細人檜隈来訪

文字数 3,807文字

 この新羅の間諜との謁見の直ぐ後に、東漢駒に会いたいと、一人の女が訪ねてきた。
 迦摩多を騙したとは云え、大王や迦摩多の部下には未だ情報が展開されておらず、彼を狙いに来ないとも限らない。そこで彼は、先程の間諜と同様の高い警戒レベルを保った儘、この女との謁見に臨むことにした。
 彼には女が来ることについて、心当たりが無いのであるが、間諜の性と云うのだろうか、人が情報を持って来る可能性を、拒むことが出来ないのである。
 謁見の間に通すと、下働き風の女は、東漢駒を前ににっこりと微笑んだ。
「東漢駒殿、何時ぞや以来にございますな」
 確かに、彼にはこの女に見覚えがあった。確か、上宮屋敷の炊屋で、下働きをしていた下女である。そして彼女こそが、東漢駒に毒酒を渡した張本人なのであった。
「そ、其方、大伴細人の手の者……」
 女は心の中で、「何を勘違いしているのやら」と思う。実は彼女こそが大伴細人、智仙娘なのである。だが、そう思うなら、そう思わせて置けば良い。智仙娘はその儘、話を続けた。
此度(こたび)は、駒殿に尋ねたきことがあってな」
 東漢駒も動揺を悟られない様に、声を落ち着かせながら返事を返す。
「如何なる事でござろう?」
「何を企んで居る?」
 智仙娘は漠然とした質問をする。これで東漢駒が、何をどう答えるかで、彼が隠そうとする情報すらも得ようと云うのだ。
「さて、何のことやら?」
 東漢駒も空とぼけ、手の内を簡単には読ませない。智仙娘は仕方なく、自分の手の内を少し晒すことにした。
「随分と新羅の間諜が、倭国を跋扈している様ではないか?」
「それが?」
「駒殿が、其奴(そやつ)を手引きされて居ると聞いたものでな……」
 それを聞いた東漢駒が、少し声を荒らげる。
「帰られて細人殿に伝えられるが良かろう。『肚の探り合いがしたいのであれば、他で為されるが良い』とな」
 これには少し、智仙娘も反省せざるを得ない。つい何時もの癖で、こちらの情報を出さない様に会話をしてしまっていたが、今は駆け引きをしている場合ではないのだ。
「これは失礼した。正直に申そう。小手子様が軟禁され、蘇我に駒殿を討つように命も出ている。これは任那再興を妨げようとする、新羅の間諜が暗躍して居ると細人は考えて居るのだ。それについて、駒殿が何か知っているのではないかと思うてな」
「何故、我が何か知って居ると思うたのだ?」
「細人の勘だ」
「成程な……」
 東漢駒は考える。
「取り敢えずは、蘇我から攻められることはないであろう。だが、それからどうする? 河上娘のことが露見し、天皇が敵意を持って我を見ている以上、そのままでは済まされぬであろう。それは馬子大臣も同じこと。ならば、ここは馬子大臣と手を組んで、大王に対抗するのが得策か……。であれば、蘇我の一族である厩戸皇子と誼を結ぶのは、我にとって悪いことではないだろう」
 そう覚悟を決めた東漢駒は、智仙娘に向かい笑って話し始めた。
「では、我の知っていることを全て話そう。だが、条件がある」
「条件とな?」
「そうだ。馬子大臣に、我を討たせぬよう計らって欲しい。そして、倭から離れる手引きを願いたいのだ」
「倭を離れる?」
「そうだ。河上娘のことが知られた以上、もう倭には居られまい。ならば、越の国か上野国にでも落ちて、我が妹と二人、静かに暮らすのも悪くはなかろう」
「分かった。その条件、皇子様と大伴細人に伝えよう」
 確かに、それが東漢駒の妥協点なのだろう。智仙娘は、この場でその条件を承諾できたのであるが、一旦上宮へと戻ることにした。彼が自分を細人の手の者と思っている以上、その勘違いを正すこともない。そう智仙娘は考えたのである。それに、厩戸皇子を経由して、馬子大臣に檜隈を攻めない様に依頼しなければならないと云うこともあった。
「では、私はこれで戻ることにする」
「うむ。良い返事を待って居るぞ」
 智仙娘は東漢駒に背を向けて歩き出した。

 この東漢駒の討伐取り止めに関する嘆願は、智仙娘から厩戸皇子を経由し、そこから馬子大臣へと云うこととなり、厩戸皇子が蘇我の屋敷を訪れる形で話が伝えられた。勿論、この席に智仙娘は立ち合うことはなく、会合は馬子大臣と厩戸皇子の間で膝を突き付けて行われたのであった。
「では、皇子に送られた、この木簡は東漢駒からのものに違いないと皇子は仰せになられるのですな」
 智仙娘の案により、彼女が檜隈に行ったと云うことは伏せられ、直接では馬子大臣に届かないだろうと東漢駒が考えたことにして、彼が厩戸皇子に文を送り、厩戸皇子から説得するように依頼してきたと云う話を造り上げた。
「はい、この東漢駒なる者は、此度(こたび)のことを(いた)反省(はんせい)しているとのことで、仏道に帰依する私から、仏法の師である馬子大臣へと、仏の慈悲を賜るよう願いでたとのことにございます」
「うむ。儂も仏弟子。無益な殺生など好まぬからな。良いだろう。暫し討伐軍の派兵は待とうではないか!」
 馬子大臣は、元々東漢駒討伐に気が進まなかったこともあり、厩戸皇子の持って来た話を彼は大いに喜び、二つ返事で彼の了解が取れたのである。
「だが、大王は癇気の強いお方。簡単には駒めを許されまい。何時までも駒をその儘にしておけば、寧ろ儂の方が大王に叱責を受けてしまう」
「さればこそ。東漢駒は倭を逃れ身を隠すのです。私の知る人に大伴の者が居ります。この大伴の支配する土地が近江にあるとのことで、そこに暫し身を隠させてはいかがでございましょう?」
「うむ、悪くはないが……」
「それと……、東漢駒が申すには、『我からと言っては、恐らく何も受け取って貰えぬが、調と偽れば大王も受けるであろう。この後に、我の貢であると言い、許しを乞えば大王の怒りも納まろうと云うもの。そこで蘇我馬子宿禰大臣には、後々替わりを用意するので、蘇我の宝物を我にお譲り頂き、それを東国よりの調だと大王に奏上して頂きたいのだ』とのことでございます」
「うむ。分かった。大王も直ぐには怒りを治めては下さらぬだろうが、時を掛ければ賢きお方故に分かって頂けるに相違ない。されば直ぐにも駒に同意の由、伝えるとしよう」
 ここで馬子大臣が家人を呼びつけようとするのを、手を抑えて厩戸皇子が遮った。
「東漢駒殿への使いに、蘇我一族や私の弟たちを用いると、大王が内通を怪しむことになります。上宮屋敷の炊屋に働く下女で、檜隈を良く知った者が一人ございます。それに文を持たせ、使いに立てましょう」
 こうして、使いは上宮の下女に木簡を持たせると云うことで馬子大臣も納得し、文を(したた)めたのである。
 上宮に戻った厩戸皇子は、直ぐ様、馬子大臣の書いた木簡を使いの下女に預けた。勿論、それは名も無い下女などではなく、大伴細人、智仙娘である。彼女は馬子大臣の文を預かると、早速、檜隈にある彼の屋敷へと向かったのであった。

 一方、新羅の間諜である迦摩多は、泊瀬部天皇に東漢駒との交渉について伝えていた。
「迦摩多とやら。勝手に動くとは如何なる料簡であるか!」
 天皇の怒りは激しいものであった。
 彼にしてみれば、明確な作為のある行動は、後々に想定外の事態に直面した際、取返しのつかない事態になるとの想いがある。
 そこで、彼は作為が露見しない様、蘇我馬子に東漢駒を討たせる以上のことを命じなかったし、片方に特別な配慮などを加えなかった。東漢駒と蘇我馬子、何れが死んでも良いと云うこの微妙な力加減は、彼自身が考えた、最善の介入バランスであったのだ。それを、新羅の使者によって、馬子暗殺と云う単純な謀略にされてしまったのである。
 勿論、一番の不興の種は、自分の制御の外で、この男が勝手に行動したことであり、天皇の地位を蔑ろにされたとの想いが強く彼にあったからに違いない。
 だが、この様な場面を迦摩多は幾度となく経験していた。彼は工作の際、使者に化けることが多い。そして大概の場合、王と云うものは何をしても機嫌が悪いものなのである。
 彼にとって大切なことは、蘇我馬子宿禰に死んで貰うことであり、続いて厩戸皇子を東漢駒に殺させることであった。天皇が如何に怒ろうとも、彼には馬子大臣の東漢駒討伐を延期させる必要があった。そうで無ければ、東漢駒だけが死んでしまうと云う、彼にとって最悪の展開が予想されるのだ。
「恐れながら、蘇我馬子、厩戸皇子、押坂彦人大兄皇子を討たねば、倭に平和が訪れないと仰せになったのは大王にございましょう。戦をさせ、憎くもない東漢駒が討たれるだけでは、何も進展することは無いのではないでしょうか? ここは東漢駒に馬子大臣を暗殺させ、確実に馬子めが討たれるよう、大王が陰より手助けすべきと存じます」
 確かに「三人を殺さねば」などと言ったかも知れないと泊瀬部天皇は思う。そして「憎くもない東漢駒」と云う言葉を聞いて、迦摩多に説明するのが酷く鬱陶しい事に彼も気が付いた。東漢駒が憎いと云う理由を説明する為には、嬪河上娘を奪われたなどと云う不名誉な事実を、再び大陸人の迦摩多に告げなければならないのである。
 結局、泊瀬部天皇は、渋々ながらも迦摩多の策に同意せざるを得なかった。

 こうして、嵐の前の静けさとも云うべき、奇跡の様な平和な時間が過ぎて行った。
 だが、その静寂は、十一月三日、「今日(あずま)の国から調をたてまつってくる」と、馬子大臣が、そう群臣に伝えるまでの、短い間に過ぎなかったのである。
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