迦摩多死す

文字数 5,049文字

 迦摩多は筑紫に向かって走っていた。
 随分と遠回りした気はするが、この木簡さえ倭国の大将に渡せば、筑紫に展開している倭の兵二万余は、全て蘇我討伐の為に倭へと引き上げて来る筈である。
 もうこれ以上、倭に留まっている必要もないだろう。彼はそう考えて、詔を伝えたら、そのまま新羅に帰ろうと考えている。彼の役目は充分過ぎる程に果たせたのだ。
 だが、その迦摩多に、どこからか声を掛ける者があった。
「迦摩多殿、迦摩多殿、其方はどちらに参られるのだ?」
 迦摩多は身構えた。通常であれば、その様な長台詞、走りながらの相手に全て聞こえてくる筈はない。それに彼は今、常人以上の速度で西国に向かって走っているのである。それに遅れず、何事もないかの様に声を掛けてくる者。それが常人であろう訳がない。恐らく間諜に間違いないだろう。
「な、何者だ?」
「そうさな、取り敢えず、大伴細人とでも名乗っておこうか?」
 迦摩多から、細人と名乗る者の姿は見いだせない。確かに声のする方向は分かる。だが、声のする方向にその者がいるとは限らない。下手に動くと、相手の思う壺になり兼ねない。
「貴様、敵か? 味方か?」
「其方が何をしようとしているか、言うてくれねば、敵とも味方とも言い様が無いではないか。さて、迦摩多殿は何者で、何処に、何をしに行かれるのかな?」
「くそ!」
 迦摩多は相手を敵と判断し、走る速度を上げて逃げ切ろうと考えた。少なくとも新羅の間諜であれば、その様なことを彼に尋ねては来ない筈である。
 だが、彼は逃げ切れなかった。何かを踏み抜いた様で、その激痛の為に躓いて転んでしまったのだ。
「フフフフフフフ」
 迦摩多は相手の攻撃を予期し、咄嗟に身を起こし構えたのだが、その笑い声は、段々と遠く小さくなり、何時しか消えていった。

 敵は去って行った様である。
 取り敢えず迦摩多はそこに座り直し、傷の具合を確かめることにした。彼の足の裏には、何か鋭い棘の様な物が刺さったらしく、小さいが深い刺し傷が残されている。
 彼は道を少し戻り、何があったのかを確かめてみた。すると、彼が転んだ辺りの道一面に、湿地に育つ水草、鬼菱の実が撒き散らされていたのである。
「菱の実を食べようと、誰ぞが取って、ここで落としてしまったに違いない。だが、道に撒き散らした儘とは、迷惑至極な話ぞ」
 彼はそう悪態を吐いて、痛む足を引きずりながら道を行くことにした。勿論、警戒は怠ってはいない。四方に目を光らせて、自分から物音を立てない様に街道を進んで行く。
 すると、暫く行った前方、人が抱える程の大石に、座って休んでいる人が見えるではないか。迦摩多は一気に緊張のボルテージを跳ね上げた。
 だが、それは十を越えたばかりの、粗末な身形(みなり)をした少女であった。迦摩多はふうと安堵の息を漏らす。彼は、先程、彼の名を呼んだ、姿の見えない謎の間諜ではないかと、恐怖に怯えていたのだ。
 少女は迦摩多に目を遣ると、不思議そうに一瞥してから、ニッコリと彼に向かって微笑んだ。
「な~んだ。鬼でも出たのかと思った。小父さん、足を怪我している様だけど、そんな足で何処に行こうと云うの? ここから人里までは随分と離れているよ」
 昼の時分とは云え、人気の無い街道で男と二人きりと云うのに、余程世間知らずなのか、少女は怯えた素振りを見せなかった。迦摩多は随分と不用心な娘だと思う。だが、不用心なのは娘の方ではなかった。
 少女だと高を括ったのか、迦摩多は緊張の反動もあり、随分と口が軽くなっている。
「なぁに、直ぐに良くなるさ。儂はこれから筑紫まで行かねばならぬのだからな」
「ふ~ん、じゃぁ難波まで一緒だね。一人だとお化けが怖いから、一緒に行こうよ」
 迦摩多は「恐れるのは、その様な者だけではなかろうに。愚かな娘だ。行きがけの駄賃として有り難く頂いて行くとするか」と、ニヤリと口元を歪ませる。
「おお、これは幸い。渡りに舟だ。旅は道連れと言うからな」
 迦摩多がそう答え、大石の処まで来ると、少女は石から立ち上がり、彼の脇をその儘は並んで歩きだした。彼はそうして少女と街道を行くことにしたのである。
 迦摩多はこの場所で少女に襲い掛かることはしなかった。彼には未だ、謎の間諜、大伴細人なる者に狙われている身なのだ。この為、彼は道を歩くにしても、街道脇の叢、ちょっとした物陰、鹿などの野生動物の物音、その様なものに、充分過ぎる程の注意を払っていった。
 だが、彼は気付いていない。
 彼が警戒している謎の間諜、大伴細人とは、彼の脇を歩いている少女のことなのだ。

 その頃、倉梯宮の隠し部屋では、泊瀬部天皇が静かに時を待っていた。
 この部屋には充分な食料も保存され、数日ならば誰にも気付かれることなく姿を隠し続けていられるだろう。これで、蘇我馬子討伐軍が倭に戻るまで、彼は姿を眩ますことが出来ると云うものだ。
 そう。昨日、調奉りの際、東漢駒に刺殺されたのは彼が仕立てた影武者であった。彼は自分に似た者を呼び出して、百官を騙すと偽り、その儀式の間、自分に成り済ますことを命じたのである。そうして彼は、難を逃れると共に、東漢駒と蘇我馬子、そして厩戸皇子討伐の名目を得たのだ。
 彼は東漢駒が影武者を殺した時点で姿を現しても良かった。だが、それでは単に東漢駒が逆賊であると証明することしか出来ない。
 また、東漢駒が蘇我馬子に討たれた時点で姿を現しても良かった。そうすれば、蘇我馬子が首謀者で、東漢駒の口を封じたとして、討伐の名目を得ることが出来るだろう。
 だが、討伐軍が帰って来るまでの間、蘇我馬子が彼に助命嘆願をしてくることも考えられる。炊屋姫尊が、それに口添えでもしようものなら、只、無視をすれば良いと云う訳には彼にも行かなくなる。
 あるいは、追い詰められた蘇我馬子が、本当に叛旗を翻し、倉梯宮に攻め入らないとも限らない。
 そこで彼は、直ぐに姿を現すのは控え、姿を隠したまま、蘇我馬子討伐を命じることにしたのである。
 彼は木簡にこう記した。
「蘇我馬子の指図で、東漢駒に殺されかけたのだが、自分は未だ生きている。東漢駒は馬子に口封じされてしまったが、自分を狙ったのは蘇我馬子と厩戸であると、はっきり私は聞いた。筑紫の大将は皆引き上げて、逆賊、蘇我馬子と厩戸皇子を一刻も早く討ち取り、倭に正義を取り戻してくれ」
 泊瀬部天皇は迦摩多にそれを持たせ、倭国軍の展開する筑紫へと彼を派遣した。勿論、文の最後には「この使いは、実は厩戸の手の者で、逆賊たちに内通している者である。詔を受けたら、この使者も始末する様に……」と添えられている。
 こうして彼は、討伐軍が戻ってくるまでの間、倉梯宮の隠し部屋に隠れることにしたのである。

 だが、時間が経つにつれ、泊瀬部天皇も退屈になり無駄口も多くなる。
「しかし、迦摩多めが厩戸たちを討たなかったので、筑紫に派遣している豪族どもを討ち取る機会は逸してしまったではないか……。まあ良い。余り性急に豪族を根絶やしにすると、倭国自体が弱くなり、土蜘蛛だけでなく、新羅、百済などからも狙われる羽目になる。ここは中庸の成果で満足するのが一番と云うものだ」
「すると、大王は筑紫の豪族も討たんとされていたのでしょうか?」
「おお、そうだ。力の有る豪族は皆、危険な存在だからな」
「ならば、大伴の者も?」
「無論だ。部門の豪族は、私にとって最も危険な存在だ」
「そうでございますか……」
 何時もの彼なら、その様なことは、間違っても口にする筈がない。恐らく何らかの興奮剤か気分を高揚させる動植物を食べさせられた事は間違いなかった。
 だが、ここは倉梯宮の隠し部屋である。この様な部屋の存在を知る者は数限られている。ましてや、そこに貯蔵されている食物に、彼の知らぬ間に、その様な薬を混ぜることの出来る者など存在し得るのであろうか?

 一方、迦摩多の方はと云うと、足の痛みに歩くことも出来なくなり、最早、山中で野宿せざる得なくなっていた。少女は彼を置いて先へ行ってしまう訳にも行かず、彼の為に少し広い場所を見つけ、焚火を起こさんと、甲斐甲斐しく野宿の準備を始めていた。
「済まぬが、焚火は止めてくれぬか?」
 迦摩多は切り株に腰掛けて、薪を集めに行こうとする少女を呼び止めた。
「どうして? こんな山中で、火も焚かないと、狼とかに襲われるよ」
「この儂は、幼き時に火事に遭ってな、火が怖いのだ」
「そうなんだ……。てっきり追手に見つかるのが嫌なのかと思った」
「どうして、その様なことを思うのだ? そんなに儂が怪しく見えるか?」
「うん。だって、歩きながら、ずっと周囲を気にしてるんだもん」
 迦摩多はそれを聞いて、この少女も殺さねばならぬと考えた。
「薪拾いは後にして、こっちに来ないか?」
「うん」
 少女は特に警戒するでもなく、迦摩多の座る切り株の方にゆっくりと歩いて来る。迦摩多は懐に手を差し入れ、隠し持った小刀を強く握りしめた。
「さ、良い物をやろう。手を出して」
 少女が手を差し出すと、迦摩多はその手首を掴み、自分の方へと引き寄せた。そして後ろから羽交い絞めにして、懐の小刀を少女の目の前に突きつける。
「小父さん、何をするの?」
「心配するな、ちゃんと良い物を其方の身体の中にくれてやるぞ。殺す前にな」
 そう言って迦摩多は口を歪めて低く笑う。
「そんなことをすると、県主の吉士様が黙ってはいないよ。倭の大伴様だって小父さんを捕まえに来るよ」
「来るなら来てみろだ。儂は倭国の人間などではない」
「そうか、分かった。小父さんは大唐(もろこし)の人ね。戦で攻められるのが嫌で、倭に逃げて来たのでしょう!」
 少女はそう言って、手首や体を左右に振って逃れようとするが、男の力は少女のそれより遥かに強く、振り解くことは出来なかった。
「はははは。儂は新羅の迦摩多と云う間諜だ。其方には未だ分からんだろうが、其方の国が新羅を攻めてこれない様に、倭を攪乱して帰るところだ!」
「そんなの遅いよ。もう一年も前に、戦仕度した人たちが西国に行っているもの」
「だからそれを呼び戻させようと云うのだ。儂が大王より預かった詔で、倭の大軍は呼び戻される。大王を狙った逆臣、蘇我馬子と大王の地位を簒奪しようとした厩戸と云う皇子を討つ為にな」
 少女はそれを聞いて暴れるのを止めた。だが、決して諦めたと云う訳ではない。
「そうか……、それが答えか……」
 少女は暴れる代わりに、思いっきり迦摩多の怪我した足を踵で踏みつけた。迦摩多は余りの痛さに思わず両手の力が向ける。少女はその機会を逃さず、さっと男の捕縛を擦り抜けていた。
 迦摩多は驚きと痛みに目を細め、思わず少女を睨みつける。
「貴様、何者だ?」
「先刻名乗ったではないか? 迦摩多殿は、もう忘れたのか?」
「ま。まさか……?」
「大伴智仙娘。又の名を大伴細人!」
 少女、即ち智仙娘はそう言うと、持っていた小刀を手裏剣の様に投げて、迦摩多の腹へと突き立てた。智仙娘が刀で殺そうと近づいてくれば、再び攫んで絞め殺そうと考えていた迦摩多であったが、これでその望みも潰えてしまう。
 迦摩多は捨て鉢になって、自分の刀を智仙娘に投げつけた。だが、それは単に智仙娘に新たな手裏剣を与えるだけとなり、新たに腹に剣を受ける結果となってしまった。
 それでも、智仙娘は相手に安易に近づきはしない。詔を奪うのは、相手が死んだのを確認した上でだ。
「もう、其方は助からんだろう。何か言いたいことはあるか?」
 流石に迦摩多も、新羅に生きて帰るのを諦めざる得ない。
「最早、これ迄か……。だが、聞くが良い。其方らは任那復興などと云うて居るが、元々は倭が勝手に攻めて奪い取った我らが土地。それを何故に其方らは再び奪おうと云うのだ。良いか、良く聞け。儂が死んでも、次の迦摩多が出て来る。次の迦摩多が死んでも、第三の迦摩多が出て来る。そうして、半島は我らのものとして、永遠に守られ続けるものなのだ」
「私もお前の云う通りだと思う。折角、それぞれの国の境に海峡が横たわって居るのだ。それぞれが、それを境に分を守って暮せば良いのだ。今更、任那でもないだろうに……」
 それが、迦摩多に聞こえていたかどうか、もう分からない。もう彼は出血の為か、既に視線が定まってはいない。
「だが、お前の遣り方は間違っている。倭国に内乱を起こさせるなど、倭の民として、私も認めることは出来ないのだ」
 智仙娘は、最後にそう呟いたのであった。
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