大伴小手子

文字数 2,280文字

 厩戸皇子が九人の訴えを見事に裁いたその夜、倉梯宮の大殿では、苛付きを隠そうともせずに行ったり来たりを繰り返す天皇、泊瀬部(崇峻)の姿があった。
 これには流石に、天皇の妃である小手子も呆れずにはいられない。
「大王、何をそのように……。全く、子供の様に落ち着きのない」
「私はこれまで、この国の為に必死になって(まつりごと)を行ってきた。だからこそ、この国の平和は保たれて居るのであり、全ては私のお蔭なのだ。それがどうだ、民は私のことより、厩戸を聖だと言って慕って居るではないか? 奴が国を治めれば、この国は安泰だと……」

 泊瀬部(崇峻)天皇の在位期間五年のうち前半の三年間、日本書紀には、これと言って政治的に大きな記述が無い。即位の礼を行い、その月に倉梯に宮を造ったこと、二年目に東山道と東海道、北陸道の巡視をさせたこと、やっと四年目に先々帝である渟中倉太珠敷(敏達)天皇を葬ったことが記述されているだけである。二年目には確かに法興寺の造営は始められている記述があるが、これは蘇我馬子大臣が主に采配を振るっていたと考えて良いだろう。
 これを見る限り、この期間、泊瀬部天皇が強く訴えるほど、必死に政を行ってきたとは少々言い難い。実際の処、記録されていない様な雑事が山の様にあったことは間違いないのだろうが、彼が訴えるように政権運営に苦労したと迄は言えなさそうである。だが、それを別の言い方にすれば、彼の在位期間は飢饉や争乱も少なく、比較的平穏な時期だったと云う事なのかも知れない。

「昼の厩戸殿のお裁きが、大王のお気に召さないのですね」
「厩戸め、まさかあの様な真似が出来るとは……。何と云う恐ろしい耳を持って居るのじゃ? あいつは恐ろしき男だ。出来るものなら、あいつを斬りたいと思うぞ」
「厩戸皇子殿など、所詮は学問好きな世間知らずの皇子でございます。恐ろしいのは皇子殿ではありません。皇子殿を支えている智仙娘、大伴細人にございましょう」
「大伴?」
「はい。大伴は物部と共に戦を司る部の一族。それ故、大唐(もろこし)に伝わる間諜(うかみ)の技を熟す者も少なくありません。その中でも智仙娘の間諜の腕は大伴随一。敵う者など倭国には、どこにも居りはしませぬ」
「ううむ」
「恐らく智仙娘が何らかの術を用いて、皇子殿があの様な真似をしたかの様に見せたのでございましょう」
 泊瀬部天皇は、智仙娘の名を聞いて唸ってしまう。
「どうしても大王が、厩戸皇子殿を屠りたいのであれば、渡来人の力を借りるしか手立てはありますまい」
「渡来人とな?」
「はい。知る者に間諜の得意な渡来人が居りますれば、細人を少し懲らしめる様、その者に頼んでみましょう」
 妃の言葉に、天皇はこの夜、始めて笑みを見せた。

 翌日、大伴小手子は天皇が留守であるのを見計らい、使いを大伴噛の処に遣わし、智仙娘を呼びつけている。智仙娘も妃のお召しとのことで、女官の服を身に纏い噛の屋敷より、数名の伴の者を付けて呼び出しに応じていた。
 小手子は、大伴金村の子糠手の娘で、智仙娘から見れば妃と云う身分もさることながら、大伴一族内でも遥かに年長で目上の立場にある。
 この様な間柄もあり、親族同士とは云え、智仙娘は小手子の前に出ると家臣の様に平伏し、仰々しく礼を述べた。
「智仙娘よ、妾と其方の間柄ではないか。その様な礼など不要じゃ」
 そうは言われても、智仙娘は平伏したままで頭を上げようとはしない。
「智仙娘、其方、どうして私に呼ばれたか分かって居ような」
「昨日の訴訟の件かと……」
「そうじゃ。何故、あの様な真似をした?」
「帝より無理難題を仰せ付かり、皇子が困り果てていたので……」
「なれば、しくじらせておけば良かったではないか?」
「そんな……」
「所詮は無理難題。しくじるのが当然。それをあの様に解いてしまえば、大王も心安かろう筈がない。大王は冷静沈着に見えて子供の様に心狭きお方。あれでは大王に、厩戸皇子殿に嫉妬しろと言わんばかりではないか?」
 小手子の言うことは決して間違っていない。あの場面で厩戸皇子が大恥を掻いたとしても、誰も厩戸皇子を愚かだとは考えないだろう。せいぜい運が悪かったと思う位だ。それで、蘇我馬子が彼の才覚に失望したとしても、あるいは炊屋姫尊が彼の不運を大いに哀れんだとしても、二人が厩戸皇子を見捨てるなどは到底考えられない。
 それを智仙娘は、天皇に嵌められて悔しいと云う感情だけで彼を助けてしまったのだ。これで馬子大臣は厩戸皇子を聖人の様に言い触らすだろうし、天皇は一層、厩戸皇子への警戒を強めることになる。
 小手子の糾弾に対し、智仙娘には一言も返す言葉が無かった。
「良いな。厩戸皇子殿の手助けはもう止めよ。さもなくば」
「さもなくば?」
「厩戸皇子殿ともども、其方を討たせることになるぞ」
「其れは無理にございましょう」
「試してみるか?」
「はい」
「仕方のない奴だ……。下がって良いぞ」
 小手子はそう言って、智仙娘に手で合図を送って下がらせた。
 小手子も智仙娘も、大伴同士で同族争いなどはしたくない。確かに、天皇家や多くの豪族間では骨肉の争いなど珍しいことではなかった。だが、そうして衰退した豪族も一つや二つではない。朝廷内での実権を失っている大伴氏は、今は出来るだけ無駄に人材を失うことを避けねばならなかったのである。それに、抑々(そもそも)彼女らには、どちらがより民に慕われているなどと云う、つまらない見栄からくる競争意識など欠片も無かったのだ。
 だが、立場が異なれば、そうは言っても居られなくなる……。
 小手子は下人を呼んで使いを頼んだ。
東漢駒(やまとのあやのこま)をここに来させよ」
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