蜂子奥州流刑

文字数 3,258文字

 智仙娘は新羅の間諜の探りを入れる前に、蜂子皇子を救出すべく、居場所を確かめてあった彼の元へと足を運んだ。
「皇子様?」
「誰だ?」
 蜂子皇子が軟禁されている場所は、屏風で仕切られただけの部屋で、何人かの衛兵が、皇子が逃げ出さない様にと、その部屋を見張っているだけのものであった。
 智仙娘はその衛兵に気付かれることなく、部屋の隅に出来た暗がりから、蜂子皇子にだけ聞こえる様に小さく声を掛けた。
「智仙にございます」
「フフ、我を殺めに来たか……」
 こう執拗(しつこ)く疑われると、智仙娘も底意地の悪いことを言いたくなる。
「はい。ご覚悟くださいませ」
「うむ」
「では、これより上宮屋敷に人知れずお連れ致しますので、お運び頂きます様、宜しくお願い致します」
「分かった。そこで我を……」
「はい。錦代皇女様を大切とお思いであれば、蜂子皇子様には、私の指示に従って頂く様お願い致します」
「錦代は無事なのだな?」
「はい……」
「ならば良い。其方の言う通りにしようではないか」
 智仙娘は、蜂子皇子を本当に面倒な皇子だと思う。彼は「助ける」と言えば、騒ぎ出して衛兵を呼ぶに違いなく、「殺す」と言うと逆に黙って従うのだ。それは、この皇子の優し過ぎる自分への照れ隠しには違いなかろうが、この様な時にまで、それをしなくても良いではないかと、智仙娘は悪態の一つも吐きたくなる。
 智仙娘はそう思いながら、衛兵を眠らす為の嗅ぎ薬を辺りに流した。これで五月蝿い衛兵と、もっと五月蝿い蜂子皇子も、暫くの間は黙ってくれるに違いない。 

 しかし、倭国の騒動の渦は、大伴小手子と智仙娘の思惑とは裏腹に、どんどんと大きさを増し、その流れを一層速め続けていた。
 泊瀬部天皇は迦摩多の甘言に乗せられ、蘇我馬子の謀殺を画策している。
 勿論、慎重な彼のことである。単純に兵を挙げ、馬子大臣の屋敷に討ち入ろうなどと考える筈もない。彼は一通の木簡で馬子を打ち倒そうとしたのだ。
 木簡には、次のような事が書かれていたのである。
「河上娘が、東漢直駒(やまとあやのあたいこま)に奪われ、無理やりに妻とされてしまった。不名誉なことであるから、公にすることは出来ぬ。父親である馬子大臣が、速やかに東漢駒を討ち取り、人に知られぬよう河上娘を取り戻すように」
 それは、詔ではなかったが、馬子大臣を動かすには充分な内容であった。
 泊瀬部天皇は、自分の嬪である河上娘が東漢駒の屋敷にいることを知っていた。また、それを手引きしたのが、小手子であることも、彼は気付いていたのである。
 だが、彼はそれを公にしなかった。
 真の理由は、不名誉なことだからなのであるが、彼はその屈辱感を誤魔化す為、深謀遠慮であると自分に言い聞かせ続けていた。その深謀を今、自身の野望の為に彼は使ったのだ。
 これで東漢駒が討たれればそれも良し。彼を侮辱した憎き男の一人を葬り去るだけのことである。逆に、馬子大臣が東漢駒に討ち取られれば、天皇の思惑通りになる。その時は、そのまま厩戸皇子が黒幕であると東漢駒を焚きつけ、憎き厩戸皇子までも、東漢駒に討ち取らせてしまえば良いのだ。
 ただ、いずれが討たれるにしても、河上娘の簒奪を手引きした嬪の小手子に累が及ぶ可能性は非常に高い。勿論、彼はそのことも承知済みであった。この事変が治まった後、彼は自らの妻子を反逆の罪で断首することも覚悟し、部下に命じ彼女を捕らえさせた……。
 これ迄、泊瀬部天皇は大王と呼ばれながらも、自らの思い通りにならない国家運営に、忍従の思いを続け、それを皮肉そうな相貌にぐっと押し込めていた。それが今、もう少しで思い描く未来が、彼の直ぐ手の届く所まで来ているのだ。それを掴む為であれば、息子も、娘も、妃の小手子ですらもが、この野望の生贄になっても、彼はもう惜しいとは思わなかった。彼は今、自身の野心の為、持っていた人の心と云うものを、完全に見失ってしまっていたのである。
 空論でしかなかった彼の野望……。
 その炎は、こうして地獄の業火の如くに激しく燃え上がっていた。そして、それを焚きつけたのが、新羅の間諜、迦摩多である。
 迦摩多は、摩理勢を追って蘇我の屋敷まで追った後、泊瀬部天皇に会い、言葉巧みに蘇我屋敷への討ち入りを進言した。だが、前述したように、泊瀬部天皇は表向き迦摩多の口車に乗った振りをして、東漢駒に馬子大臣を討たせる様に画策してしまったのである。
 迦摩多は、自らの手を決して汚そうとしない天皇に不満があった。そう言う意味では、彼らの遣り方は実に良く似ている。人を利用して目的を遂げようと云うところがだ。
 迦摩多の目的は、新羅侵攻を勧める全勢力を討ち、泊瀬部天皇に新羅侵攻を取り止めさせることにあった。当然、好戦派の馬子大臣の方が死ななければならず、東漢駒の方が討たれてしまっては、彼には全く意味が無いことになる。
 そこで彼は、泊瀬部天皇に相談なしに東漢駒の元へと向かった。馬子大臣が東漢駒を討たんとしていることを前もって臭わせる為である。そうして置けば、東漢氏が不意を突かれることは無く、馬子大臣が殺される確率が高まると思われたからだ。
 だが、彼はここまでの成果で十分満足すべきであった。
 何故なら、東漢駒には迦摩多が何者であるかを分かっていたし、彼が泊瀬部天皇と同じ穴の狢であることも知っていた。その上、泊瀬部天皇の動向を探っていた東漢駒には、蘇我馬子に送られた竹簡に、何が書かれていたかも既に伝わっていたのである。

 一方、上宮屋敷では、厩戸皇子が奥の間で珍しい客人と会談を持っていた。智仙娘が助け出してきた蜂子皇子である。
「蜂子皇子には、態々のお出ましありがとうございます」
 奥の部屋には、人が近づかない様に家人に命じ、厩戸皇子は智仙娘と三人きりで話を付けようと考えていた。
「錦代はどこにやった?」
 それには智仙娘が答える。
「皇女様には、大伴屋敷までご足労頂き、母君の側近にお護り頂いて居ります」
 それを聞いて、蜂子皇子は安堵の息を漏らした。そして彼は何も思い残すことは無いとばかりに笑顔を見せた。
「厩戸、我は人質になる位なら死を選ぶ。早々に我が命、奪うが良かろう」
「蜂子皇子、私には、何故、この様なことになったのか、全く分かりはしないのです」
 しかし、蜂子皇子は馬鹿々々しいとばかりに鼻を鳴らす。
「その様な田舎芝居はもう沢山だ。何なら我自ら胸を突こうか?」
 厩戸皇子が何か言おうとするのを、智仙娘が押し留めた。
「厩戸、皇子様には陸奥(みちのく)へと旅立って貰おうと思う」
「おい、細人! 何を言う」
 智仙娘は厩戸皇子の抗議を無視し、蜂子皇子に話を始める。
「蜂子皇子、お命までは奪いません。陸奥(みちのく)の地にて、暫くご蟄居なされます様、お願い申し上げます。そこ迄の舟は、私の方で丹後由良辺りにご用意致しますので、今宵はこの屋敷にてお待ちくださりませ」
「随分と寛大な沙汰だな」
「小手子様や皇子様には、私も随分と世話になりました故」
 そう言って、智仙娘は蜂子皇子に深々と頭を下げた。
「おい、細人!」
 厩戸皇子は、智仙娘にこの理由を尋ねようとしたのだが、智仙娘に腕を取られ、強引に奥の間から退出させられてしまう。
 こうして、この会合は、このまま終了となってしまったのであった。
 智仙娘に腕を引っ張られ、部屋から出て行く途中、厩戸皇子はその理由を彼女に尋ねた。
「どうして、罪なき蜂子皇子を倭から追放しようとするのだ?」
「馬鹿だな、お前は……。蜂子皇子は、お前と馬子大臣が謀叛を起こしたと疑っているのだ。そのお前が何を言っても、皇子には信じては貰えない。この屋敷で保護したとしても、勝手に逃げ出すやも知れぬのだ。これでは到底、皇子を護ることなど出来はしないだろう。ならば、騒ぎが治まる迄、倭を離れて頂いた方が遥かに安全ではないか?」
「成程……」
「そして騒ぎが治まったら、小手子様に迎えに行って貰えば良かろう」
「そうか……。で、これから其方はどうしようと云うのだ?」
「私か? 私はこの事件の火種を絶とうと思っている」
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