迹首赤檮

文字数 3,665文字

 厩戸皇子の方は、馬子の兵士に追い立てられ、近郊に住む中位の役人宅に押し込まれた。部屋は四面が解放されたような簡素な造りで、もう小屋と言っても過言ではない。屋外との境は屏風の様な衝立で区切られているだけで、基本的には屋外にいるのと大きな違いはなかった。だが幾人もの兵士が部屋を取り囲んでおり、彼らが人間の壁となって厩戸皇子が自由に行動することを妨げているのだ。
 向うの衝立の方から、馬子の「絶対、外になど出すでは無いぞ」と言う声が聞こえている。
 別に屋敷に閉じ込められることなどは厩戸皇子にとって珍しくもないので、特に酷い仕打ちをされたと云う感想は無かった。だが、今宵に限っては馬子の無体な行為に彼も腹が立っている。
「この儘では細人との約束が果たせないではないか」
 そう思って厩戸皇子は思わず苦笑する。智仙娘との約束が果たせないのが問題ではなくて、このままでは蘇我軍が破れてしまうと云うことが問題なのだ。
「いずれにしても、早々にここから抜け出さないと……」
 眺めればもう陽は落ちてしまい、空は既に暗く一番星が大きく輝いている。日暮れから大分時が経っているに違いなかった。これ以上暗くなると、智仙娘から守屋の位置が見えにくくなる。それ以上に警戒しなければいけないことは、守屋自身が寝所に引き籠ってしまうことだった。そうなってしまっては、智仙娘がどう頑張っても守屋を射ることなど出来る筈がない。
「物部氏は大伴氏の仇だ。細人が赤檮などを待たずに、自分で判断して守屋を射てくれないだろうか……」
 残念ながら、それは期待出来ない。
 その様なことをすれば、守屋を討つことが出来たとしても、彼女は復讐に燃える守屋の子や側近の部下に嬲り殺しにされてしまう。智仙娘が慌ててその様な馬鹿げた判断をすることはまずあり得ない。
 可能性が高いのは、彼女が射殺を諦めて竹の上から降りてしまう事だ。彼女自身、「不可能と判断したら逃げる」と言っていたのだ。見つかったら何をされるか分からない竹の梢で、いつまでも待っているほど彼女が愚かであろう筈がない。少なくとも闇が深くなり、守屋の位置を把握できなくなったら諦めるだろうし、守屋が寝所に戻ってしまったならば、如何に彼女であっても諦める以外に方法などありはしない。
 厩戸皇子は、警護に当たっている兵士に説得を試みた。
「私を自由にしてくれ。私は仏と約束をしたのだ。その約束を守らねば、四天王の怒りを買い、我が軍は守屋に勝つことなど出来ないのだ。頼む。私をここから自由にしてくれ」
「馬子様のご命令です。その様なことを仰せになっても、ここを通す訳には参りません」
「しかし、それではこの戦は……」
「ご安心ください。我が方は多勢。物部軍に敗れることなどあろう筈がございません」
 厩戸皇子は兵士の答えに次の言葉を失った。彼は本気でそう思っているのだろうか? それとも馬子大臣に、「皇子にはそう話す様に」と言い含められているのだろうか?
 いずれにしても、兵士を説得して自由にして貰うのは不可能の様だ。
 それからまた半刻ほど経った。厩戸皇子はひとり部屋の中央に腰を下ろし、月明りのスポットに照らされていた。彼にはもう為す術が思いつかなかったのだ。
 其処へと救世主とも云うべき一人の男が現れる。泊瀬部皇子であった。
 彼は警備の兵士と二三言葉を交わし、厩戸皇子が閉じ込められていた部屋の中へと入って来る。厩戸皇子は藁をも掴む思いで彼に助けを求めた。
「泊瀬部皇子様、私は……」
「仏の命なのであろう? 馬子大臣に訴えているのを聞いていた」
「ならば、私を自由に……」
 泊瀬部皇子は考えた。
「馬子大臣や厩戸の様に馬鹿みたいに蕃神を信じている訳では無いが、万が一、それで蘇我が勝つのであればそれも悪くはない。それに、この厩戸と云う奴は確かに頭だけは良い。何か妙策があるのやも知れぬ」
 泊瀬部皇子にしてみれば、蘇我が負けるのは面白くない。そうなると、恐らく蘇我の血筋に繋がらない彦人大兄皇子が次の天皇の有力候補になってしまう。勿論、厩戸を自由にしても、蘇我が勝つとは限らないが、もし蘇我が勝つのであれば、次の天皇への道は間違いなく泊瀬部皇子に近くなる。 
「厩戸に策など無いにしても、こいつが守屋の矢に射殺されるのを見るのも悪くはなかろう。それで蘇我軍が負けるのであれば、私が馬子大臣を殺し、奴の首を手土産に、守屋方へ寝返れば良い。彦人大兄のことはそれから考えるとするか……」
 泊瀬部皇子は厩戸皇子の手を取って、兵士が横に並んだバリケードの近くへと導いた。そして、兵士の一人に「厩戸を行かせてくれ。私が責任を負う」と言って、彼の脱出を手助けしたのである。勿論、善意でやっている訳ではない。むしろ彼の心の中にあったのは、厩戸皇子への害意だった。
「しかし、泊瀬部皇子様……」
「大臣の馬子の云う事は聞けても、皇子である私の云う事は聞けぬと云うのかな?」
 泊瀬部皇子はそう言って返事をした兵士を睨みつけた。正確には睨みつけたのとは違う。氷の様な目で見降ろしたのだ。これには馬子の兵士も思わず畏れ、後退りしてしまう。そうして出来た隙間へと、泊瀬部皇子は厩戸皇子を推しやった。
「厩戸、行くが良い。そして其方の仏への信仰がどれほどの物か、それを証明して見せよ」
「ありがとう。泊瀬部皇子様」
 厩戸皇子はそう言うと、一目散に最前線の方へと走り去っていった。兵士たちは呆然とそれを見送り、泊瀬部皇子は冷ややかな笑いを持ってそれを見送っていた。

 厩戸皇子は走った。最前線へ。もう疾うに日は落ち、日暮れからどれ程の時が経っているか分からない。
彼が敵の砦の見える最前線まで来てみると、辺りはもうすっかり暗くなり、篝火の灯りだけが風に揺れてゆらゆらと赤い舌を蠢かせていた。榎の木にはまだ物部守屋が陣取っている様で、彼の姿が影となって薄っすらと見えている。だが、その隣の真竹の林は真っ暗で、其処に誰がいるか分かる筈もない。当然、智仙娘がまだ残っていて、弓を振っていたとしても彼にはそれを知るすべはない。
 厩戸皇子は決心した。彼自身が弓を持ち、守屋を射ることを。
「細人はまだ竹の梢で待っている筈だ。私が出て行って守屋を射れば、細人が守屋を射てくれる筈。もし細人が私を待ちきれなかったのであれば、仕方ない。約束を守れなかった私が悪いのだ。守屋に射て殺されたとしても諦めるしかあるまい」
 厩戸皇子は側にいた兵の長弓を奪い取ろうとした。
「貸せ!」
 だが、兵は弓を渡そうとはしなかった。
「貸さぬか! どうしても私は弓が必要なのだ」
「貸せませんね、皇子。私は厩戸皇子の命で、物部守屋を射落さねばならぬのです」
 脇にいた兵は、実は迹首赤檮であった。彼は厩戸皇子が戻るのを最前線で待っていたのである。
「どうなさいますか?」
 この赤檮の問いに、厩戸皇子は即座に答えを返した。
 智仙娘からの合図は確認できていない。智仙娘は竹に登れず去ったかも知れない。あるいは、いつまでも厩戸皇子が動かないので業を煮やして竹を降りてしまったかも知れない。それでも厩戸皇子の肚は決まっていた。
「赤檮、今だ。今すぐ、榎の木に近づいて、物部守屋を射て参れ!」
 赤檮もこの合図を待っていたのだろう。彼は闇に乗じて一気に敵方の砦の方へと近づいて行く。それは闇の森を行く一個の野犬の様であった。
 彼はこの命令を蘇我軍からの脱出の口実と考えていた。当然、この命令を望んでいた訳ではない。だが、ずっとそれを今か今かと待っていると、それが彼の望みだった様に感じてられてくる。そして、必ずや物部守屋を射落してやろうとの気持ちに傾いてくる。
 彼は篝火を縫うように進んだ。篝火の周りには物部兵が屯している。その直ぐ傍を通る訳にはいかない。だが、篝火が焚かれている為、物部兵は闇に目が慣れていない。篝火から少し離れれば、赤檮は見つからず進むことが出来るのであった。
 そうして、これ以上は近づけないという場所まで走って、彼は弓に矢を番えた。其処はもう篝火に照らされて、物部兵や樹上の守屋からも姿が確認できる位置だった。だが、其処まで近づかないと、守屋を射ることなど到底叶わない。
 赤檮は弓を思いっきり引き絞り、渾身の力で矢を放つ。しかし、矢は彼が思うよりも遥かに重力の影響を受け、守屋の足の下を通過していった。
 出来る限り近づいたと云っても、矢張り相当の距離がある。今吹いた風の影響も少なくはない。それで榎の木も揺れている。その揺れのせいか、守屋も赤檮のことに気付いたらしく、彼を狙って矢を弓に番えている。
「もっと慎重に狙わなければ駄目だ。次がもう最後だ」
 赤檮は再び弓を引き絞り、風が治まるのを待って、先程の落下分を計算して守屋の頭上目掛けて矢を射た。矢は狙い違わず、大きな弧を描いて守屋の頭上から彼の鎧へと飛んでいった。だが、赤檮の祈り虚しく、その矢は守屋の身体を貫き切れず、鎧を叩いただけで榎の木の根元に向かって落ちていったのである。
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