厩戸皇子自身も大して変わりはない。女は自分と知らず、困窮の果てに手近な者を襲ったのだろう……、この程度にしか、彼も考えてはいなかったのである。
 そんな中、智仙娘だけは、夜間も警戒を怠らぬ様にと、上宮屋敷の厩戸の部屋の床下へと戻り、静かに息を潜めていたのであった。

 一方、東漢駒(やまとのあやのこま)の放った三人目の刺客はと云うと、厩戸暗殺を一旦諦めて、状況を報告する為、主の元に戻ろうとしていた。二人も仲間を倒されたことにより、彼もこの仕事を安易に続行すると云う訳には行かなくなっていたのだ。
 その彼が東漢の館に現れたのは、その日の深夜のことである。

 闇の中、東漢駒はその刺客の訪れを、僅かな気配で察した。
「どうしたのだ?」
「巧と嶋女が敵の護衛に討たれました」
 刺客の男は闇の中からは出て来ず、陰に潜んだまま駒に状況を伝える。
「そうか、上宮の屋敷には、兵が隠されて居ったのだな……」
(いいえ)、我らの如き間諜(うかみ)が潜んで居るようにございます」
 駒は思わず目を細め、眉を顰めた。
「小手子の手の者か? だが、小手子の手先で我らに対抗できる間諜が居るとも考えられぬ。されば、百済からの新たな渡来人であろうか……」
 当時の倭の間諜は、変装して敵地に潜入し、敵軍の位置情報の報告をすると云う、極めて簡単な情報提供の役目しか担っておらず、暗殺は彼らの役目には入っていなかった。暗殺は、大将クラスの武人が担うのが普通で、相手が一人になった所や屋敷を出て護衛の手薄な時に、正面から剣を用いて襲うと云う、実に単純なものであったのだ。
 その理由の一つに、当時、鉄の武器はまだまだ高価なものであり、有力豪族の武人でないと、暗殺専用の武器など持つことが出来なかったと云うことがある。
 だが、それ以前に、倭では人知れず暗殺を画策する必要など何処にも在りはしなかったのだ。もし、政敵を打ち倒したいと思ったら、公然と兵を挙げ、相手の屋敷を攻め立てる……。倭はまだ、そんな時代だったのである。 
 それは兎も角、三人目の刺客は、強敵の出現に困惑の色を隠せないようであった。 
「相手方に間諜が居るとなると、無闇に厩戸の命を狙う訳には参りませぬが……」
「うむ。とりあえず、ここは(われ)が小手子に会って、奴が何を企んで居るのかを確かめてからにすることとしよう」
 東漢駒は、厩戸皇子の暗殺を一時中止とすることを決めた。
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