東漢直駒
文字数 2,732文字
東漢駒は渡来人であった。これは直と云う、帰化人に与えられる
この時代、帰化人の為に専用の姓が必要となるほど、大陸との交流が盛んであり、倭政権に於いても、多くの役人が渡来人によって占められていたのであった。そして、この東漢駒もそうした渡来人の末裔であり、譽田(応神)天皇の二十年、大陸より渡来した
この東漢氏であるが、代々檜隈と云う地に根拠を持っていた。檜隈とは、飛鳥に隣接した地で、檜隈川(高取川)の東岸、後の天智持統天皇陵(檜隈大内陵)からキトラ遺跡の間に拡がる広大な地であり、東漢駒の屋敷も、恐らくはこの檜隈にあったのではなかろうか……。
小手子の前で礼を取る東漢駒に、小手子は親し気に声を掛けた。
「駒殿、良く参られた」
「さて、お妃様には、いかなるご用向きのお召しにございましょうや?」
「人を一人殺めて貰いたい」
東漢駒は、こう云う役目を言いつかることが多かったに違いない。だが、あまりに露骨な小手子の言い回しに、思わず彼も苦笑してしまう。
「ハ、ハ、これは、これは。で、どなたが邪魔だと申されるのですかな?」
「厩戸皇子を亡き者に……」
「なれば、大王から詔を出して頂かないとなりませぬな」
「詔を出せるものであれば、他の者に頼んで居る。内密にことを運びたいから、駒殿を召したのではないか」
東漢駒は、小手子の言葉に、納得の含み笑いを
「では、褒美に何を?」
「何が所望じゃ?」
「
これには小手子の方が驚き、思わず声を荒らげる。
「馬鹿を申せ! 大王の嬪を其方などに渡せる訳があるまい!」
「フフフ、元々あれは、
東漢駒の言葉に、小手子は返す言葉を失くしていた。
さて、東漢駒が言った「不都合」という言葉の意味について、少しだけ補足させて貰うこととしよう。
妃である小手子には、蜂子皇子と云う男子の皇子がいる。そして彼の世代の天皇候補としては、彦人大兄皇子、厩戸皇子などが居り、蜂子皇子が天皇になるとしたら、当然これらのライバルたちと天皇の座を競わなければならないのだ。
前述したように、天皇となる為には群臣に推挙されなければならないのであるが、現時点の群臣一の実力者は蘇我馬子であり、最年長の彦人大兄皇子ならまだしも、蘇我系の厩戸皇子を差し置いて、蜂子皇子が推挙される可能性は殆ど無いに等しいのである。
だが、もし、ここで厩戸皇子が死亡したとすると、次の天皇の継承レースは白紙に戻ることになる。そうなれば、年嵩の彦人大兄皇子が大王となった後、蜂子皇子が次の大王となる可能性もまた生まれてくるのだ。
しかし、河上娘に泊瀬部天皇の子があったとしたら、また話が変わってくる。
河上娘とは蘇我馬子の
そうなると、蘇我馬子が河上娘の子を天皇とする為に、どの様なごり押しをしてくるか分かったものでは無い。それどころか、蘇我系の厩戸皇子が殺されたとあっては、彦人大兄皇子を跳ばしてでも、その子を皇位に就けようとするかも知れないのである。
確かに、蘇我馬子自身には権力掌握の野心は無いのであるが、子や孫に大王を継がせたいと云う気持ちは、彼も人並み以上に持っていた。この辺り、馬子は多少親馬鹿の気が無いでもない。またそれは、周知の事実でもあった。
つまり、河上娘の皇子が存在しなかった場合には、後に蜂子皇子が天皇となる可能性も残されているのだが、河上娘に皇子が生まれた場合、厩戸皇子が殺されたとしても、彼が天皇に推挙される可能性は、限りなく零に等しいと云うことになってしまうのである。
小手子も意を決した。
「河上娘のこと承知した。成就の暁には其方の好きにするが良い。嬪は死んだと云うことにしようではないか」
河上娘の件に関しては、小手子も天皇を騙すことになるので多少良心の呵責が無いでもない。だが、東漢駒と河上娘が相愛だと云うのであれば、彼女の為にはそれも悪くはないのではなかろうか?
そう思い、小手子は彼の要求を受け入れることにしたのである。
東漢駒は謁見の間から下がり、小手子の前から姿を消した……。こうして、大伴小手子と東漢駒との密約が、ここに成立したのである。
だがしかし、二人は信頼の固い絆で結ばれていた訳ではなかった。彼にとって、小手子は信頼に足る同盟相手ではなく、単なる密命の依頼主にしか過ぎない。そして、このことが、彼の判断に大きな影響を与える事となる。
当初、東漢駒は倉梯から、そのまま一路、上宮にある厩戸皇子の屋敷へと向おうと考えていた。だが、彼は走り出していた足をピタと止めていた。東漢駒はそれを途中で思い止まったのである。
厩戸皇子が出仕で通える距離だ、現代の人間でも、三十分も歩けば急がずとも直ぐに着いてしまう。東漢駒ならば、休むことなしに一気に走り抜けられるだろう。間違っても、先ずは一泊し朝から旅立とう……などと考える道程ではない。事実、彼の屋敷の方が余程遠いのだ。
では何故、彼は思い止まったのか?
それは、小手子が何故、
単に厩戸皇子などと云う年端も行かぬ子どもを暗殺するのであれば、無名の武人でも差し向ければ良いだけのことである。態々暗殺のプロ、東漢駒に密命するまでのことはない。
「小手子め。もしかすると、我を殺す為に罠を張ったのやも知れぬ……」
彼が疑ったのは、小手子が天皇の命で、河上娘の愛人であった東漢駒を謀殺しようとしているのではないかと云うことであった。
実際、そう考えると、それもあり得ないことではない。
「これは安易に上宮に行くと、厩戸を殺したとしても、その後、反逆者の汚名を着せられた上に、討伐隊を差し向けられないとも限らない……。だが、皇妃の命に背くのも憚られるし、我が妹を奪い返す絶好の機会をふいにするのも面白くない。ここは手の者を使って、少し様子を見るとするか……」
東漢駒は、そう問わず語りに呟き、踵を返して檜隅にある自らの根城へと帰っていったのである。